大久野島戦後処理の証言・末国春夫

1.大久野島戦後処理に行くまで
 三原市須波出身で、昭和17年(1942年)3月に国民学校高等科2年を卒業した。その年の4月3日、14歳で帝人株式会社三原工場の養成工に入った。養成工を3年で卒業し、帝人ではレイヨンを作るためのパルプをビスコースにするまでの機械の据え付けや修理をしていた。

2.なぜ大久野島に戦後処理にいったのか
 大久野島に行くようになったのは、帝人三原に勤めていたからで、帝人から船(LST船)への荷物の積み込みを容易にするために、船の部品を取り去ることを目的として、大久野島へ働きに行った。
   
《戦後処理作業員北部海岸に上陸》

 敗戦後の当時は、復員者が多く、仕事がないので、現地で募集するなどいろんな人が戦後処理で大久野島に行っている。私は帝人三原から、「大久野島に行ってくれ」と言われた。「船に爆弾を積みやすくするために船の部品をとり、積み込みを容易にするために仕事がある。行ってくれ。」ということだった。
 帝人三原からは機械部門と製造部門の人が大久野島に行った。機械部門は250人くらいいて、そのうち200人くらいが大久野島に行った。製造部門は何人来たか分からない。ただ、大久野島に行ったら、「作業服がようけ(たくさん)あるぞ」、「アメリカの上陸用船艇がきとるぞ」ということは聞いていた。「珍しいものを見に行こうか」、「会社から行けいうんじゃけんよけいええわ」と思っていた。

《 上 陸 用 船 艇 》

 アメリカの上陸用船艇は2000?クラスで大きかった。私は須波町に住んでいた。戦時中は須波の沖を御用船がごってり(多く)通った。通っているときに、「あの船は○○?」とか言って、友だちと遊んでいた。しかし、全部海の藻屑になった。御用船も大きかったが、戦争が済んで「大きなのが来とる。こりゃなんじゃい。」というとアメリカの上陸用船艇だということだった。今日乗ってきたフェリーよりだいぶ大きい。だから、「こんなんでやられたら日本は負けるわい」と思った。
その上陸用船艇には、いまの2?トラックより大きいトラックが相当入っていたが、いつの間にか帝人三原に持って帰っていた。

3.大久野島のことを覚えているのは
 戦後処理ではいろんな人が大久野島で働いている。私の場合は、大きな怪我をして傷があるのである程度は覚えているが、その他の人は、「大久野島には毒ガスの処理にいったな」とか、「船の修理にいったな」とかいう記憶しかないのではないかと思う。

4.戦後処理ではどのような仕事をしていたのか
 私は、大久野島で船の機械の必要な部品を帝人に頂いて帰るのと、毒ガスを積み込むのを容易にするための船の部品(ファンとか、船に水が入ったときに取り出すポンプ・手すりなど)の撤去作業をしていた。
 昭和21年(1946年)5月に大久野島に来て、実際は6月くらいから作業をし始めた。毒ガスを船に積み込み始めて、船の部品の「これがじゃまになるので取れ」といわれると、ガスで溶断して部品を取っていた。毒ガスの処理よりも船の部品を取ることが目的だから、毒ガスの処理のことは詳しくは知らない。私が見たのは、LSTに爆弾はじかに積み込み、赤筒などだろうと思うが木箱に入って積み込んでいた。
   
《毒ガスの詰め込み作業》

 また、被毒した後は大久野島を去っているのでそれから後のことも知らない。 毒ガスをどこかに埋めたと言うが、埋めた人たちはたぶん帝人三原の製造部門の人たちだろうから、その人たちに聞けば埋めた防空壕なりが分かるのではないかと思う。でも、私はその時はベットの上だった。

5.毒ガスの認識は
 海岸に積まれていた爆弾からアイスクリームのようなものが出ていた。でもその時は、「おいクリームがあるぞ」と職場のみんなと冗談半分に言っていた。
 これはおかしいなと思ったのは、LSTをつないでいる沖の方で、ドラム缶から何か液が漏れていたのだろうと思うが、誰かが海に投げると魚が浮いてきた。「あ、こりゃひどいど」、「こりゃ何で」と思った。しかし、そう深刻には思わなかった。敗戦後すぐのことだが、沼田川よりちょっといったところの小さな川の、うなぎがたくさんいるというところで、劇薬を入れてうなぎを捕っているのを聞いたから、この魚が浮いたドラム缶の中の薬をまくとうなぎが取れるぞというくらいしか認識がなかった。毒ガスがどれくらい恐ろしいかはぜんぜん思わなかった。
 作業の現場監督も帝人の社員で、戦争から復員してきた専門学校卒がしていた。しかし、いくら専門学校卒だといっても、毒ガスのことは知らない。普通の会社にいた人が、機械を動かすために来ていた。帝人の機械部門と製造部門の人たちはある程度の科学的なことはわかるが、毒ガスの事は分からない。それに、毒ガスは戦争中はシャットアウトして民間の人には知らせなかった。ここで毒ガスを製造していたことがわかったのは終戦後で、忠海の高い山の黒滝山に登っても、「大久野島は絶対に撮影するな」、「大久野島を見るな」と言うことだった。
 このような知識のない私たちでも、帝人の社員として機械部門と製造部門が処理をする内容は、その職種により分けられた。製造部門は薬品関係を使うだろうから、毒ガスのことはわかるだろう。機械部門は機械を動かすということで、大久野島での仕事が帝人の職のまま分けられた。
 また、帝人は戦時中の海軍の特効薬を丸秘で作っていた。何に使ったかは知らないが、それを作る機械を据え付けたのは、私たち機械部門だった。海軍の特効薬とは、特殊潜航艇につみこみ、沖縄などに突っ込んだときに爆発する火薬か何か薬液ではなかったかと思う。製造部門のわずかな人が知っているだけだったろうが、製造の人はこのような仕事をしていたので、毒ガスに対する科学的なことは分かっていたのではないかと思う。

6.どのような服装だったか
 大久野島に行ったら、ようけ服があるぞと言われていたが、私たち機械屋には支給される服はなかった。帝人の報告書に「白い作業服と防毒マスクを装着し、訓練を毎日やる」と書いてあるが、それは帝人の製造の人の服装だった。製造部門の人たちは、帝人の会社の中でも、服を支給されていた。それは、作業中に、会社で必要な薬品の酸でやられると木綿はすぐにやられていたからである。油や汚れは洗えば直るからと、機械部門には服は支給されなかった。それが、大久野島の毒ガス処理にも同じように考えたのであろう、私たちは普通の服装で素手だった。
 帝人三原では、ビスコースを濾過するところでネルを使っていた。それで3本指の手袋はあったが、それはよっぽどのことがないとくれなかった。靴はなく、下駄か草鞋で、割下駄というものもあった。割下駄は畳表で編み、ひもをつけて下が割ってあった。支給される服がないので、暑いこともあり、裸で処理作業する人もいた。

7.被毒した様子
<1回目の被毒>
 大久野島に来たときに、各島々から持ってきた爆弾をそこらにずっと並べていた。船に積み込んで捨てるのだなという記憶はある。木の箱は、船に積み込んで置いてあった。
 
 ある時、ガス溶接の火花がその木の容器に散って火災になった。当時はやはり徹夜で、突貫に次ぐ突貫だから、5.6人で作業をしており、船に防火設備はないので、船から下りて、砂と潮水をバケツでくんでかけた。その時に煙を吸ったので声帯をやられた。防毒面でもあればしていたが防毒面はなかった。また、身体全体が一皮全部むけた。そして、黒くなった。その時以来こういう声になった。現在は、四季の変わり目の特に春先、木の芽立ちが一番悪い。

<2回目の被毒するまで>
 7月29日朝、前日の台風の後、大久野島に仕事に出かけた。いつものように、大久野島の見える桟橋を降り、工場地帯を通って少しいくと(今の三軒家から野球場までの間)、ウイリアムソンが私の右肩に拳銃を突きつけて、「ハバハバハバ」とどなった。ウィリアムソンは日本語が分からなかったから、船が流りょうる(流れている)と言いたかったのだろうが、我々には分からなかった。しかし、ウイリアムソンは短気だったし、漁船が小久野島の方にいるとき、拳銃をパンパンと撃って水しぶきがあがることもあったので、「こりゃ撃たれたらいけん」とまだ若いから飛んで逃げた。   
 自分の持ち場であるLSD船の近くに来ると、2艘繋いである東側のLSD船のワイヤーロープが切れて流れかけていた。まだあまり沖合ではなかった。そのときは、多分満潮で海岸の上の方まで潮があった。その海岸は、緩やかに下がって、少し行くと急に淵になっている。ワイヤーロープは淵まで行っていなかった。
 私の直属の上司であるMさんは新婚だった。「伝馬船を用意せい」というので近くにあった伝馬船を持ってきた。その人と4人くらいで伝馬船に一緒に乗って少し沖に行くと、船をつないでいたワイヤーロープの切れたものが底に見えた。高圧線かどうかは分からないが、電気がスパークしていた。しかし、ワイヤーロープをとるのが先決だった。上から見えるワイヤーロープを「だれかがとりにいかんかな」といったところ、上司が飛び込むという。台風のあとの波が荒いこともあり、また上司にいい格好を見せようと思い、「あなたは新婚だから行かなくていいです。私が行く」といってあの当時パンツ一丁で飛び込んだ。それが大失敗の元だった。
 あとで左上の方でおそらく上が平らになっているだろうと思うが(北部砲台の方を指さした)、そこから内径が2インチだから5センチくらいで、外径はもっと大きいパイプが船に来ていた。そのパイプが切れていて、それから毒ガスが吹き出て、海に毒ガスが充満しているかどうかは分からなかった。でもやられたところを見ると、毒ガスが海に充満していたのではないかと思う。
 私が持ち上げたワイヤーロープを船の上に揚げて、細いロープにくくりつけて、海岸に持っていき、100人くらいが綱引きのように船を引っ張った。それで船の流失を防いだ。でも、船はだいぶ傾いていた。このときの100人くらいの人の中にも、風で毒液がちって被毒した方がいたのではないかと思う。
 海につかっている時間は長くても10分もなかったと思う。あるいは5分くらいだったかもしれない。ぽっともぐって持ってあがっただけだったから。「よく潜ってくれた」と、昔で言う係長が芋で作ったけっせん食を特別にくれた。

<被毒後の夜中>
 船の流失をとめたあとも、普通の仕事に戻った。当時は徹夜の作業をしており、当日もその後徹夜になった。少し離れたところに更衣室がある。この島ではアルコールを原料で使っていた。帝人の偉い人が、「疲れを直すためにはアルコールがよい。アルコールを取ってこい」と言ったので、選抜隊5.6人でアルコールを取りに行った。12?くらいの丸いボルトでマンホールを締めていた。それを力任せにスパナで全部あけ、サイローム缶がようけあったので、それですくうて取って帰った。
そのアルコールには砂糖を入れたらおいしい。それを入れたら疲れなおしになる。上司は「ようとって帰った。飲みなさい。」言うたが、私は飲めなんだ。そうするうちに、かゆくなって、今ここ(指をさわりながら)に傷が残っているが、これが痒くなり、みるみるうちに水疱ができた。ここら全体(腹をさわりながら)を火傷している。両足、肩なども。それをやられているのを分からんうちに12時くらいに症状がでてきた。そのまま仕事をして、どうもえらい(しんどい)から「ちょっと休ませてください」とお願いして、休ませてもらった。

<被毒後の朝>
 水疱は夜中すぎて出た。アルコールを取りに行ったときはまだできていなかった。寝て起きたら、みな水疱になっていた。近くに療養所があり、そこで治療をしてもらって家に帰った。治療は、水疱に注射器をさし、水を抜くくらいのものであった。現在は、冬が来ると右肩が針を刺すようにいたい。

8.入院したときの様子
 私は松山に行って肥えたが、それまでは痩せていた。だから、傷がよく分かった。今その傷が針で刺すように痛む。向こうへ行きょうた(死んでしまう)のがよく帰った。働いていた人から、「末国はもうだめで(死んでしまう)」と言われたこともある。あれから50数年になるが、まだ生きている。
 被毒してから1週間くらいは、須波から三原までは近いので通院した。それでも、帝人病院からの帰りに帝人橋を出たところで一服して、三原駅(2キロくらいある)まで2~3回休んだ。それから汽車に乗って須波駅に行き、家まで何回も休んで、という状態だった。「こりゃかなわん」ということで、先生に「入院させてください」と頼んだ。入院した晩にガーゼ交換をやってもらうのが3時頃。意識がなかった。膿んでいるし化膿しているのでガーゼをとるのに大変だった。闘病生活50日でやっと傷が癒えた。帝人病院も男子の病棟は、ここ(大久野島)の作業でやられている人でいっぱいだったので女子の病棟にいた。3日3晩くらいは痛いから「殺してくれ」とずっとおらび(叫び)続けていた。声がかれるくらい「殺してくれ」、「殺せ」といよった(言っていた)らしい。
 殺せという時期が済んで、傷がだいぶ癒えたとき、親戚の人たちが見舞いに来たが、ガーゼ交換の時に化膿して膿みが出ているから、そこをよう見なんだ。それくらい傷がひどかったから、殺せとしか言いようがなかった。大久野島の工員も障害がひどい人は「殺してくれ」いうてよった(言った)らしい。親兄弟も見捨てて、「こんな(この人)は命がない」と諦めていたところを、私は生き返った。あの暑いときで、薬も当時はない。つけるのは白ペンみたいなものでしゃあとつけるだけで、今でこそ火傷をしたら水で冷やしたらいいとか、氷で冷やせとか言うが、あの当時は全然そういうのはない。だからよく生き返った。院長が盲腸専門の高木さんだったが、「あんた悪いんだが、10年くらいしか生きんどな」と言った。「ほうですか(そうですか)。10年くらい生きりゃいい」と思った。あれから50年たってまだ命があるからいいなと思っている。
 50日の入院で、皮膚ができて膿まなくなった。当時、帝人三原は盆踊りを派手にやっていた。だから、夏は太鼓の音がうるさくて、夜寝られんかった。
 私らは、敗戦間際はまだ坊主(若い)だったが、上司や先輩は皆戦争へ行っていた。そして、私が一番上になっていた。敗戦の年、私は徴兵検査を受けて甲種の海軍予科練飛行兵へ通っていた。戦争がもう少し長引けば、沖縄に飛び込んでいたと思う。その戦争で死ななかった罰が当たり、この大久野島でやられたと思う。
 8月中頃、アメリカのウィリアムソンが帝人のおえらいさんをたくさん引き連れ、ネーブルをもってお見舞いに来た。第一次毒ガス処理作業で、「LST船に毒ガスを満載し、土佐沖でバーンといわした。」「うまくいった」と報告があった。
  
《毒ガスを詰め込んだ船の出航》
9.戦後補償まで
 私の場合は帝人三原から働きに行っていたので、公傷扱いとなった。当時、労働基準法が整備されていなかったが、公傷と言うことで、賃金は保障されていた。だから、賃金は心配しないで良かったが、傷に対して何かあるということはなかった。労働災害もなかった。今だったら相当なものではないかと思う。
 毒ガスの健康管理手当も、それを申請するのも帝人はノータッチで自分がしなければならなかった。私は労働組合の全帝人中央委員会議長になったときに、毒ガスを何とかしないといけないとずいぶん動いたが、相手にしてはくれなかった。大企業はお化けみたいな所だと思った。健康管理手当も全然なかった。ただ、広島県の原爆対策課が帝人にいた在籍証明書を持ってこいといいうことで出していた。
 手当を頂いたのは、昭和63年(1988年)から。現在松山に住んでいるが、毒ガス問題は何とかしなければならない問題と思っていた。忠海に来て、忠海病院に行ったとき、帝人から大久野島で働いた人がたくさんおられた。「毒ガスにやられている」と言うと、「救済制度がある」と教えてくれ、分かった。だから、三原におる人よりも救済はだいぶ遅かった。

資料 【大久野島毒ガス処理従事申し立て事項】   末国春夫
昭和59年11月30日提出

 敗戦後の昭和21年(1946年)に連合軍総司令部(GHQ)の命令により三原帝人が現在の広島県竹原市忠海町沖の大久野島の毒ガス処理した。当時、イギリス軍が3年間を予定していたものを1カ年に短縮して強行され、連日にわたる夜を日についての突貫作業であった。
 私もこれに参加し事故に遭い、2度にわたって怪我をした。最初の事故はアメリカ軍の上陸船艇(LST)に積載された毒ガスを入れた容器にアセチレン溶断の火花が散り、引火し火災となった。
毒ガスに対する知識も経験もない私は、燃えさかる毒ガスに保護具も着用せず無防備で立ち向かって行き消火活動を行った。そのとき、船内に充満した吐き気を催す毒臭に堪えて作業をした。この事故で、私は大量の毒ガスの煙を吸ったために音声に異常をきたし、声はかすれしわがれ声となった。また、咳がよく出るようになった。現在では喘息患者のように、毎日昼夜の区別なく連続的に咳が出る。特に夜中に目がさめると咳き込んで呼吸が苦しくなる。その咳のために家のものが眼を覚まし、私の背中をさする状態が続いている。また、四季の変わり目には毎年のように声が出なくなる。尚、この事故の時に私の身体全体の皮膚は黒くなり、一皮全部剥離した。
 2度目の事故は私にとって一生忘れる事の出来ない大火傷である。それは昭和21年(1946年)7月28日夜中より台風が襲来し、翌朝大久野島に出勤してみると船(LST)をつないだワイヤロープは切断し錨も切れ、船は沖へ漂流し、非常に危険な状態であった。私は大急ぎで伝馬船に乗り、海中に潜り、切断されたワイヤロープを拾い上げ船の流出を防止した。もし、船が沖に流れ転覆すれば、瀬戸内海に毒ガスが流れ大事故になる危険性は十分にあった。
 その時に、陸と船間に毒ガスを輸送するパイプが切断破損し、海面には大量の毒ガスが漏洩していたのも知らなかった。その毒ガスが私の身体に附着したのも知らずに作業に入った。その日は徹夜で、夜中の休憩時間に身体がだるく異常を感じるようになった。右手の指間は赤くふくらみ、腹の中心と左横腹、右背中、右肩、両足の脛などは水脹が出来て激痛を感じるようになった。
 翌朝になると、火傷の傷口は激痛を増すばかりで、大久野島の診療所に行き、応急手当をしていただき帰宅したが、高熱と激痛のため眼留事が出来なかった。
 翌朝、三原帝人病院で手当をして貰ったが、火傷の水脹はひどくなるいっぽうであった。数日後には傷口が化膿し、激痛は増すばかりであった。治療のガーゼ交換の時は、あまりの痛さのために自分の意識を失い、数分後自分に戻ると傷口が痛く、病院のベッドの上で殺してくれと泣き叫び苦しんだ。
(聞き取り 2000年6月17日)