李国強

中国遺棄毒ガス弾被害者竹原証言集会
                           2002年3月24日

証言者 李国強

  私は1998年ここに来たことがあります。また、ここで会えました。皆さんに会えて、本当にうれしいです。竹原に来ることができて本当にうれしいです。
  私は李国強といいます。1949年8月8日に農民の子として生まれました。住 所は中国黒竜江省チチハル市富拉小基(フラルキ)区鉄西8街区8棟1門9号です。
 妻と二人の子供の4人家族です。1974年に妻と結婚し、そして翌1975年に 長男が、1979年に長女が出生しました。
 1968年に兵隊になり、そこの衛生学校で知識を得て、退役後1972年から1974 年までチチハル医学学院で勉強をしました。卒業後1974年に中国第―重型機械 集団公司医院に就職しました。中国第―重型機械集団公司という会社は工作機 の部品を主に作っていて、ごく一部は大砲のような兵器を作っているようです。
 社員は約2万人の会社です。私がいる病院はその会社のグループの病院です。 私の専門は工業衛生といって、社員の職業にかかわる病気を診断しています。 会社では製造の過程でいろいろな化学物質や放射線を使っていますから中毒が生じます。ですから化学成分による病気や放射線被害を主に治療していました。
 中国の医師資格は、主任医師(「教授」)→副主任医師(「副教授」)→主治医 師(「主管医師」)→医師→医士となっていて、軍隊にいた1969年に医士になり、そして、1974年に医師になりましたが、その後主治医師(「主管医師」)になりました。
 
毒ガス缶の発見と現場での検査
 私は、1987年に毒ガスをあび被害に遭いました。 1987年10月16日嫩江(ノンコウ)からlキロメートルも離れていない黒竜江省チチハル市富拉亦基(フラルキ)区興隆街の富区煤気公司(フラルキ区ガス会社)の庭で、ガスのガス貯蔵庫を設置する基礎工事のために穴をシャべルで掘っているときに、鉄製の缶が発見され、発見者が公安局へ電話をしたそうです。
 なお、この缶が発見された場所は、戦争中には鉄条網に囲まれた日本軍の軍営があったところで、缶の発見された場所には昔大きな穴があったということです。また、この発見場所から北に約3キロメートル強のところには、日本軍の関東軍の526部隊の駐屯地があったところで、今でもその跡は残っているそうです。526部隊は毒ガス戦の訓練をしていた部隊だとのことです。 そして、10月17日午前9時頃、私は、チチハル市富拉示基(フラルキ)図公安局から「へんなものを見つけたので来てくれ。発見された缶が放射線物質の可能性があると心配だから調べてくれ」と電話を受けました。私は、放射線を調べることができる機械をもっていて操作もできるので連絡がきたのです。私がいたところと工事現場は結構離れていて、おそらく3キロメートルくらいの距離があったと思いますが、いろいろな準備もあって午前11時頃には工事現場に到着しました。
 工事現場に行ったのは7人です。李国強(自分)、鄭超(医者)、宋文勝(職場公安)、王維亜(主任)、王建麗(実験員)、梢湛(放射線技師)、歴鳳林(公安)。会社から、自分と医者、職業病防治科の主任、検査をする人、技師、会社の警備員の6人、公安局から1人の合計7人です。 工事現場に着いたときは、鉄製の缶はもう掘り起こされていて庭に置かれていました。缶は1つでした。錆びた鉄製の缶で、数日後に防化部隊が計ったところによれば直径50センチメートル、高さ90センチメートル、重さは100キログラム位で大変重く、二重の蓋(ふた)がついていて、側面の上と下に黄色の線が1本ずつ計2本ありました。缶の周りには柵(さく)などはありませんでした。
 私は、放射線の反応を調べる小さな機械を2台持っていきました。―台はα・β線に反応する機械であり、もう―台は、口線に反応する機械です。そして、そのいずれの機械で缶を調べてみましたが、どちらも放射線反応はありませんでした。また、王建麗が化学物質の検査用具をいろいろ持っていたので、その用具でも調べましたが、何の反応もありませんでした。
 王維亜主任が「あまりしっかり密閉しているので測定できないのではないか」と言いました。そこで、夕食を食べてから、私と王維亜主任でスパナでボルトをはずし、蓋を開けました。ボルトは16個ぐらいあったと思いまず。午後8時か9時くらいだったと思います。雨が降っていてあまりはっきりとは分からなかったが、缶の中から緑っぽい煙が出てきました。雨が降っていたので煙はあまり上まで上りませんでした。私は、缶から1メートル位の距離にいて機械で検査をしました。煙をかいだら、少し気持ちが悪くなり咳がでましたが、それでも機械で検査を続けました。しかし、何の反応もありませんでした。
 そこで、私と王維亜主任は、さらに缶を傾けて中に入っていた液を会社に持ち帰って検査をするために近くの家からもらってきたガラス瓶に移し替えました。しょうゆのような褐色で油のような液体が出てきました。移し替える際、目頭近くの鼻のところに液体がかかってしまったようで、目にものが入ったようで辛(つら)くてたまりませんでした。2OOcc位ガラス瓶に入れて、ビ二ールで蓋をして私が会社に持って帰りました。持って帰るとき芥子(からし)のような二ンニクのようなにおいがしました。今まで嗅いだことのないようなにおいでした。会社に着いたのは、午後9時か10時くらいでした。

病院と会社での検査
 翌日の10月18日、会社で実験室の係の人に毒物の検査をしてもらいました が、反応が全くありませんでした。液体が何なのか分かりませんでした。
 その間、目が赤く腫(は)れて視界が悪くなり、手の甲の親指から人差し指にかけ て水泡ができ、心臓がどきどきしてきて、呼吸困難になりました。
 測定器で調べても液体の正体が分からなかったので、何かの油かと思いました。すると、王維亜主任が中国第―重型機械集団公司の供応処化工建材料(油化科)のところへ持っていって調べてもらうようにと言ったので、私は看護婦孫月樺と二人で持っていきました。そこは、もう一人の原告の王岩松さんが働いていた職場ですが、油などを供給する科で、油や機材が置いてあるので液体の正体が分かると思ったのでしょう。
 そこの科の王暁峰さんが、まず、床に瓶を置いて臭いを嗅ぎました。また、林友華さんが瓶の中の液体を指につけたりしましたが、すぐに石鹸(せっけん)で洗いました。そして、林友華さんは燃えれば油だと言って小さな紙に液体をつけて火をつけましたが、あまり燃えませんでした。今度は、王暁峰さんが新聞紙を丸めたものに液体をしみこませて火をつけました。すると煙が出て、その煙をかいだらすぐに呼吸ができなくなって苦しくなり、私はすぐ窓から飛び出し外へ逃げました。部屋には私を入れて7~8人いたと思います。そこで出た煙でさらに症状が悪化しました。目が真っ赤になり、強い光はまぶしくて見ることができなくなりました。呼吸困難になり咳が出ました。私以外の人も皆同じような被害に遭いました。 こうして、職場での被害は拡大していき、大変なことになりました。

毒ガスと判明
 そこで、3日日の10月19日には、院長が人民解放軍防化部隊にその液体を 調べてもらうことにしたのです。そして、防化部隊の人が来て、いろいろと調 べてくれた結果、日本軍が遺棄した毒ガスの液体だということが分かりました。
治療・入院
 私は、10月19日に自分の病院の職業病科に入院しましたが、20日頃防化部 隊の人から、私が持ってきた液体が毒ガスの液体だと知らされました。病院に はチチハルの人民解放軍の野戦病院の化学兵器による傷病の治療で有名な関慶祥先生が来て治療に当たってくださいました。33日間入院しました。治療は、大変呼吸困難だったので吸入器をつけ酸素を吸い込んでいました、それから薬で目や手を洗浄しました。薬を飲んだり点滴を受けたりしました。3週間くらいたって少し良くなってきました。呼吸が前よりは楽になりました。退院してからも、特に呼吸困難や咳の症状は残り、現在も治療は続いています。

病院のカルテ
 人民解放軍の医者、関慶祥が1987年10月27日に診断書を書いてくれました。この先生は特別に呼ばれて病院に来てもらったそうです。先生の診断書の内容は以下のとおりです。 『1987年10月17日午前10時に毒物に接触して、顔の部分と右手のところに 火傷(やけど)がありました。その後相次いで、体全体がだるく無カ感があり、頭痛、めまい、不眠、精神不安、視力が弱くなり、4日間の呼吸困難になり、軽い熱がでました。調べた結果、意識ははっきりしているが、時には咳がでる、顔部及ぴ右手に点在している水ぶくれの水がなくなり硬くなったあとがあり ます。診断の結果、肺には雑音がありました。呼吸器に損傷があり皮膚に火 傷がある。マスタ-ド弾の中毒である。 意見―入院して病症に応じて治療を受けること』

退院後の生活
 退院後、呼吸困難は少し良くなりましたが、視力は落ち、手のただれ、水 泡のあと、息苦しさは残りました。免疫力が低下しているためか、階段を昇る のがきつくなり、体がだるく、咳もひどく出るので妻とは別の部屋で寝ていま す。咳がひどく出て妻が眠れなくなり、翌日の仕事ができなくなってしまうか らです。妻は、教師をしていました。当然、医者としての仕事にも支障があり ました。毒ガスのせいでこのような状況になった私に対し、妻はよく理解してくれ、私を精神的にも経済的にも支えてくれました。また、当時私の子は、12歳と8歳という年齢で、父親と遊びたい年頃であっだにもかかたらず、私は子どもたちと一緒に遊ぶことができず、妻が子供たちの面倒も良く見てくれましこのような妻の理解と支援がなかったら、私は自殺していだかもしれません。
 私は定年にならないうちに、1999年50歳で仕事を辞めました。体の関係で普通の時間通りに行くことができず、欠勤や遅刻は平均月4~5日ありました。特に病院が人員を減らしているところだったので辞めざるを得ませんでした。 退職時の給料は基本給の640元を含め月額約800元でしたが、定年前に辞めざるを得なかったので、現在の収入は、基本給の50パーセントの320元しかありません。定年まで勤めた普通の人の三分の―くらいにしかなりません。またこの毒ガスによる中毒は、工場が出した毒ではないとの理由で公傷、労働災害と認められませんでした。公傷、労働災害でしたらもとの給料の85パーセントを保証されるのです
 医療制度が改革された1998年までは、通院は半月に1回くらい、自分の病院に薬をもらいに付きました。咳止めと炎症を抑える薬をずっと続けています。ただ、免疫方を高める薬と心臓の薬は薬局で買っています。
 病院でもらう薬の薬代は当初無料でしたが、今は医療制度の改革で企業が80パーセント負担してくれ、自己負担は20パーセントです。しかし、病院はあまりいい薬がないので、免疫力を高める薬や心臓の薬は以前から自分で薬局に行って買っています。医療費は、現在でも月に平均150元から200元かかっています。
 また、妻も私の面倒を見るために定年にならない前の1998年に教師を退職せざるを得ませんでした。しかし、私の収入が月に320元しかないのに比べ 妻の収入が現在でも800元 から900元ぐらいあり、いまでも妻は私を経済的精神的に支えてくれています。
 なお、昨年7月に長男が結婚しましたが、お金がなくて新しい住居を構えることができず、私の今までの住居に夫婦で住ませることにしました。そして、私たち夫婦は、―般の借家に住みたくても家賃が高いため、借りることもできず、以前勤めていた会社にお願いして近くの鉄西56-56-5の煉瓦造りの質素な平屋建ての住居を格安で借りそこに住んでいます。

裁判所に訴えたいこと
 日本軍国主義が何の罪もない私のような一般市民にこのように大きな被害をもたらしたこと、それも戦争が終わって平和になった時代に被害をもたらしだ ことに対し、憤りを感じます。この現実に対して必ず責任をとって欲しいと思 います。まず、きちんと責任を認めて謝罪してほしいと思います。また、経済的な損害に対して賠償をして欲しいと思います。いくら賠償をしてもらっても、奪われた自分の輝かしい時代、社会や家族に貢献できる時代をもう取り戻すことはできません。この私の被害と気持ちを十分理解して裁判をしてください。