大久野島とその周りの海を愛して 吉田徳成(瀬戸内海海砂採取全面禁止同盟会)

毒ガス缶を魚網に掛けた話

 昭和30年(1955年)頃から漁師だった父の後を次ぎ独立して漁業をやっていた。戦前・戦中も父親を手伝って漁の手習いをしていた。父は何人かの人を使って漁業をしていた。大久野島の発電場から東北のあたりの海はメカリの巣といって鯛の好漁場があったので大久野島の近くで鯛漁をしていた。戦後 漁をしていて毒ガスのボンベが網に引っかかったのは大久野島と小久野島の間である。ここは海底が深くなっており、そこに戦後いろんな物を捨てたと聞いている。その近くで漁をしていて毒ガス缶を引き上げた。大久野島の毒ガスのことは聞いていたので危ないと思ったのですぐ網を切って毒ガス缶を外し、すぐ海に沈めた。直径30~40センチメートルの40リットル入りくらいの缶だった。
 引き上げた缶が危険だと感じたのは、大久野島では危険な毒物を造っていたのを知っていたし、自分自身も戦後処理にも行って危険な事を知っていたからだ。戦前・戦中と自分の三人の兄も大久野島に働きに行っていて、一番上の兄が傷害を受けて入院した事もあり、大久野島では危険な物を造っているという認識は十分あった。大久野島で毒ガスが製造されていた時、忠海町からはたくさん大久野島に働きに行っていた。大久野島に行けば良い給料がもらえるし、工員になれば、当時では手に入りにくい物資も売店で買ったり出来るというのが羨望の的だった。だから、少々危険な事があると聞いていても大久野島に働きに行きたがる人が多かったように思う。自分が毒ガス缶らしき物を引き上げたのは1回だが、ほかの2~3人他の漁師も引き上げたと聞いた事がある。忠海の漁師はみな大久野島で危険な物を造っていたこと、戦後処理の事もうすうす知っているので気を付けていた。毒ガス缶を網に引っかけて毒ガス事故にあったのは他の地域から来た漁師が多かったと思う。危険をあまり知らない漁師が毒ガス缶を引き上げてなんだろ調べているうちに被害にあったのではないかと思う。
1950年頃、大久野島の北部海岸には鉛をとりにたくさんの人が行っていた。鉛を取りに行って被害を受けた人もいる。戦後の毒ガス処理の時、北部海岸の辺りで鉛の処理作業をしたので、鉛が砂浜にたくさん落ちていた。それを手に入れて釣りの道具などにして利用する人もいた。それで鉛を取りに行った時被害に会った人もいる。

毒ガスの戦後処理の作業に行った話

 1946年(昭和21年)4ヶ月ぐらい戦後処理の作業に行った。帝人三原工場の下請け企業の募集で行った。危険ない作業だという認識はあったが戦後、働き口はないし、生活するためには働かなければならなかった。作業はLSTに毒ガス缶を積み込む作業やいろいろやった。毒ガス缶や毒ガス工場の機械の解体作業はやらなかった。毒ガスが付着している物を電気バーナーで切る作業をしている人もいたが、自分は危険だと分かっていたのでその作業はしなかった。危険なという認識があまりなく熱心に解体作業をした人たちが大きな毒ガス傷害を受けて早く死亡したのではないかと思う。しかし自分も気をつけていたが毒ガス缶などを運んでいて足に水泡ができて3日ほど入院したこともある。

大久野島がアメリカ軍の弾薬置き場に成ったとき作業に行った時の話

 日米安保条約にもとづいて、1950年にアメリカ軍が再び大久野島を接収し弾薬置き場として利用した。地元町民は反対で、漁民も好漁場が荒らされるとピケをはったりして反対したが反対の声は受け入れられなかった。
 その時、アメリカ軍が弾薬置き場にした所の草刈り作業に雇われて来たこともある。西海岸の今の、テニスコートあたりに沢山の弾薬がテント中に野積みにされていた。弾薬の管理に100人ぐらいが働いていたように思う。弾薬をおいてテントを被せてある周りを7人ぐらいで草刈りの作業をした。約6ヶ月ぐらい働いた。その時草を刈っていたら目がチカチカしたり、くしゃみが出たりしたこともある。くしゃみ性の毒ガスが残留していたせいだと思う。

海砂採取禁止運動ついて

 業者が海砂を採取するまでの大久野島の周りは魚が豊富で、イカナゴを追ってスナメリ鯨がよく回遊していた。スナメリは茶目っ気があって、動くものを追っかける習性があり、よく船についてきた。4月~5月ごろよく姿が見られた。周期的に姿をあらわしていた。スナメリ以外にも大久野島の近くでは鯛・カレイ・スズキなどがよく獲れた。海砂採取の話が出たとき、少しぐらい獲っても良いのではないかという意見も漁業者の中にあった。それは、海砂採取にともない漁業補償金が出るのと、海底をかき回せば海底のいろんなものが浮遊し、それをねらって魚が集まるので漁業に良いという間違った考えを信じる者もおり、海砂 採取を認めるムードもあったからだった。        
 しかし、一方では海砂採取は漁業には良くないと考える人は反対の意見を持っていた。竹原沖や大久野島の近くの海底にはコンクリートに最適な粒子の海砂があったのでコンクリート業界でもブランド品として人気があり高く売れたようで沢山のガット船がやって来て採取するようになった。中にはガット船ではなく、吸い込み式の採取を行う船も出てきた。吸い込み式だと海底を根こそぎ吸い取ってしまうのでますます環境破壊を大きくした。それからは環境汚染が進行し、スナメリ鯨も回遊しなくなり、豊富な海産物も獲れなくなくなった。座視できず海砂採取全面禁止同盟会を結成、反対運動を進めた。その結果、1998年2月18日をもって広島県内における海砂採取の全面禁止が実現した。

 吉田さんは現在でも瀬戸内海全体での海砂採取全面禁止をめざして、また、瀬戸内海の環境を守る活動を継続している。

(2005年12月2日 聞き取り)