「北担村陵園修復募金活動と清明節への参加」 山内正之

北担村陵園修復募金活動と清明節への参加 山内正之

第3回日中友好平和学習の旅を終えて。

 2004年8月19日私達毒ガス島歴史研究所の会員を中心とした日中友好平和学習の旅、訪中団は北坦村の陵園で毒ガス虐殺事件被害者の追悼式をおこない、村人の前で謝罪の気持を述べた。そして、大久野島で毒ガス製造をした加害者とその毒ガスによって1942年日本軍の毒ガス攻撃によって家族を殺され、自らも負傷した被害者との交流をおこなった。

 帰国に際し、私達は大きな課題を背負っていた。私達はただ、言葉で謝罪の気持を述べるだけではなく行動によって謝罪の気持を伝える必要があった。帰国したらすぐに取り組まなければならない二つの課題があった。北坦村攻撃に使われた毒ガス(赤筒)は歴史的経過から考えて大久野島で製造されたものに間違いなかった。北坦村の住民を虐殺した毒ガスを製造した大久野島のある地域の人達はその歴史的事実を知らない人がほとんどだった。まず、大久野島のある地域の人達に北坦村の毒ガス虐殺事件を知らせることが課題であった。

 もう一つは北坦村の住民の願いである毒ガス攻撃による犠牲者の祀ってある北坦村の陵園の修復に協力することであった。攻撃に使った毒ガスを製造し加害責任のある大久野島の地域住民が金銭的には微々たるものではあるかもしれないが謝罪の気持を込めて修復に協力することが大切であると考えた。

報告会と陵園修復募金活動

 北坦村虐殺事件の歴史的事実を地域住民に知らせるために、8月の北坦村訪問の報告会を開くことにした。できるだけ多くの人に集まってもらうには毒ガス島歴史研究所の力だけでは不十分だった。竹原市内の民主団体が共闘して組織している「平和と人権実行委員会」の力を借りることにした。報告会は旅の終了後できるだけ近い月日が良いことは確かだが、まずはできるだけたくさんの人が集まれる日に行うことにした。

 北坦村陵園募金については7年前から陵園修復協力募金に取り組んでおられる東京の三光作戦調査会に連絡を取り、協力して取り組ませてもらうことにした。北坦村陵園修復募金活動は2005年1月から開始、毒ガス島歴史研究所の会員を中心に呼びかけた。

 2005年2月5日・6日に「平和と人権fromたけはら」が開催された。大久野島に関する写真や資料と一緒に、第3回日中友好平和学習の旅の写真を展示し、北坦村での追悼式、被害者・加害者の交流の様子を写真パネルにして掲示し、参加者に見てもらった。

 2月5日には中国遺棄毒ガスに関する映画会を行ったが、その映画会の前に、北坦村訪問の旅の報告をさせてもらい陵園修復募金のお願いもさせてもらった。映画会は「にがい涙の大地から」という海南友子監督の中国の遺棄弾・遺棄毒ガス被害者のドキュメントを上映した。この映画も戦後の出来事とはいえ、大久野島で造った毒ガスが原因の事件であり、大久野島の地元の住民にはぜひ見てもらいたい映画であった。

昨夏の北坦村訪問の旅の写真展         

 2005年2月5日・6日に「平和と人権fromたけはら」が開催された。大久野島に関する写真や資料と一緒に、第3回日中友好平和学習の旅の写真を展示し、北坦村での追悼式、被害者・加害者の交流の様子を写真パネルにして掲示し、参加者に見てもらった。

 2月5日には中国遺棄毒ガスに関する映画会を行ったが、その映画会の前に、北坦村訪問の旅の報告をさせてもらい陵園修復募金のお願いもさせてもらった。映画会は「にがい涙の大地から」という海南友子監督の中国の遺棄弾・遺棄毒ガス被害者のドキュメントを上映した。この映画も戦後の出来事とはいえ、大久野島で造った毒ガスが原因の事件であり、大久野島の地元の住民にはぜひ見てもらいたい映画であった。

「平和と人権fromたけはら」にて

 2月5日の報告会・映画会には日本の平和運動の様子を取材したいと中国中央TVが取材に来た。大久野島の毒ガス被害者の証言の取材と合わせてのものであった。毒ガス生産がおこなわれた大久野島の地域住民の平和運動の一面が中国で報道されることは意義あることであると思う。

 北坦村陵園修復募金の呼びかけは毒ガス島歴史研究所の会員やその他にも行った。結局、募金は「平和と人権fromたけはら」の参加者からいただいた募金とその他に呼びかけ、振り込まれた募金とあわせて約20万円が集まった。東京の三光作戦調査会にお願いして集めた募金は大久野島の地域住民の募金として北坦村に届けさせてもらうことにした。

三光調査会ツワーへの参加

 2005年3月31日~4月8日の三光作戦調査会の北坦村訪問の旅に参加させてもらい、集めた陵園修復募金を届けるとともに北坦村の清明節に参加することにした。2004年8月の旅の時お世話になった河北大学の陳俊英教授に再び大変お世話になることになった。毒ガス島歴史研究所からはただ一人の参加であり、募金を届ける責任とうまく募金してくださった方の気持を北坦村の人達に伝えることができるだろうかという不安も少し感じながらの旅であった。

 三光作戦調査会の北坦村訪問の旅は北坦村の清明節に参加するのが主たる目的であったが中国人民が日本侵略軍と戦った歴史の記念館や、毛沢東主席の業績を展示した記念館を多く訪れた。今までわたしは訪れたことのない所をたくさん訪ねることができ大変有意義な旅であった。日本軍は河北省から山西省にかけて、激しい三光作戦(殺しつくす・奪いつくす・焼きつくす)を実施した。中国の華北から華中にかけてはいたるところに日本侵略軍よる中国人虐殺がおこなわれ、その追悼の碑が建っている。しかし、残念なことに60年も経った長い月日の間に追悼碑は荒れているところも多いとのことだった。日本の侵略戦争の歴史を風化させないためにも早急な修復が待たれる。

 日本侵略軍の三光作戦は残虐極まりない侵略の歴史であったが、中国人民はあらゆる知恵を駆使して果敢に戦った抗日戦争勝利の歴史でもあった。私は今まではどちらかというと日本軍によって侵略された中国人民の悲惨さと被害に目を向けることが多く、中国人民が日本侵略軍と勇敢に戦い勝利した歴史の学習が十分でなかった。所持する武器は日本軍より遙かに劣っていながら、知恵と勇気を振り絞って戦い、日本軍をついに敗北させた中国人民の偉大さから十分学んでいなかった。北坦村の陵園も毒ガスの犠牲者を弔う慰霊の場であるとともに、日本侵略軍と果敢に戦った人民軍や北坦村の人達の勇気と業績をたたえる記念碑でもあった。今回の旅で私はこの中国人民の知恵と勇気と正義の戦いを多く学ぶことができた

三光作戦による虐殺の地 千人墓

北坦村清明節への参加

 4月5日北坦村の清明節に参加した。清明節は日本のお盆にあたり、亡くなった人の霊を慰める日だ。中国ではあちこちでこの清明節では死者の霊を慰めるとともに、かって中国が経験した日本の侵略戦争について学び、二度と侵略戦争を許さないための愛国教育がおこなわれる。子どもたちも大人も一同に会し、幸存者(戦争体験者)の証言を聞き、互いに二度と侵略戦争を許さない決意を固める。

 この日の、北坦村の清明節は抗日戦争勝利60周年を記念して、きれいに修復された陵園の中でおこなわれた。修復工事はまだ半ばで完了していなかったが、入口の門柱や壁などが見違えるほどきれいに修復されていた。また北坦村毒ガス虐殺事件を永久に記録しておくための資料館も建設されていた。資料館の中はこれから資料が展示され充実させるそうでまだ、未完成な状態だった。しかし、その数少ない展示物の中に昨年の夏の旅の時、毒ガス島歴史研究所が提供した大久野島の毒ガス工場の資料も展示してあった。

 式典には近隣の学校から、多数の子ども達が村人と一緒に参加していた。1942年の北坦村毒ガス虐殺事件の時、日本侵略軍と戦った幸存者の証言があった。子ども達はそれを聞き感想を述べていた。

 式典で陵園の修復のための募金活動に協力した陳俊英教授と日本の友人へ感謝状が贈られた。7年も前から、日本人と北坦村の村人の交流の仲介を続けている陳俊英教授や募金活動を続けてきた三光作戦調査会に感謝状が渡された。そして昨年から今年にかけて募金活動をしたにすぎない毒ガス島歴史研究所にまで感謝状が渡された。大久野島の地域住民と毒ガス島歴史研究所会員の謝罪の気持を込めた募金が受け入れてもらえて大変感謝する思いでいっぱいになった。もちろん、これで謝罪が済んだわけではないし、日本の犯した侵略戦争の罪と大久野島で製造された毒ガスによってたくさんの中国人を殺害した罪は償いきれるものではない。しかし、大久野島と北坦村の交流の第一歩は築くことができたのではないか。これからますます、交流を深めていきたい。

教科書問題とマスコミ報道

 私達が中国訪問中の4月5日、日本では来春から使われる教科書の検定結果が公表され、「歴史を歪曲している」と国内外から批判されている扶桑社の教科書が検定に合格したことに対する批判の記事が中国の新聞各紙で報じられていた。4月6日に私達が北京で会って話を聞く予定だった中国社会科学院近代史研究所所長歩平先生はその対応で忙しくなり、あまり長時間話すことができなくなった。

 驚いたのは日本に帰ってからの日本のマスコミの異常な報道ぶりだった。確かに一部の学生を中心とする中国人が反日デモを行い、一部暴走した人達もいた。しかし、日本のマスコミの報道ぶりはあたかも、中国全体が反日で声を荒げているような報道ぶりだった。つい2・3日前、私が見てきた中国の様子とは全く違った印象を与える報道だった。確かに中国の人は日本政府が歴史を歪曲した教科書を合格させたことに対し批判していた。しかし中国の人達は日本のマスコミがセンセ-ショナルに報道しているほど、反日感情で騒いでいるわけではなかった。ほとんどの中国人民は日本の一部保守勢力の誤った歴史認識に基づく教科書が検定を通たことに怒りをおぼえながらも冷静に受け止めていた。日本のテレビの反日デモの報道こそヒステリックで異常であった。中国の一部の過激に騒いでいる人の同じシーンがくり返し流されていた。あまりにも偏った反日感情を強調する報道は日本人に誤った中国観を植え付ける何ものでもない。

 中国から帰った私に知り合いが声をかけた言葉は「中国では大丈夫だったか。」「早く帰って良かったね。」というのが多かった。「中国の人はほとんどの人は友好的でテレビで報道されているのはごく一部の人の様子だよ。」みんなに中国の友好的な状況を説明した。

 日本のマスコミが中国のデモを興味本位にオーバーに報道するために、日本の学校で中国への修学旅行を中止した学校もでた。本当に残念だ。これからの日中両国のためにも、若い人にはぜひ一度中国に行ってもらいたいのに。