孫景霞  肖慶武の妻

孫 景霞の証言

  (肖 慶武の妻)
                       
                         孫 景霞さん

 現在ハルピン市在住。は先の李さんと劉さんと共に、毒ガス弾で被毒した肖慶武の妻で孫景霞といいます。肖慶武は、長い間(1974年から)治ったり、発生したり、もう1回治ったり、そんな繰り返しです。その痛みとか苦しみとかはとても言葉では言えないです。1978年まで、結局主人の両足はどうしても治らない状態になったんです。その時、両足が黒くなり腐って、骨が少しずつおちていきました。始めは杖を使い、少しは動けましたけど、後は杖を使っても動けなくなりました。

 そういう状態で、1988年までに307病院とか、ハルピンの病院とかいろいろな病院に行ってみてもらいました。結局、骨のガンという病気であることが明らかになりました。その長い間、その痛みや苦しみは何回も自分の頭を壁にぶつけたり、自分で自分の身体をなぐったりしていました。いろいろな所が痛くてがまんできなくて「死にたい」「死にたい」と言って、生きていました。その時、主人の肺も肝臓もいろんな内臓が悪くて、最後には総合病(身体の内臓がすべて悪い)になりました。その上に、主人は目が悪くなりました。1番悪いのは目ですね。左の目は何も見えなくなり、右の目は少しの光くらい見えるようです。

 1989年には脳卒中になって、食事もできないし、動きもできなくなった。入院して治療をして、少し話せるようになりましたが、両手は全然動けないままでした。しばらく、入院していましたが、退院してから会社の職員の病院に入院しました。その時もいろいろの症状がありました。例えば、小便とか大便とか出来ないときは7~8日間できなかったし、1日に何回もすることもありました。その上に、足の骨が痛くてしかたがないから、麻薬を毎日注射してもらいました。

 主人はもとは身体が大きくじょうぶでしたが、中毒してからは身体がだんだん弱くなりました。これは1974年の時の写真で、これは死ぬ3日前の写真です。死ぬ前に、涙を流しながら、日本軍国主義を恨んでいる。もし、日本の軍人がいなければ、毒ガス弾がなければ、こんなふうになっていないじゃない。その痛みは主人1人が苦しんでいるんではなくて、家族みんなはその苦しさを心痛くて見ていられませんでした。

 長い間、自分の肉体的な苦しみだけじゃなくて、家族全体が経済的、精神的な方面も苦しんだんです。例えば、私は主人のせいで、仕事がなくなりました。主人はよく病院に入院したり、治療したり、けっこうお金がかかったし、それで、自分の住んだ家まで売りました。そのお金で、主人の病気を治療してもらいました。主人が生きているとき、主人の会社から毎月30元もらいましたけど、今は主人がいなくなって、30元もなくなったし、生活の保障がなくなりました。

 主人が中毒したとき、娘は6歳で小さいけれど、お父さんの面倒をみたり、いろいろ家庭の仕事をしたりしました。どういう原因かわからないけど、娘は血の病気にかかりました。今年、34歳で動けなくなって、身体全体が腐っています。娘はそのためよく入院します。入院すると2~3ヵ月位入院しますので、お金がかかりました。それらのことで、私は心が本当に痛くて、死ぬまで自分の苦しさ・痛さは言葉では言えなくなりました。

 今は中国政府と日本政府と友好関係になっていますけれども、昔はそういう関係になっていなかった。戦争がなければ、主人にそんなことがなければ、私の家庭もいい家庭・幸せな家庭じゃないですか、とても日本を恨んでいます。主人が死ぬ前そう言っていました。そういうことがなければ主人は死ぬはずじゃなくて、生きているはずです。私も李さんの日本政府へのお願いが早く実現することを祈っています。