崔英勲 1950.8被毒

日 時  1997年8月3日(日)
 ハルピン市の崔英勲の自宅にて
       
1.崔 英勲の証言
 私は崔英勲といいます。ここにいるのは妻の王淑謹と長女の崔為、次女の崔琳です。私は2人の先生が、今やっている被害者への聞き取りはとても有意義であると思います。若い世代に旧日本軍のいろいろな罪行を語り継がれること、それはとても重要であると考えております。

 私が被毒したのは1950年8月末頃だったと思います。その時、私はチチハル(斉斉哈尓)第一師範学校で化学の教師をしていました。夏休みが終わり、学校の授業が始まったばかりのときでした。学校の校庭の南の敷地に建物をつくるために、土を掘り返した時に毒ガス缶が見つかったのです。その土を掘ったとき、丸いバケツみたいなもの2つが見つかりました。大きさはドラム缶くらいで、高さ1m、色は灰色をしていました。このドラム缶は普通のと違って凹型をした蓋があって、そこに3つの大きなネジがありました。

 その時、土を掘った従業員がその蓋を開けたので、中に液体があることがわかりました。ある従業員は、この液体が何かわからないから湯呑みですくって少し飲んだ。変な味、匂いがしたから、その茶碗を地面に落とした。そして、その従業員はそのまま自分の宿舎にもどりました。その液体は何だろうか。周りの従業員はその液体がなにかわからない。みんな迷っているところ、ある学生が茶碗に半分位その液体を入れて自分の化学の先生であった私(崔先生)にどんなものか検査をしてもらいにいった。その時、私は教官室にいなかった。学生はその茶碗を教官室に置いてそのまま帰った。私が教官室に戻ったとき、隣の先生がある学生が持ってきた変な液体でどういうものかみんなわからないから、先生に調べてもらいたいと言ってきたと話した。

 私はテーブルに置いてある液体をみて調べたが、化学の先生であってもやっぱりわからない。その色はあさい黄色で、油みたいな液体だった、薄いけど。チーズチー(イペリット)は授業の中で学生に紹介したしたことはあるが、自分自身は目で見たことはなかった。機械に使う油かなと考えた。そして、チーズチーと知らないし、どういう感覚かわかりたかったから、少し自分の指につけて皮膚で試してみた。指で少しその液体をつけて腕や手の甲などあちこちに付けた。両方の手や腕に付けた。

 初めて付けたときは全然変な感覚がなかった。痛みとかも全然感じませんでした。それから2時間後、付けた皮膚のところにはもう赤くなった。そして、汗みたいな疱が出た。汗だと思ってハンカチで拭いたんですけど、また出る。拭いても拭いてもまた出た。3時間後になると、さっきのより少し大きい疱に変わった。水疱がだんだん大きくなり、付けたところ一杯に広がった。それを見て、それは毒のある液体だと初めてわかった。

 中毒だとわかって、自分の家に戻らないで学校の寄宿舎に泊まった。家に戻って家族に伝染したらこまると、心配だったからです。そして、自分の中毒はいったいどういうものであるか知りたいから、本とか字引とかいろいろ調べてみたが、普通の本とか字引の中にはなかった。最後に、「防毒化学」というテキストの中で、自分がチーズチー(イペリット)中毒ということがわかりました。

 もともと、自分が化学の先生としてチーズチーは気体だと思って、液体ということは全然知らなかった。今度、そのテキストを見て、中にチーズチーは透き通っている液体と書いてあったから、初めてチーズチーも液体であるということがわかりました。その本によると、チーズチーというものは無色・透き通っている油みたいな液体で、燃えることができて、燃えたら黒い煙が出ます。そういうことも本の中で紹介されていました。その本にチーズチーは芥子の匂いがすると書いてあった。それを見て、自分で嗅いでみた。確かに、芥子の匂いがあることがわかった。茶碗は教官室にそのまま置いてあった。

 そして、いろいろチーズチーの紹介をみて、自分でさっき付けたものはチーズチーかどうかを自分で知りたいと思った。だから、ビールビンの蓋に液体を入れ、火を付けた。その液体は燃えて黒い煙がでた。まったく本の紹介と同じであることがわかって、自分がチーズチーの中毒者であることもわかった。本の中にも、チーズチーを皮膚に少し付けたら、始めのうちは全然感覚がないということもちゃんと書いてある。その時、自分の腕に付けたものはチーズチーだと確信した。本の内容によると、チーズチー中毒したらすぐ化学液体でさっそく洗ったら、防ぐことができるということであった。学校に泊まった夜、両手・両腕のあちこちに大きい疱が出来た。この疱の大きなものは肉まんじゅうくらいのものもあった。

 今度のチチハル第一師範学校の被害者は私を含めて8人です。工事関係の従業員2人、学校の教職員6人が被害にあった。茶碗で運んできた学生は被害にあわなかった。翌日の朝、被害者の8人はみんな病院に行きました。液体を飲んだ従業員は、夜ぜんぜん寝られないで痛くて叫びながら朝になった。そして、もう歩けないほどの状態であった。小さい押し車に乗って病院に行く途中で死んだ。飲んだ従業員が死んだのを見て他の7人はみんなあわてたが、どうすればいいのかわからないから、みんなは本当に心から恐れました。

 病院に着いて、まず皮膚科でいろいろ診断をしてもらいました。ですが、お医者さんはこれがどんな病気か知らないし、治療したこともない。体験したことがないから、みんなの被害がどういう被害であるかもわからなかった。その時は1950年で、日本の敗戦後5年しか経っていなかったので、その病院に2人の日本の軍医さんがいました。敗戦後も日本に帰国しないで、この病院で勤めていました。皮膚科のお医者さんはどういう病気かも被害状況もわからないから、2人の日本の軍医さんを探してきました。日本の軍医さんは、その症状をみて、イペリットの被害だと言いました。それで、被害者たちはみんなチーズチー(イペリット)被害であることがわかりました。

 そして、その被害者たちはみんな入院しました。被毒したところは疱が大きくなって、指もはれあがって痛くて我慢できないほどの痛みでした。それをみて、お医者さんは火傷として治療をしました。大きな疱をはさみで切って、中の水を全部だした。そして、肝油という軟膏をつけ、包帯をまいた。しかし、朝になると包帯をまいたところにまた疱がでた。そして、また前回みたいに水がでるように疱を切って包帯をする。このようなことを何回も繰り返した。このようにして1週間がたった。疱の中から出た水を、もし被害していない人に付けたらビランしはじめます。第2週目になると、すでにビランという症状が出ました。ビランした後、化膿します。ですから、お医者さんは無菌の水で洗って消炎の薬をつける、そのように治療しました。

 第3週目に入っても、まだ化膿が続きます。熱もあるんです。毎日、病院の外科(皮膚科)に行って、洗ったり薬を付けたりしました。そして、熱も高く、眠れない、頭も痛いという状態でした。お医者さんの話によると、この時期が1番危なかった(死の危機)そうです。2週間から3週間のところが。

 私の被害は(死亡の人を除く)7人の中でわりあいひどい方でした。両腕は全部ビランして、骨が見えるほどでしたし、神経もやられています。今の状態は50年以上たったのではっきり見えないですけど。その時は包帯で吊して歩かなければいけませんでした。腕を下げたら痛くて我慢できないので、腕を下げないようにしていました。そして、綿入れとかは着ることはできませんでした。綿入れと皮膚が摩擦して痛むからです。

 毒ガス剤の入った缶が見つかった時、暖房の修理工をしている従業員はチーズチー(イペリット)という液体のことを知らないから、自分の身体のいろんなところにつけた。腹のところも、腕も小便のところも付けたんです。だから、ひどかった。チーズチーはつけたばかりのときは何の感覚もないですから、痛みとかも全然ないです。その間に、脛下の下にある脂肪に侵入する。チーズチーの嫌なのは、火傷みたいだからちょっと治療を受けたら直せるように思います。しかし、チーズチーの被害はずっと続いてなかなか直せない、そのことが一番の悩みです。しかも、脳の神経が痛いという症状があった。

 また、王という教職員はその液体を手で腹につけたため、腹と手がビランした。その手で子供の頭をさわった。だから、子供の頭がビランした。順番でいうと、死んだ人が1番ひどい。その次は暖房を修理している人、次は崔さん、その次は王さん、あと残っている4人は軽い。
 その時、黒龍江省衛生庁の人が被害のことを知って、わざわざチチハルに来た。ゴム手袋をつけてチーズチーをいろいろさわった。そのため、チーズチーの毒が強すぎるからゴム手袋にあなが開いて軽い被害を受けた。

 私たちは、入院して3ヵ月くらい治療を受け、だんだんよくなりました。ただし、大分直ったんですけど徹底的には直せない。退院しても仕事が出来なかった。頭もときどき痛い。それで、北京の病院で2ヵ月入院し治療を受けた。

 被害を受けて、後遺症がひどい。指がまがり、化学の実験が出来なくなった。身体が不自由な人になった。体育が好きでよくしていたが、出来なくなった。冬になると寒さに弱い。注射するとき血管に針が入らない。脳神経に影響がある。記憶も弱くなった。授業に影響している。今は教授の待遇だが、授業が出来ないため副教授にしかなれなかった。チーズチーは私の人生を変えた。

 戦争は両国の人民に残酷なものだった。2度と戦争をおこさないよう戦争の真実を伝えていくことは大事なことだと思う。その中で、両国の友好な関係を築いていってほしいと思う。

崔 為(長女)の証言
 父は不幸な人だと思う。戦乱(戦争中も刑務所に入れられている)と戦後のチーズチーによって人生が変わった。苦しんでいる人だと思う。現在81歳になり、半世紀がたった。父のような被害者を2度と出さないようにしてほしい。家族として中毒の救済をきちんとしなければいけないと思う。
 父には前もって教えられない。気持ちが激しくなる。1週間前には連絡を受けていたが、本人には今日みなさんが来る直前に伝えた。
 戦争賠償が可能であれば要求したいと思う。