2発電場周辺

旧桟橋・荷揚げ用桟橋

ここは、一九〇一年(明治三五年)、芸予要塞を構築したころの桟橋です。大久野島の北部、中部、南部に砲台を据え付けるのですが、いろんな部品にいたるまで、ここから荷揚げをしておったようです。そして、瀬戸内海で敵の軍艦を沈めてというような大きな事件も小さな事件も国内ではあまり起こらないまま日露戦争は終わりました。大正に入っても、大久野島ならびに芸予地域の要塞は無用の長物になっていったわけです。
 大久野島はそういった具合ですが、軍用の地でありましたから、毒ガス製造工場に変ぼうしていくわけなんです。毒ガス工場の開所式は、一九二九年(昭和四年)五月一九日。東京第二陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所という名称で開設されるわけなんです。開所式には広島の第五師団長、ならびに地元や近郷の行政の長、東京の陸軍の首脳たちが来て、ちょうど、この桟橋を利用して、ここからずっとあがって行きました。当時の写真(一三ページ写真二参照)を見る限りでは、正面にアーチがありまして、左手に守衛所があって、今あがってきたところの芝生の上ぐらい辺りに、軍隊舎がありました。

蒸気パイプ

むこうの海岸のところを水平に切っていますが、蒸気パイプが敷設してあったところです。この大久野島に毒ガス製造の棟が約二〇棟、それに付属する建物を併せると、一〇〇棟ぐらいありました。製造工場でいろんな原動力がいるんですが、電気はもちろんのこと。もうひとつは化学薬品の反応を基にして毒ガスを造りますから、化学薬品を配合して、それを加熱したり、あるいは冷却したりすることが必要なんです。加熱する場合、絶対火の気は使わない、スチームを使ってました。この大久野島の南部に一箇所と北部の長浦地域に一箇所ボイラーを据えてです。これを汽缶場といいました。このボイラーの能力は私もよく記憶していませんが、そのボイラーの蒸気を工場に使うんですね。そして、ここにも蒸気パイプを通していたんです。

MAG2 朝鮮戦争時の弾薬庫

トンネルの中に「MAG2」と書いてありますが、あれは一体何を意味するものか、みなさんご存知ですか。私もよくわからないのですが、英語で「magazine」という言葉があります。辞書には、弾薬庫、あるいは倉庫という意味がのっています。
一九五〇年(昭和二五年)、朝鮮動乱が始まると同時に米軍がこの島を再び接収しました。そのとき、大きい建物はここだけでなく、あちこちに残っていたんです。その建物を弾薬庫に利用して、一九五六年(昭和三一年)まで米軍が使っていました。そのとき、この「MAG2」という表示をしたんじゃないかと思うんです。私も確かな資料を見たんじゃないですが、…。まだほかにも「MAG2」と書いてあるものが、ネイチャーセンターにも行くとあります。
朝鮮動乱が始まったのが一九五〇年(昭和二五年)、終わったのが一九五三年(昭和二八年)。そのとき大久野島を返還してくれると思ってましたけど、一九五六年(昭和三一年)まで返してくれませんでした。地元の漁民たちは返還を迫りました。けれど、日米安全保障条約とかでなかなか返してもらえませんでした。その間は、弾薬処理場として使われました。ちゃんと大砲から信管を抜いて、安全なものにする作業をここで続けたんじゃろう思います。そのころ、作業員は全部地元の日本人です。かなり高給で雇われて、非常に給料も高かったということです。

火力発電所

発電場の運転は、一九二九年(昭和四年)に始まるんですが、当時は小さい部屋だけでしていました。一九三四年(昭和九年)から、工場の拡張が始まりますから、大きい部屋を増設します。この発電所の内部には、六〇〇馬力のディーゼルエンジンがあって、ディーゼル機関に発電機が直結しているわけなんです。こういうのが六基据わってて、最終的には三四〇〇キロワットの出力です。ディーゼルですから、重油を燃料にして、それに発電機を連結して、発電していました。発電機は、戦後、フィリピンの方へ全部持っていかれ、ここは、一番早く、がらんどうになりました。当初はこれを体育館にするとか何とか言ってましたが、何もせずにとうとう腐ってしまいました。これは国の財産で、われわれ一人ひとりのものです。われわれの税金をしぼりとって、これができるわけなんです。それをこのようにほったらかしにして、腐らせて、何にも役に立たん。そして最後には、ここに入っていけんどと垣を巡らせて。これが日本政府のやり方です。いつまでも昔の権力を固持するようなことになっている。うらめしいような気がします。
先ほど言いました「MAG2」という標示のことですが、当時、弾薬は、この建物いっぱいに積まれてありました。私もちょうどそのころ、地元の町役場に勤めておりまして、町会議員と一緒に見せてもらいました。そのときの印象は、弾薬を入れとった箱がびっちり上までありました。説明では、この大久野島中の弾薬を金額にしたら、その当時の日本の予算とほぼ同じくらいの価値があったということです。

中の様子を思い出してみますと、二階が事務所、下には開閉機。スイッチをオンにしたりオフにしたりするところです。最初は、この発電場の電力だけ使っていたのですが、一九四一年(昭和一六年)一二月八日、日米開戦以後は燃料の重油が入手困難になるということから、対岸の忠海側から商業電力、要するに今の中国電力の電力を海底電線によって、ここに引き込んで使い始めました。それからというもの、敗戦まで自家発電と海底ケーブルで併用ということになります。
発電所には、工員や技術者が一七人くらい常駐していました。ここへは無用のものは立ち入り禁止、毒ガスの気配は全くありませんから、別天地ですね。やっぱり電気工になって発電所勤務となりますと、エリートコースです。えばったもんです。そういう夢を一時見ました。私は機械工ですけども、一番頑固な鋳鉄で、たたくと容易に壊れますけど、この鋳鉄で物を造るという仕事をやってました。たとえば大久野島で毒ガスを造っておったのが、もう毒ガスより、すぐ使える爆薬をつくろうというときに、毒ガスをつくる装置を今度は火薬をつくる装置に変えるんですね。そういうときにこの鋳鉄で加工せんにゃあならんことがたくさんでてくるわけです。そのときに鋳鉄というのはもろい鉄なんですが、それで鋳型をこしらえて、それで溶鉱炉で鋳鉄を溶かして・・。それから工作機械のもとをつくる仕事をわたしがやっていました。ですから、直接毒ガスとは接触するということは少なかったです。おかげで、今日に至って元気でおられるというのも、その影響だろうと思います。

風船爆弾

さて、ここで私がもうひとつ思い出すことがあります。大久野島では一九四五年(昭和二〇年)に学徒動員があり、女学生が一生懸命、風船爆弾をつくりました。風船爆弾というのは、紙の風船ですね。それに爆弾をつるして成層圏まで揚げて、無人の爆弾をアメリカの本土に運ぶ仕掛けでした。その風船爆弾がちょうど六月ごろに完成して上空へ揚げられたんだろうことを聞きましたが、なんとそのころはすでにアメリカはニューメキシコで原子爆弾の実験に成功しました。なんとおそろしいやら、こっけいやらです。日本は風船爆弾で敵をやっつけます。アメリカは原子爆弾で敵をやっつけます。それくらい科学の差があったということに対して負けるのは当たり前くらいに思いました。が、いかんせん世界を相手に戦っていたわけですが、破滅への一途をたどっていたわけなんです。
ちょうど私は自分の持ち場から、女学生がここで作業をしているのを見たことがあるんです。風船をつくるのは珍しくありませんでしたが、女学生が珍しかったです。女学生を見よったら、青春時代の自分の気持ちも何か晴れやかになったのを覚えています。
ここに来て驚いたのは、ちょうどこの高さと同じくらいのバラックがここに建ててあったことです。そこで何をするかと言うと、満球テストをやります。満球テストというのは、直径一〇メートルの風船をまず膨らせて、穴があいていますと、だんだん風船がしぼみます。中に水素ガスが入っているんですが、それが効果が弱くなるということです。そこで、風船の補修をするわけです。本当にサーカス小屋のような高い建物があったということを記憶しています。まあ、中までは入って見られませんでしたけども、外から見たときにそう感じました。そういうことが記憶に残っております。

タービンの冷却水

発電場の裏に水槽があります。この水はタービンの冷却水として使っていました。水道のポンプは、最近のものです。六、七年前、大久野島に飲料水として、平均して七〇トン欲しいということになり、水脈があると思われる至る所に、地下水をくみ上げる装置をつけていったわけです。さあ、そこでここに来て水を掘り出した。そうしたら、水がどっと湧き出したんですよ。喜んだ。喜んだ。ところがね、地下水が湧いとるんじゃない。ここは、下にある水槽をぶちわったんですね。それが壊れたもんじゃから、中にたまった水がゴォーと出てきます。そういう笑い話がありますがね。
 防火用水の水槽も残っています。今いっぱい物が入ってますけども、当時は、水槽でした。焼夷弾が落ちたら、すぐにその水をくんで、処置をして、大火事にならんように消し止めるためのものです。

迷彩色の残る海水ポンプ室

なぜ壁面に迷彩色で塗られているか、分かりますか。工場はこのように迷彩色を施して工場を目立たせないようにしていました。これは当時の色です。真っ黒けになっているのは、休暇村が、ここで廃棄物を焼いた跡です。もともとはここは、海水や真水をくみ上げて冷却水の調整をする所です。
 発電所の前の丘の木は、今は枯れていますが、当時は一〇メートルくらいの高さの松がずーとありました。それで、発電所の建物は、沖から見えませんでした。向こうに、呉線が通っていますが、汽車の窓からこっちが見えるんです。だから、見えないようにしていたんです。

火薬庫

火薬庫の建物は南北に長く延びてます。明治時代に、中部砲台、南部砲台、北部砲台の弾薬はここありました。火薬類、爆薬類は建物の周囲は煉瓦でついてありますが、屋根の部分は本当にお粗末な、吹けば飛ぶような仕組みだそうです。弾薬庫は、密閉すると爆発がひどいからだそうです。それと引火しても、どっちかへ抜けるような仕組みになっとるんじゃそうです。そういう仕組みの建物であったこと、それに、この谷は、湿気が一番多いので、建物は早く腐ったんだと思います。今、見るからに無惨な姿でただ基礎が残って見られるくらいです。
「化学兵器貯蔵設備追加実験に関する件(C20010047026)・アジア歴史資料センター所蔵」にある一九四一年(昭和一六 年)の大久野島の地図には、火薬本庫と書かれ、一九四四年(昭和一九年)の地図「大久野島建造物配置図・毒ガス資 料館所蔵」では、製品置場となっている。貯水池から、淡水タンクに行く途中にも、火薬庫があったが、それぞれの地 図で、小火薬庫、火薬倉庫と記されている。毒ガス弾への填実工程が曽根に移った後も、発射赤筒や発煙筒は製造して いたので、縮小されて残ったと考えられる。

北部監視所

ここは、敵の飛行機に空襲されたたときに下から撃つために、機関砲が置かれとったところですが、本当に撃つことはありませんでした。もともとは、明治時代に造ったものですが、戦時中、一九四五年(昭和二〇年)になって、福山連隊から一個中隊から二五〇人くらい来て、ここと毒ガス資料館の上あたりで警備していました。呉に駐留兵があって、呉からの命令によって動いていたようです。
 一九四五年(昭和二〇年)七月、原爆が落ちる前じゃったと思うんですが、敵機が一機低空できて、ずーと向こうにいったことが一度ありました。今にも撃つところじゃったけど、上官から撃ったらいけん、場所を知られたらいけんと撃ちませんでした

製品倉庫(黄二号・赤一号)

現在、忠海からの船が着く桟橋前の谷には毒ガスの製品、液体の毒ガスのイペリットやくしゃみガスのジフェニールシアンアルシンを置いていた製品倉庫がありました。このことは、一九四四年(昭和一九年)の大久野島建造物配置図(毒ガス資料館に展示)を見ても推測できます。製品倉庫と書かれ、その付近は除毒する必要があると図示してあるからです。今は公園になっていますが、そういう歴史が残っています。
当時の女学生がここへ勤労奉仕に来まして、くしゃみガスの入っているドラム缶をこの向かいにある愛媛県大三島の海岸へ分散しています。その理由は、空襲にあった時のことを考えてです。この谷から休暇村本館へ行く途中に中央桟橋があるんですが、その手前に今キャンプ場があります。そこに、以前のフェリー乗り場があるのですが、そのあたりに特設の桟橋がありまして、ドラム缶を積み出しています。岡田先生が、「大久野島学徒動員の語り」という本を出していますが、その中に出てきます。そこから積み込んで、すぐ向かいの、二キロメートルも離れてない大三島に分散しました。あの海峡は向こうの海岸が砂浜になっていまして、それに茅の木がずーっとしげっている、その茅の木と畑の所にドラム缶を全部積んだのです。それがまた敗戦になって、また大三島から大久野島へ一応集積して、それを島の北部からアメリカの上陸舟艇に積んで土佐沖へ捨てに行きました。
ここに置かれていたのは製品です。原材料ではありません。このドラム缶が岡田さんらが描いた通りのドラム缶です。よう記憶しとったですよ。そりゃあまあ命がけでやった作業ですから覚えとったんでしょうね。
作業の服装は、女学生は特に作業服は着てなかったです。私服でここに入ってくる時はセーラー服で白いネクタイをしてハチマキをしてそりゃ粋なかったですよ。私はちょうどそのころ一八、一九才で一番色気ざかりの年少工員でしょう。そのすさんだ所へ生きのいい女学生が入ってきた時にはうれしかったですよ。何か生きる力がわいてきました。そういうことを記憶しています。