「取材ノートから」 広田恭祥

「取材ノートから」   中国新聞竹原支局   広田恭祥
 
「荷物を降ろすどころか、重い課題を背負って帰る旅ですよ」。北坦村で毒ガス被害者に会い、謝罪の気持ちを伝えたばかりの藤本安馬さんに、「肩の荷が下りましたか」と声を掛けて即座に返ってきた言葉である。「この旅は出発点だ」という、最年長の藤本さんの姿勢にハッとした。私自身、今回の旅では、旧日本軍の侵略の爪跡と毒ガス被害の現場を訪ね、今なお癒えない悲しみや訴えにふれることができた。歴史を学び、日中友好と平和を築いていく決意をあらたにした。取材ノートに記した、訪中メンバーや出会った中国の人たちの言葉は、ずしりと重い。ここに記しておきたい。

藤本安馬さん(8月17日 出発前の広島空港。北坦村へ旅立つ気持ちを聞かれて)
「そりゃあ、しんどいですよ。被害者の前で、加害者(自分)が証言するなんて。毒ガスを造った人間も同罪です。ときの権力に加担した私自身、以前の体質から変革できるかの挑戦なんです」

山内正之さん(17日 上海に向かう機内。旅のいきさつを聞かれて)
「若手会員が本屋で北坦村の本を見つけて大久野島との関係を知り、ぜひ行ってみたい、と提案したのがきっかけです。藤本さんは入院のために別の中国訪問を断念した経緯もあり、今回の訪中を強く望んでおられました」

今関信子さん(17日 上海から南京へ向かうバス。参加の動機を聞かれて)
「3年前に大久野島を訪れ、(元養成工員の)村上初一さんを取材しました。あの島で造られた毒ガスが、一体どこへ行ったのか。その先を知りたいと思いました。これまでに地雷の問題を取材し、本にする中で、戦争を自分で書かないといけないという気持ちになってきたんです。生き方を定め、どう取り組むのか。へその下に力が入った感じです」
      (児童文学作家として表現の難しさについて)
「人から聞いたままでは、伝わりません。できるだけ自分の体験にして、言葉を実在させていかなければならないと思います」

山内静代さん(17日 上海から南京へ向かうバス。毒歴研設立のきっかけについて)
「竹原にとって、原爆は遠いことでした。でも実際には、原爆、そして戦争は、遠い、近いの問題ではないことに気付きました。毒歴研は、自分の足元にある戦争を掘り起こそうというのが出発点。関係者から聞き取りをして、記録にまとめていく。歴史を知ることが、考えるきっかけになるんです。だから、大久野島の存在を消してはならない」
      (教育と戦争について)
「なぜ戦争を止められなかったのか。あの時代の先生を心のどこかで批判していた自分がいました。それがもし今、わが身にふりかかったら。仕方なかった、ではすみません」

侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館の朱成山館長
(18日、記念館での追悼式で、「大久野島の歌パート2」を聴いて)
「初めて聴いたときも感動しました。勇気をもって謝罪の意を表しているからです。人間にも、国にも、間違いはあります。それをどのように認め、謝罪するのか。そこに勇気があるのだと思います。中日友好と民族の和解は実現するでしょう」
(記念館内の応接室。証言者の常志強さんを紹介して)
「われわれは歴史の過ちの中から学ばなければなりません。ヒロシマ、ナガサキ、大久野島の教訓も同じです」

都築寿美枝さん(18日、常志強さんの証言を聞き終えて)
「再び繰り返さないよう、一言一句もらさずに受け止めて、日本の次の世代に伝えていきます」

侵華日軍南京大虐殺偶難同胞紀念館職員の常嫦さん(18日、紀念館訪問後の昼食会で)
「これまで企業で働いたこともありますが、記念館で通訳の仕事をしているのは、日本と中国の間の交流に役立てばと思うからです」

藤川末子さん(18日、南京から北京へ向かう機内。南京訪問の印象を聞かれて)
「戦争で傷ついた子どもたちの姿に言葉を失いました。自らの欲望を満たそうとして人間は鬼になる、戦争の怖さを感じました。ひん死の子どもたちは、原爆で犠牲になった日本の子どもや母親の姿と重なりました」

岡本恵子さん(18日、同じく印象を聞かれて)
「自分の目で見たことを伝えなければならないと思います。証言者の心情を思うと辛くて、辛くて。自分の子どもから孫へと、どんな歴史があったかを知らせなければ」

河北大の陳俊英教授(18日、北京空港から保定市へ向かうバス。自己紹介を兼ねて)
「歴史に対して、若者たちの関心が低くなっていると感じます。歴史の真実を教訓として伝える義務が、われわれにはあります。私は比較教育学の研究をしていますので、中国と日本の掛け橋の役割を果たせればと考えています。幼いときから中日友好を学ばせ、大学生レベルの交流も進めたいと思います」

北坦村毒ガス事件研究会の李振忠会長
     (19日、定州市役所。藤本安馬さんから謝罪の言葉を聞いて)
「そうおっしゃられると、とても複雑な気持ちになります。毒ガス製造者も被害者です。藤本さんは高齢なのに、わざわざお越しいただいて感謝しています」

今関信子さん(19日、定州市役所。李振忠会長たちへの最後のあいさつで)
「言葉に詰まるほど、重いものを引き受けていると思います。戦争の体験をどのように伝え、橋渡しの役を担っていくのか。歴史の事実を子どもたちに伝えていきたいと思います」

藤本安馬さん(19日、北坦村の霊園。李慶祥さんに謝罪した後、バス車内で)
「毒ガス被害者に会って謝罪したことで荷物を降ろすどころか、重い課題を背負って帰る旅です」

松田宏明さん(21日、北京のホテルで。旅の感想を聞かれて)
「事実を事実として認めない、人ごとで済ませてしまう。そうした日本の体質を今も引きずっていると感じました。(南京などで)毒ガスによる土壌汚染や地下水汚染の問題は今後も続く可能性が高い。日本側は可能なかぎり資料を提供すべきです」

陳俊英教授 (21日、北京のホテルで。日中関係について)
「中日両国の関係は難しい状況ですが、それを乗り越えるのは藤本さんのような姿勢ではないでしょうか。中国には、『星星之火 可以燎原』という言葉があります。小さな火も、日本全体を変える力になるはずなのです」

都築寿美枝さん(22日、上海抗日記念館を見学して)
「慰安婦として被害を受けた方々は大半が亡くなられていると思います。日本政府は謝罪をして、人権を回復すべきです。現在でも、性暴力被害はあります。それを止めさせるためにも、歴史の事実をきちんと位置づけ、教育する必要があります」

今関信子さん(22日、上海浦東空港へ向かうバス。旅の感想を聞かれて)
「一人一人が全体の空気をつくるのだから、ぼんやりしていてはいけないと感じました。証言を聞き、人間の弱さ、崩れていくさまを目の当たりにしました。『危ない』と感じたところで踏ん張り、人間性を失わない空気を保ち続けなければなりません」

藤本緑さん (26日、帰国後、自宅で旅を振り返って)
「父なりに謝罪した思いは理解できます。でも、父だけが謝ることはない、と腹立たしさを感じたのも事実です。日本政府こそ、謝罪をしなければならないはず。それも言葉だけではなく、真の友好のために、国民すべてに歴史の真実を知らせる責務があります」