5三軒家工場群周辺

A三工室の室内室外環境

工場環境について話をするのですが、この写真の建物がここにあったのですね。これはA三工室といってルイサイト、米国が発明した毒ガスをつくる工場です。
 私は機械工です。機械工で何をやったかというと一二〇〇度以上のキューポラ、溶鉱炉をつけて金属を溶かして機械をつくる、そういう機械工です。そしたら、私の工場は必ず、溶鉱炉がなきゃいけん。この写真で見る限り、工場がたくさんありますね。おそらく、この広場のこの付近に溶鉱炉があって、鋳造工場、機械をつくる工場があったのだと思います。で、あたりまえいえば、こういう工場は火気厳禁です。その工場の中に火を焚いて鉄を溶かすような溶鉱炉があるような工場というのは、不自然なんです。そういう劣悪な状況がここにあったっんですね。
 この写真の工場には、どの工場でも煙突があります。煙突がたっているのは不思議じゃありません。どなたが見ても工場だから、煙突があると思われるでしょう。でも、煙突なら煙がでとるんじゃけど、煙がでていません。何が出るんかいうたらね、この部屋の中で毒ガスをつくるんですが、時には毒ガスがもれる、それで工場の中の空気が汚れますね。その汚れた空気をはき出す。いわゆる換気扇です。はき出されたものの中には、毒ガスが混じっとるわけです。これは外で出たから、ええわというものの、そうじゃありません。。毒ガスというのは空気より比重が重い。いったん出ていったものが風がなかったら下に降りる。そしたら低くまた下がって、横流れにずっと流れる。そういう現象にあったときには、この山の向こう側の方まで臭いが届く。「今日は臭いな。臭いがするな」という日があります。臭いがするということは、毒ガスを吸っている。だから、こういう劣悪な状態にしばしばあうと、おのずと呼吸器疾患になったんでしょう。
 一九七〇年頃から、公害関係法という法律ができて、その法律で各企業を取り締まりました。汚れた空気を外に出したらいけん、空気の汚れ成分から汚れたものを取り除く必要があります。でも、取り除いてもどうにもならん場合があります。そのときにはこの煙突を倍ぐらい高くして、煙突から吹き上げると勢いが強くなり、大気中に拡散させます。その結果、毒性をもった空気が薄められます。これを拡散希釈方式といいます。これが公害関係法の大気汚染の取り締まりの方法です。戦後日本が何も考えずにひたすら復興をを目指して産業活動、生産活動をどんどんしていった、そのためには公害がどんどん出ました。負の贈り物です。
 こういう今の時代の取り締まりをを考えたときに、ここで毒ガスをつくったいた時代の規制は、どうだったのだろうかと思うんです。私が働いたのは、ちょうど、ここでした。いまだに覚えていますが、大久野島にただ一カ所海水で流す水洗便所、その隣にわたしらの工場がありました。この近くの毒ガス工場から化学反応がオーバーしたら吹き出します。この写真の煙突は高くても、二〇mくらいです。吹き出したときに、この煙突から出た毒ガスを含んだ汚い空気を私らは吸ったんです。そのころは、国が全部やっとりますから、取り締まりも何もあったもんじゃないです。これを誰かが言うたもんじゃ、憲兵隊に引っ張られます。だから、たれ流しががずっと続いていたんじゃあるまいか、そのために大勢の工員が病気になったんじゃなかろうかと常に思います。私もまあ、その病気になった一人ですが。

赤筒工室・填実作業

あすこにプールがありますが、ここで赤筒をつくっていました。この赤筒は燃やしたら猛毒になる、加熱しないと毒性はでません。赤筒というのは、ブリキの缶の中に単独で燃焼性の高いくしゃみ性のガスを詰めて、中で一本一本燃えるような仕掛けにしとった。そのガスが中国では一番使われておったということがわかった。日本もかっての外務大臣河野洋平が日本は赤一号の化学兵器を中国で戦争に使ったということを認めてるのだけれども、このルイサイトやイペリットという猛毒は使ったという資料が乏しいから、認めてない。そういうことがあります。
工場が始まった八年九年頃にはここで砲弾に毒ガスを詰める作業もやってました。その詰める作業はイペリットを詰める作業、もう一つは窒息性のガスでホスゲン、これも大砲の弾に詰める作業をやっていました。そのようにここで直に毒ガスを砲弾に詰める作業をやっておったんですが、一九三四年(昭和九年)の終わりから一九三五年(昭和一〇年)にかけてから以降は、ここで砲弾を詰める作業はやめて、毒ガスを九州の曽根に送りました。呉線が広島まで全通したのが一九三五年(昭和一〇年)ですから、それからは九州の曽根に運んで、砲弾に毒ガスを詰めるようになるわけです。そういうように毒ガス工場の変遷の跡があるわけですが、今もので見ようとしても、とてもじゃないがありません。ですけれど写真をもとにいろいろな証言をしたり、あるいは説明したりしています。

修理工場・汽缶場・鉛工場

ここは修理工場の跡です。向こうに見えるのが検査工室(現在も残っている)です。検査工室をすぐ下に降りたところに広場があって、そこは製缶場といって鉄板を加熱して曲げるような作業をしていました。ふいごでコークスを燃やして、鉄板を曲げるところでした。その鉄板を曲げるのに一〇人も一五人もかかってやっていました。製缶工場は屋根はありましたが、囲いはありませんでした。囲いがあるのは更正機械工場で旋盤・仕上げ・ボール盤などの機械があったところです。俗に言う鍛冶屋です。主に修理です。
機械工場を出たところに鉛工場がありました。鉛工場は大久野島独特の作業場です。工場内では、酸化を防ぐため鉛を使うところが多かったからです。強度が必要な所はステンレスを使っていました。銀細工を使う場合もありました。銀細工はA三工室・A四工室のイペリット・ルイサイトの装置の中に使っていたと思います。銀細工を使うところは多くはありませんでした。末国さんはLSD船に運ぶときに銀のパイプだと言っていました。毒物がついているものは除毒が不十分なおそれがあるので海洋投棄におよびました。海洋投棄するには銀の価値観は高かったです。鉛工場は自分の本拠地のように出入りしていましたが、ここで何をしていたか実際は見たことがありませんでした。
その左手にボイラー室、汽缶場がありました。ボイラー室はこの地域(三軒屋工場地域)と長浦の二カ所にあり、大久野島では、煙突から煙が出るのはボイラー室だけで、ほかはみな排気塔でした。

鋳造所

鋳造所は、修理工場に比べ、小規模でした。そこに、わたしと同期生で養成工が三人、普通工が四人。そのうち職長が一人、計七人いました。まず設計書が出てきますよね。それに基づいて木型工が木型をつくって、それを使って、鋳物工が、鋳物砂で生型をこさえる。鋳物砂は特殊なもので、ねばいようにあるのに、そうでもないんです。それで、生型の中に、溶鉱炉で流した鉄を入れる。冷えたら原型ができる。それを仕上げ工が、削って製品にするわけ。その原型をつくる作業が鋳物工です。木型工四人と鋳物工場に七人おりましたけえね。仕上げの中には、ボール盤で穴をあけるのもおるし、形だけを機械で削ってそれを仕上げるのもいるし、旋盤工もいるし、それら全部で機械修理工です。
化学工は、職場を変わってますが、わたしはずっと鋳物工でした。鉄は銑鉄というて、鋳物用の鉄をもってきていました。それと工場の中の古いものと半々混ぜます。品物によるけどね。鋳鉄が多いと製品が荒くなるよね。それを溶解場で、一度に二トン、キューポラが三つ重ねになっとる中でコークスをたいて、一二〇〇度くらいで溶かします。一番下に火格子があるんです。その上にコークスと一緒に鋳鉄を入れるんです。これも専門の工員がいるんです。溶けた鉄を、溶解釜にとって、型に流し込むんです。鉄の枠の中に、鋳物砂でできた生型があって。型には溶けた鉄を入れる穴と、ガスを抜く穴があって、ガスを抜かんと簾になるんです。これをやるのが鋳物工場です。
古いやつはたいてい除毒したものが鋳物工場にくるんじゃけど、新しいのは、生コン、インゴットというんですが、半分にしたりする仕切がついとるけえ、すぐに分けられるようになっています。古い分はもう品物になっとりますけえね。それを取り外して除毒するんです。それが大きいとあんまり除毒しとらんのよ。時にはわしらがはずしに行くのも手伝うて、その時にけがをするんです。「鋳物工は、毒ガスをあんまり心配することはない」と言いよったけど、とかしたときに、毒ガスがでたかもしれません。鋳物の場合は、除毒をしていたけど、一部簡単にするのは理材置き場。そんなに念密にやりゃしませんよね。でも、除毒しているというんで、信頼してました。
溶鉱炉、キューポラは外に置いてありました。高さは三メートルくらい、直径が八〇センチぐらい、全部で五、六メートルありましょうね。鋳型に流し込む間、溶けた鉄を出す穴をふさいでおくのですが、それには、つばがある鉄の棒(約一・五メートル)を使って、その先に三角にした粘土をのせて、この穴につきさします。そしたら、穴がふさがるんです。今度穴をあけるときには、粘土が冷えて固まっているので、ボルトでコチコン、コチコンとやるんです。原始的なもんです。流れ出た溶けた鉄は、溶解鍋にうけて、鋳型に流し込んでいました。
こがいなことばかりしよったので、敗戦になって、一九四六年(昭和二一年)三菱の鋳物工場に入りました。機関車をつくっていましたから、何と規模の大きいことか、大久野島では、おもちゃみたいなことをやりよったと思いました。
鋳物工の賃はあまりようなかったです。化学工が一番です。わしらが二円二四銭で、終戦の時にね、化学工は二円六〇銭か七〇銭ぐらいもらいよったんか。三円まではなかったと思います。二二四銭の中には養成工のキャリアが入っとったから、普通工よりは高い賃でした。
忙しかったのは、一九四四年(昭和一九年)の終わり頃、赤一工室を火薬工場に転換したとき、工場の中の色々な機械を整備したときです。ちょうど、そのころ、灯台守の家があいとって、そこで、徹夜でやりました。一番大きなものは、直径二メートルぐらいの歯車。これは、ナフタリンの粒を引いて粉にする破砕機の歯車です。つくった火薬はジニトロナフタリンです。これは、それまでにない大仕事でした。一九四二年(昭和一七年)にルーズベルトが警告しとりますけえね。それで、軍部が転換命令を出して、火薬工場ができたのは、一九四五年(昭和二〇年)に入ってからです。そうしよったら、女学生や中学生が入ってきたから、「何するんかのう。火薬つくるんかのう」と思うた。「火薬つくるのに五〇〇人も千人もいらんのに」と。そうしたら、中学生が防空壕を掘り出したから、ああ穴掘りにきたんかと思いました。そんなことを覚えています。

待避豪と「たこつぼ」

そこの防空壕は、人が待避するため専用の待避壕でした。高さは一・八メートルくらいあり、奥行きは七、八メートル、コの字型になっていました。今はだいぶ埋もれてますが、空気孔が見えます。ここは修理工場の待避壕でした
この上に「たこつぼ」といって、個人用の防空壕がありました。この一帯にへこんでいるような穴があるのはみな「たこつぼ」です。今でも多くの跡が残っています。警報が出たときの待避壕です。待避壕もここのは個別に、自分の同じ班の人たちが隣り合わせに掘っていました。人が一人入るくらいの大きさです。今は埋まっていますが、自分の背の高さ以上に掘っているものもありました。これは個人が自分用に掘っていたものです。 
ところが、一九四五年(昭和二〇年)にはいりますと、ここの「たこつぼ」に入ることができなくなりました。呉鎮守府から警戒警報が入っても、「決戦作業だ。職場を死守せよ」といって、職場から離れられなかったからです。「たこつぼ」に入ることができたのは、呉鎮守府から待避の命令が出たときだけで、自分で待避壕を掘っていても使うことはなかったのです。
戦後、休暇村ができた後に、変なうわさを聞きました。この壕が元の土葬した跡であるとの話です。そんなことはありませ。一八六七年(明治一〇年)ごろの地図を見ると墓地もありましたが、この谷の向こう側になっています。これは工員の待避壕で、俗に言う「たこつぼ」個人の待避するところです。

エチレンガス製造に使った磁性管

ここで説明したいのは、休暇村前の広場で見た磁性管の山です。この建物の増築工事の時、ちょうどここを通りかかりますと、磁性管といって、磁器のリングみたいなもがの、山積みになっていました。
エチレンガス工場で、エチレンガスをつくるときに、乾燥炉の上に磁性管をいっぱいひいてこれを加熱して、その加熱した炉の中へアルコールを吹き付けて、その発生するガスからエチレンを製造するという工程がありました。そのときにたくさん磁性管が使われていました。また、ここに沈殿槽がありましたが、その沈殿槽の根詰まりを防ぐためにその磁性管が使われていました。それを戦後どのように処理をしたのか気がかりになっていたのですが、この建物を建設するときにここを掘りだしていました。今言いましたエチレンガスの炉に使われていた鋳鉄のロストル(炉の下部に設けた鉄格子。火格子)もたくさん出ていました。磁性管に毒性があるのか、どうかわかりませんが、増築工事の後、そのまま埋めています。
今、ちょうどふろ場になっている所の下から、向こうの道路に通じる排水路があり、ここに沈殿槽がありました。ふろ場の床堀を掘ったときに沈殿槽が出ており、その中にも磁性管がいっぱいありました。それもきれいに揚げて沈殿槽だけは、その当時そこに出ていました。これが休暇村のリゾート改造をしたとき工事の様子です。
私は、沈殿槽の中に降りてみました。少々昔毒ガスを製造していたころのにおいがしたようにも思いました。この場所は三〇センチメートル客土し、芝生を植える工事をした時に、そのことで粉じんが飛ぶのを防ごうと言うことを聞いたことがあります。毒性が完全になければ、別に粉じんが飛んでも問題がないのではないかと思うのですが。対策をするということは昔の危険が残っているのではないかと思ったりしました

A四工室用毒物タンク

このコンクリートの擁壁は昔そのままです。ここを入っていくと塩化アセトフェノンという催涙ガスを造る工場があって、ルイサイト(A三)・イペリット(A四)そういう工場が付近にありました。
この貯蔵庫は、イペリットの小出しの貯蔵庫だと思います。ちょうどこの前にA四工場があって、そのA四工場からの製品がここに入っていたのではないかと思います。工場は係り以外の人が工場内を出入りすることはやかましく言われますので、はっきりした記憶でありません。ここのタンクは工場から直送のパイプがあって、送っていたと思います。この貯蔵庫にはたくさんの配管の穴が残っています。
この道路沿いに長くA四工場、イペリット工場がありました。そして、東側によったほうにエチレン工場がありました。この地図で言いますと、これがA四工場になって、これがルイサイトのA三工場です。この辺に催涙ガス、このタンクはブラウンタンクといいますが、エチレンガスをためていたところです。私が今話しているのは、私が大久野島にいた一九四一年(昭和一六年)から敗戦の一九四五年(昭和二〇年)ころまでの記憶です。一九四一年(昭和一六年)以前の状況は、この地図と様子が違います。また、ルイサイト工場も一九四五年(昭和二〇年)に入りますと、遊休施設になって、長浦のA二工場だけになっていました。そのように変わったのです。大久野島で働いていた人が集まって話をしたら、人によって違う場合があります。それは自分が勤めた時期によって、工場が変わっているからです。ルイサイトは一九三六年(昭和一一年)から製造し、一九四四年(昭和一九年)には遊休施設になり、A二(ドイツ式のイペリット)の製造が主になったです。そういうようにだんだん工場の製造体系が変わってきたのです。

黄色い塩酸ガス

今の道が昔の製造工場の時代の道でした。この道と護岸の間に倉庫がありました。その倉庫の中に鉛管やら、鉛板などがたくさんあった記憶があります。ここで思い出すのは、鉛工場からここに材料(鉛の板など)を取りに来て、現場へ持っていって加工したり、鉛工場に持って帰ったりしたときのことです。そのころは、野積みで塩酸をたくさん置いていました。雨降りには塩酸が水分を吸ってもやもやと塩酸ガス、ちょっと黄色かかったガスが立ちこめていました。これを吸うと非常に呼吸器を刺激します。だから、ここを通るときにはハンカチで口をおそったりして、通っていました。規則では移動するとき防毒マスクを持って移動せよとなっていました。風向によったり、季節によっては塩酸が発生する度合いが強くなって、歩行者の呼吸を刺激することがしばしばありました。だから、ガスが漏れている(ガスには違いはありませんが)と言っていました。

検査工室・研究室・薬品庫

左側の建物が戦時中は検査工室、そして右が毒ガスの研究室と薬品庫です。(八八ページ写真参照)休暇村の初めごろは検査工室はロッジに改造されて使われていました。また、研究室・薬品庫は最近まで、ネイチャーセンターとして使われていました。
戦争中の思い出としては検査工室の一番奥の部屋が毒ガスの分析を教育された教室だったことです。そこで、時にはウサギの実験が行われることがありました。一度見せてくれたことがあり、覚えています。そのときの実験は青酸ガスだったろうと思います。実験室で淵上中尉、私らの教官でしたが、たばこを吸ったと言ってひどく怒られたことがあります。そんな思い出があります。ここは分析専門にしていました。研究室というのは第二造兵廠忠海兵器製造所だけのではなくて、陸軍造兵廠化学部全体の研究室でした。最近、時々赤筒へ黄剤が混ぜられたとか聞くことがありますが、そんな研究がここでされていたと思います。当時は研究室でなにを研究していたか知りませんでした。私と養成工同期の化学部の人はここで毒ガスの教育を受けていました。こっちでは有機化学とか無機化学とかの化学の教育、こっちは毒ガスの教育をしていました。
検査工室は、準備室といっていいか作業所と言っていいか国民休暇村になって、外回りの職員がここにいて、営繕関係の仕事をする人がいました。以前中は教室のように分かれていましたが、今はそれも変わっています。ここの中も改造しています。ここは大久野島ロッジといい、休暇村が始まったころは寝泊まりもしていました。毒ガスを造っていたのに旅館になったと言っていました。

理財置場・貯水池

理材置き場というのは毒ガス工場の施設の廃材、不具合になった機械をおくところでした。また復活して使うこともありました。男の人も女の人もいましたが、常に老年工員、工員の中でも最高年齢の人たちが働いていました。あの基礎の上にバラック建てがあり、そこで作業をしていました。われわれ養成工にとっては、ここはオアシスのようなところで、よく工員さんと話をしました。機械を新しいものに取り替えたときは、古いものを谷の上の方から並べていきました。引き上げるのに、養成工がロープで上げていました。現在、立ち入り禁止になっているのは残念です。
貯水池は大久野島の水瓶です。三段式で、ポンプで浄化槽を通って、上水タンクのある峠まで上げ、工場に配給していました。飲料水です。この谷には、もともと杉の木が多く、休暇村になってからオリーブも植えられました。実のなるオリーブもあります。
貯水池の端に、陸軍省所轄地の石碑が残っている