「眠れぬ大地」への旅山内静代

「眠れぬ大地」への旅    山内静代 (第3回日中友好平和学習の旅団長)  
 
 2004年8月17日 私たちは上海空港に降り立った。私にとっては中国は5度目の旅である。第1回は1997年の毒ガス島歴史研究所主催中国黒竜江省遺棄毒ガス検証の旅の参加であった。このときハルピン、チチハルでの遺棄毒ガスの実相を目の当たりにし、その被害者から証言を聞くことが出来た。その時の事を私は「眠れぬ大地」としてまとめた。旧日本軍はあらゆる残虐行為とともに、ジュネーブ条約で使用を禁止されていた毒ガスを使用し、しかも敗戦時、こっそりと遺棄して帰った。その毒ガスは60年近くたった今も全く劣化せず、今なお、中国の大地を汚し、人々の財産と生命を脅かしている。そして、遺棄毒ガスによる被害者たちは今なお激しい痛みとせきで眠れぬ日々をすごしていることだった。しかもその毒ガスは、私の住んでいる「竹原市忠海町の大久野島」で作られたものだった。この事実は日本では余り知られていなかった。毒ガス島歴史研究所としては必ず日本国民に知らせなければならないことであった。大きな課題をせおっての帰国となった。

 初めての中国旅行で、中国の雄大な自然と悠久の歴史そして人々の温かい心にふれ、もともと中国大陸に憧れと尊敬の念を持っていた私は、ますます中国が好きになり機会あれば中国に行きたいと思うようになった。その後、仲間と共に第2回検証の旅を行うとともに、2回ほど日中友好平和学習の旅に参加した。そのたびに思うことは、日本軍の侵略の事実と、その罪を憎んで人を憎まず、前事不亡後事之師とする中国の人々との交流をできるだけ多くの日本人に体験してもらいたいということだった。とりわけ若い人たちに。そして、今回が5度目の旅。しかも毒ガス島歴史研究所主催第3回の日中友好平和学習の旅である。参加を募ったところ、12名ものかたが参加してくださった。

 今回の旅の目的は3つあった。一つは旧日本軍の侵略戦争の事実を学習すること。2つ目は、南京大虐殺偶難記念館で毒ガス展が行われているのでその展示を見ること。3つ目は、日本軍の虐殺行為と共に毒ガス使用により犠牲となられた多くの中国人民に対する謝罪の追悼式を行うためであった。とりわけ毒ガス使用戦を行った場所の一つである北担村では今なお、およそ800体もの遺体が地中に埋まっている。その村を訪れ、武器の乏しい民衆の知恵を絞った闘いと、生き残った村人の追悼への思いを学ぶという事が大きな目的であった。北担村あたりは広い平原である。山のようなものは全くない。逃げ場のない人々は地下室をつくった。それが隣の家につながり次へとつながって村中がつながり隣の村までもつなぐことが出来た。日本軍が来ると村民はみんな急いで地下道に逃げ込んだ。その地下道の入り口を発見した日本軍は赤筒を投げ込み、呼吸困難に陥れて死に至らしめたり、やっとの思いではい出してきた人々を強姦したり、銃剣で突き殺したり、井戸に放り込んだりして約1000名もの住民を虐殺した村である。そして、財政難から未だに約800人もの遺体が地中に埋もれたままである。この大地に眠れぬ人民のうめきが今なお閉じ込められたままである。しかも、村民がつくった陵園は老朽化し崩れかけている。

 かつて大久野島は毒ガス製造の軍需産業により潤った。その代償として多くの被害者が生まれたが。そして、今国民休暇村として平和の楽園となりレジャー客でにぎわっている。戦後、日本政府は製造被害者に対しては遅々としてではあるが補償を行ってきた。しかし、中国の被害者に対しては、「72年の日中国交回復時に、中国政府は国家間の賠償請求を放棄しており、日中間に賠償問題は存在しない。」との立場を固持し続けている。私たちはこの政府の対応を変えさせることが出来ないままでいる。日本国家が製造させたり、使用したりして生まれた毒ガス被害者に対してこの無礼と格差は許せない。私たちはこのような日本政府の対応を許していることを詫びねばならない。とりわけ、今回は毒ガス製造に携わらされてしまった、藤本安馬さんが「どうしても謝罪に行きたい。」と重病をおして参加された。中国の人々は言う。「日本政府は冷たい。でも民間は熱い。」と。私たちはこの言葉に真摯に答えねばならない。政府に謝罪と補償をさせねばならない。その決意を固める旅であった。

 第1回と第2回の旅では遺棄毒ガス弾による被害者が、毎夜、ひどい咳におそわれ本人はもとより家族みんなが眠れぬ夜を過ごしていること、そして今なお地中に毒ガス弾が埋まっていて何時牙をむき出すかじれない大地の苦悩を思って「眠れぬ大地」としてまとめたが今回の旅では戦争中に起こった毒ガス使用で日本政府はすでに解決済みとしているけれども、今なお眠れぬ遺体が地中に放置されたままであることと、その上で生活している村民は毎夜どんな思いで布団入るのであろうかと心が痛んだ。北坦の村を歩く時できるだけそっと歩くようにした。北坦村もまた眠れぬ大地であった。

 数年前までは、日本人が村に入ることはとても許されない状況の村であったが、今回北担村で追悼式を行ったり、陵園修復に努力されている毒ガス委員会のかたがたにお会いしたり、幸存者の証言を聞かせていただいたりすることができたのは一重に河北大学教授の陳俊英先生のおかげである。今回の旅では友人にたくさん会うことができた。そして新しい友人も作ることができた。南京大虐殺記念館あげての歓迎をしてくださった朱成山館長、通訳の常嫦さん。北京人民抗日戦争紀念館の段曉微さん新しい館長の王館長、上海では従軍慰安婦問題の第一人者である蘇智良教授、すべての方に筆舌に尽くせない歓迎とお世話をいただきました。すばらしいスタッフに恵まれた学習の旅であったがこれらはすべて日中友好青年委員会の紹介によるものです。紙面にて御礼を申しあげます。   

 参加者は、事前に「日本軍毒ガス作戦の村」(石切山英彰著)を全員が購入し、読んでおいてもらいました。また、参加者はそれぞれに目的を持って参加しておられたので行く先々で深い交流ができました。旅行参加者の間でも、出発式での自己紹介、バスの中での会話、昼食会でと交流する中で、それぞれの職場であるいは地域で一方ならぬ平和問題や人権確立の追求をしておられる方々であることがわかりました。中国のかたがたとの深い交流はもちろんのこと、旅の呼びかけに応じて参加してくださった方々との交流は実り多いものであった。全員元気で、それぞれに旅の目的を果たし更なる課題を背負って帰国でき、今後の幅広い交流の糸口となったことに感謝申し上げます。参加者の深いお心のおかげです。

 また、副代表の中村京子さんが、千羽鶴を夜な夜な連れ合いさんと二人で折りあげ「参加できないけれどもどこかでささげてほしい。」と空港までもってきてくれました。残りはみんなで飛行機の中やバスの中でおりました。それは南京の記念館の入り口にささげました。また彼女の作った、「大久野島の歌」パート2(謝罪の歌)をテープに吹き込んで行って、追悼式でみんなそれに合わせて歌いました。中村さんの思いは中国の人々の心に、中国の大地に響いたことでしょう。

 第3回の「眠れぬ大地」への旅もこうしておおくの成果を挙げることができました。しかし、イラク派兵を始め、新しい教科書問題、靖国参拝問題など、歴史の事実を認めようとしなかったり、すでに過去のこととして目を向けようとしない状況が急速にひどくなってきている今日の日本の国民として、日常の多忙の中で安穏と流れに流されるまま日々をすごすことがいかに戦争加害に加担しているかを自覚しなければなりません。

 この原稿を書いている今も、イラクでは子どもたちが戦争の犠牲になっていることでしょう。子どもたちに安らかな夜はあるのだろうか。

 あらゆる戦争の被害者が眠れぬ夜をすごさねばならない。世界の人々が安心して眠れる夜を迎えられるように。