7長浦毒ガス貯蔵庫周辺

北部海岸に散らばる瀬戸物のかけら

ここにたくさん残がいがあります。イペリットやルイサイトの毒ガスを作るときの原料にする塩酸とか硫酸とか、塩素は鋼鉄のボンベの中に入っているんですが、塩酸とか硫酸とかいうものは、瀬戸物の瓶の中に入れてあります。たとえばこれあたりは、直径五〇センチぐらいある瓶の、欠けた一部分です。
大久野島に来て、はじめて就職した人たちが、のどを刺激するようなにおいがあるとむせたのは、この硫酸とか、塩酸とかいう原料ですね。ガスが発生しますので、今みなさんが通ってきた道々も、海岸べりにずっとあって、湿度が高くなったら蒸発、そういうような化学変化がおこるんです。そこを通ると、のどを刺激する。毒ガスには違いない。ここにたくさんこういうようなものがあるのは、戦後、ここで瓶を全部割ったんじゃろう思うんです。

発射赤筒などの点火試験場

ここになめらになった岩がありますが、点火試験のトーチカがあったところです。向こう側に発射台があります。そこで、発射式の赤筒、あるいは発射式の発煙筒、通常発煙筒、いろいろありまして、点火試験をします。発煙筒もうまく点火して、これが煙幕をつくるんですけど、煙がでないというのと、いけないんですが、もう一つくしゃみガスというのは、燃焼してはじめて猛烈な毒が発生するんで、そのままでしたら、缶のままで保管できるんですが、この缶がブリキですから、非常に腐食しやすいんです。そういう構造になってますから、よくここで、燃える状態がどんなのかという試験をするところなんです。ですから向こうから、ここにきます。ここにはコンクリートでトーチカいうんですか、もし体にあたったらいけんいうんで、コンクリートの遮蔽するものがここにつくってあったんです。そして、試験官はその中に入って点検するわけなんです。この点火試験場は動員学徒の生徒さんでよく点火試験の様子を見学したんだと思います。岡田先生の動員学徒の語り部の中にも、その様子を絵に描いたものがあります。まあ、そういったようなことで、そのころの学生たちがそれを見ることは、一番大きくひびいてくるのは勇ましい、だから、戦争の罪意識とか、毒ガス製造の罪意識とか、一切なかったと思うんです。これで戦争ができるんか、戦争に勝てるんか、そういうことを思い起こしながらここにきますと、本当に感慨深いです。
点火試験のねらいは、命中度じゃなくて、ガスの発生がうまくいくか、くしゃみ性ガスは、火が中にうまくいくかということですね。発射用のものは一二〇〇ぐらいつくりましたからね。それが、うまく飛ばんといけんのです。それがうまく飛ばんいうことになると、火薬が入っとるんですが、それじゃ効力がありませんから、もうちょっと強力なものを使うとかするんです。
発射赤筒なんか、そこに飛びちっとるですよね。だから、ここらにもあったはずなんですが、一番目に付きやすいですから、早く整理されたんです。あそこに発煙筒がいっぱいいっぱいあったんです。私が歩いて、見つけたんです。あそこらには点火試験の時の発煙筒じゃなくて、戦後処理の残がいがおそらくあるんです。わたしらも忠海に住んでいましたから、毎日のように煙が出るということは、知っとったけど、まさか発射赤筒なんかもやしとるとは思いませんでした。燃やしたという人があるんですが、燃やしたら大変なことになるんですが、そういう人があります。

海水浴場建設中に見つかった黄剤容器

一九七二年の五月に起こった事件ですが、ここに雁木がありますよね。ここを北部海水浴場で使っておったんです。あれは海水浴場のサービス棟です。事務所もあったり、売店もあったり。
ところが、いよいよ正式に護岸工事をやるときに問題が起こりました。にんぷの人がここで深堀をやったんです。やっておったら、かなりの強烈な臭いがして、こりゃどうもならんどということで、いったん、それを埋め戻したらしんです。ややこしいことになっちゃいけませんので、引っ張り出すなということになりました。それから、何日かたったころに、事件が起こります。わしはかぶれたんじゃ、あのときにというようなことを言い出して、わしもそうじゃ、わしもそうじゃ、それをマスコミが聞きつけて取材に入ったんです。そしたら、海水浴場の護岸工事をやるときに、毒ガスが埋まっていた。毒ガスでややこしいことになっちゃいけんから、それをそのまま埋めた、これは大変じゃということになってひろがったんです。そして、それをどこに埋め戻したんかということで、ここでせん議したんじゃが、ようわかりませんでした。そのころ、がん木は大方できあがっとったんです。それをまた崩して掘り出してね。そしたら、そのときのにんぷのかたは首をかしげて、わしらが掘り出したものはないような気がするといいよったようです。じゃけれども、探していくうちにさびたボロボロの容器が、イペリットルイサイトを入れる容器で、それが二個引っ張り出されて、それから自衛隊も来まして、あっちは掘ってましたから、向こうからこっちまでを、一〇人ぐらいの部隊でしたかね、どんどん掘ったんです。それらしきものは発見できません。それで異常なしということでこっちは引き上げたんです。そのものが何なのかということになると、その当時働いたことのある人によるとイペリットの容器で、そんなに腐っていたりすると危険はないだろうと。そして、その後除毒したりして、大事をしたんです。これが一九七二年の出来事で、そのときに、一つのボンベはもう腐ってわりと中に何もありませんでした。もう一つはわりと底の部分が生きとったんで、そして内容液がありまして、その内容液を国の分析センターで検査したところ毒性はありませんでした。こういう報告があって、問題は一件落着したんです。五月に発見されて答えが出たのは一二月。そのとき、竹原市議会も連名で完全な大久野島の毒ガス処理をしてもらうように、それと、元従業員の救済をということで国に申し入れしました。と同時に内容物の報告が議会でありました。検査の報告は一二月でした。その結果は毒性は検査の結果なかったということだけのことで終わったということです。

毒物焼却場

毒物焼却場で焼くのに一番苦労するのはイペリットの残さです。イペリットは原料が硫黄性のもの、これはどんどん燃えるのではなくてじわりじわり燃えていきます。ルイサイトもこのような部類なのですが、三塩化砒素というて、主にヒ素を原料にしていました。だから焼いたというても、ヒ素の成分が残るということで、毒ガスのかすを焼きよるということでなかなか燃えにくかった。その燃えにくいのは、今考えるとルイサイト系の原料の中に燃えにくいものがあるんじゃないかと思うんです。亜砒酸と濃硫酸を混ぜたものに食塩を加えて、三塩化砒素、白一号になるんですよね。白一号が半製品で、最終的にルイサイトという毒性の高い液体になるということを聞いていました。ここで焼くのはその残さ、かすですよね。かすがよく燃えるようにするために焼却場に勤める人たちは、こういうようにしよう、ああいようにしようという焼却場でのマニュアルはなかったようです。ただ自分たちが、いかにすれば早く燃えるのかという考え方の中から燃やすんです。うまく燃えたら、「ようやったのう。」というて、奨励金をもらうんです。そういうようなことでありましたから、しっかりしたマニュアルがなかったところに、やりっぱなしになったものがあったんではないか、その当時働いた人がいうのには、いろいろ進歩していって、こういう大事なものを焼く電気焼却炉のようなものもあってもよかったんじゃないかともらしていました。ここは、人工的に自分らで考案する中で残さを焼いたということは確かです。そのかわり、ここで働いた人は給料としては多かったですね。そのかわり、重傷の人が多くて、早く死にました。で、そのときの燃やす方法として山の上に煙道を引っ張ろうと、煙道を長くて、吸引力をふとうすれば燃えるんじゃないんかと、煙突の高いのをつくっとりました。そうすると向こうから風が吹いてくるというので山をくりぬいて、山のてっぺんに上げたわけですね。さらに山のてっぺんでも二、三メートルは上げてました。上がるのは二本を併用してあげて、山のてっぺんで連結して一本にしてあげた。てっぺんにも煙突はありました。
戦後処理でも焼却は、ここでやっています。呉の写真に出ているのはここで、もう一度つくりなおしたものです。
それと今見ると山肌が見えますが、昔の大久野島は、山肌が見えるようなことは、おそらくありませんでした。一本枯れたら一本植えるようでね。発電場に行ったら一番ようわかる、あの発電場は沖から絶対見えませんでした。それが今もろに見えるということは、松林がなくなったということよね。ここらあたりも樹木がおおいしげっていました。この上で戦後陶器製の機械類を解体してますね。中で目立ったのは大きな何一〇リットル入りの陶器製のものですね。ここもすごい松林じゃったんです。

焼却炉煙道口

最初は、焼却場に長い五、六メートルの煙突がたっとったのを覚えてます。ここにいらんものは皆捨てにきていました。そのうち、風洞で焼却場と煙道口をつないどるところを見ました。これはどうなるのじゃろうか、どがいになるのじゃろうかと思うとったら、この上から煙が出始めました。
真ん中の煙道がもともとのもので、両サイドにできたんで真ん中はつかわれんようになったんでしょう。風洞は鉄板で鍛冶屋がこしらえた。機械工は非常にそろうとったです。外注しません。大工も左官も鍛冶屋も、みなそろうとったです。一〇名以上おりましたね。

煙道出口周辺

北部砲台広場の上に煙突がありました。戦後処理の写真にも写っています。それとこの付近に建屋がありました。基礎が残っていますけど、ここで、何をしていたのかよくわかりませんでした。長浦貯蔵庫側には、茶工場がありますよね。その原料は青化ソーダと硫酸です。だから、わたしが思ったのは、この北部砲台に硫酸タンクがあって、硫酸を送るポンプ設備があったんじゃないかと思うたんです。でも、北部砲台跡にルイサイト、毒ガスを貯蔵してあるんだということが、はっきりして、毒ガスを貯蔵するのに、くみ上げ用にポンプが設置してあったというふうに、私の考え方を変えてしもうたんです.。
戦後は、ルイサイトをポンプで抜いて、ここでタンクを解体したという説があります。この抜き取り作業の最後、長浦貯蔵庫側で作業しよったときに、ゲージが一杯になっとるのに、それを知らずにしたら、ポンプが爆発したことがあったそうです。この事故で亡くなった人もいます。その事故処理もすんで家族の人も来て、そこらへんに肉片が散らばっているんで、それを全部ひらい集めて、海岸の洞くつに入れて、火葬すべく支度をして、灯油で焼くつもりじゃった、灯油じゃ思うて、肉片を入れてかけて、火をつけました。ところがガソリンでバーと火が来て、そのときAさんは火傷して帝人の診療所に入院しました。 戦後処理のとき、爆発で死んだり、ケンカで死んだり、発射発煙筒が足にあたった事故があったといいます。

北部砲台跡(毒物タンク)

ここに六基毒物タンクがあり、イペリット、ルイサイトが貯蔵してありました。周りの石垣から見ると人の二倍ぐらいの高さの貯蔵タンクです。今こうしとったら、開口部が非常に広いですけど、そのころ、大久野島というところは、もう松がすごくしげっとったところで、昼間も暗いようなところでしたから、上空から見えんかったと思います。
貯蔵タンクをここで解体しましたので、ここに鉛がたくさんありました。戦後、たくさんの人が、拾いに来ました。鉛でもこまい砂粒と同じです。それをとおしでふるうて、今のコーヒーの缶、自販機で売りよりますよね、それより、ちょっと長いのに一杯たまったら一〇〇〇円でした。給料の四分の一です。でも、船になかなか便乗できません。それに、守衛が船に乗って、沖の方まで来るんです。隠れようがありません。遠ざかったら、守衛がまたひっこむんです。その繰り返しです。三〇歳ぐらいのときのことです。二八歳で町役場に入って、一九五八年(昭和三三年)が合併して竹原市になったんですから。竹原市になる前じゃったです。給料は、一ヶ月で四五〇〇円から五〇〇〇円。そのころは、役場に入るものはおらんですよ。給料が安いですから。大久野島に行きますと、一日に四〇〇〇円、五〇〇〇円になります。だから、大久野島に行こうじゃないかいうて、船に便乗できるような人に頼んでね。
あの向こうの地下になっとるところエチルアルコールがありました。戦後すぐもらいに来たことがあります。それもドラム缶に入れてあるイペリットの材料で使うエチレンガスの原料です。ここにはアルコールが一杯一杯ありました。九九パーセント以上のアルコール分です。戦後にやけくそになって、工員たちをどうしてくれるんじゃいうて、エチルアルコールをもらってね、老年工員なんか飲むんです。私も、それにわけてもらって飲んだことがあって、おいしかったですね。一・八リットル瓶があるでしょ、あれ一杯もらって、ある日クラス会に使うたです。一本を一〇本に分けてやってね、これじゃったら、大丈夫だろうと、思うて飲んで、飲んだらすごい酔ったんです。

塩・松根油・海蛍・軍事教練

今見えている砂浜では、女学生が塩をつくっていたことがあります。塩は専売品ですから、だれかれつくられません。陸軍だからつくれます。それに、ここで働く人がなめるんじゃのうて、ルイサイトの原料の食塩です。大量には原料としては竹原に塩専売局から入荷してました。当時、わたしらは「食塩よおけ作ってどうするんかいの、あれ使うんじゃそうな。」と言ってましたが、どういうふうに使うのかわかりませんでした。最後は釜で焚くんですが、海岸へコンクリートでずーと床をうってね。一番、目の細い砂をバーとまいて、それに塩を振りかけて、そして、それを繰り返します。天日にほして、また塩をかける、また繰り返して繰り返してためますと、濃度の濃い海水ができますよね。それを煮詰めるんですよ。そういうことでやりょうた。岡田先生らがそれをやった人です。小学校でもつくりょうた。忠海西小学校でも忠海東小学校でも。


「大久野島学徒動員の語り」(岡田黎子著)より

それに、松根、松の根っこを掘っていました。油のことでおもしろいのは、機械工場なんかで機械なんかふき取るときに油が布につくでしょ、この布をウエスいうんじゃけど、油ウエス、それを集めて釜で炊くんですよ。ほんなら油がじわじわ上に浮いてきます。それを集めて、取って、こして、油分を、その油をまた使われるでしょう、そういうふうに。
それともう一つ、不思議なのは海蛍です。大久野島では、今は名物のようにいっているけれども・・・。当時は、小学校の生徒が奨励を受けて、夜に海蛍を捕りにいったもんですよ。ビンの中へねえ、魚の臓物を入れて、竿にひもをつけてビンを沈めるんですよ。白い砂粒みたいなのが虫ですよ、それを集めて干すんですよ。それをつぶして、塗ります。夜光塗料です。それを、うちわに塗ります。これを、ここで「ちび」をつかう訓練のとき使うんです。「ちび」をつかうのは敵の戦車に八メートルまで接近して、近づいて、そして投げるときです。そのときの訓練、夜間訓練でね。伏せてじわりじわり敵に近づくわけです。そのとき指揮者がうちわに海蛍を塗って、夜光塗料ですから光ります。それで合図するんです。そんなことだから、これも一種の兵器じゃいうてね。岡田さんも海蛍をより分ける仕事をされています。はじめは、何につかわれるのか、何のために海蛍を捕るのかはわかりませんでした。じゃけど大久野島での訓練でわかりました。
歩腹戦闘教練は、第一から第四まであります。第四歩腹いうたら一番きついんです。尺取り虫があるでしょ。あんな調子ですよ。姿勢が高かったら発見されるでしょ。じゃから、つとめて姿勢を低くして敵に接近するんですよ。ここいう所をねらって「ちび」を投げるんです。 養成工は、明けの日も軍隊で使い物になるようなことで訓練をしていました。学習もありますが、戦闘教練に至るまで、軍事訓練がひどかったです。この島をずーと回りながら、催涙ガスをよく使って訓練していました。毒ガスの検知管の使い方も教わりましたね。それに装面訓練。登りにさしかかった頃に「装面」と号令をかけられたら、装面のマスクをつけます。歩きながら「早足」言うてね。防毒マスクをして、しかも登りになって早足でしょ、だから、倒れる人も多い。その倒れた人はすごく怒られます。命がけで、それをやるんですよ。うまくいった人は、下に降りて、今の長浦のテニスコートがある一番北の切れたところにあった緑一号の工室を通るんです。そのときもマスクをして通ります。じゃけど訓練中にマスクの吸収弁の所へ、小枝を取って、はせるんです。そしたら、すーすー呼吸をするのが楽になるんです。そういうのを知ってかどうかしらんですが、もろに催涙ガスをたいているところを通らすんです。もろに吸い込むでしょ。すっごい怒られるんです。軍隊の訓練いうものは、徹底しとりますよ

長浦毒ガス貯蔵庫

ここは部屋が六つあります。鋼鉄のタンクが縦に、それにイペリットあるいはルイサイトを貯蔵していました。イペリット、ルイサイトを工場から運んでくるときは、鋼鉄の特別の容器に入れてきました。電動車というのがありまして、早い話が電気自動車みたいな、ああいうようなスマートなもんじゃないんですが、電気発電機がついている電動車で、工場車というものがあるんです。それをひっぱってくる、それに毒ガスの原液を積んで運んできます。運んでくると、このなかで両サイドに小部屋があります。同じ形態の小部屋ですが、そのどっちかが、吸い込み側、払い出し側。その中では換気扇もありましたから…。コンクリートの四角のもの、あれが、換気扇の排気筒です。小部屋には、真空ポンプがおいてありました。そのポンプの中を真空状態にするとだんだん吹上がってきますよね。小出しに曽根の工場に送るときに、展示室にあるような黄剤容器に詰めて送る。出すときは工場員が作業してましたね。 曽根に積み出した桟橋は、今の無料休憩所があるところからです。あそこから、いろんなものを持ち出しました。ここで船に積んで、九州にいったという人がいます。その人が補給廠に勤めておりまして、ここでつくったガスは軍のガスですから、兵器補給廠に納める。そこから、出すといいます。つくりよるもんをどこに、どういうふうにしよるのか、ほとんどの工員は知らんのです。赤剤は中国へここから直接もっていってます。ほかは、まず、曽根で爆弾に詰めて、それを中国に運んでます。
オーストラリアの写真では発電所のように前に盛り土をしてありました。三、四メートル積んであったですね。貯蔵庫が海上から見えないように遮へい物になっていました。そう高いものじゃないです。わたしらが見たのはこの海岸道路に来まして、そこにはいっていきます。貯蔵庫前は作業所になってました。この道路はありません。全部遮へい物になってました。そういうような現場の体験をもってます。
戦後処理が始まると、毒物をホースでひいて、船に積みました。その後、貯蔵タンクをどのようにしたんじゃろうかと思うてましたが、つい最近、証言を聞きまして、その人によると、一〇〇トンタンクをクレーンでつって、外に引っ張り出して転がして、切って、処分したそうです。それをここらの海底に沈めたかというとそれはわかりません。と同時に鉛が内張にあったので、鉛の溶解をここでやったというんですが、焼却場でやったのかもしれません。貯蔵庫には、屋根もあったんでしょうが、屋根も取り除く、部屋の扉も取り除く、ここでほとんど解体されてます。