化学兵器の傷害作用・行武正刀

2001年度毒ガス島歴史研究所総会記念講演より
「化学兵器の傷害作用」人類は生き残れるか

行武 正刀 (元忠海病院長)


講演という発言の機会を設けていただいて、非常に嬉しく思っています。これからお話するこの大久野島の問題というのは、もっと広く知ってもらいたいと思っています。それは、地域的にも広く知ってもらいたい。それだけなくて世代の上でも広く知ってもらいたいと前々から考えておりましたので、発言の機会が与えられれば、非常によろこんで、何処へでも出かけて、お話をしたいです。今日は、スライドを中心にお話をするんですが、あの写真は見たと言われる方もいるかもしれませんが、我慢して聞いていただきたいと思います。
まず最初に、「化学兵器の傷害作用―人類は生き残れるか-」という大きな題を付けました。こんな大風呂敷みたいな題を広げましたのは、ちょっと思い出がありす。今から30年位前なんですけれど、いろんな報道機関の方が忠海病院の方においでになり、大久野島の取材をされることがありました。その時に、あるジャーナリストの方がおっしゃったのは、「この問題をグロ-バルな視点からどう思いますか。」と、いうふうに聞かれまして、面食らいました。グローバルというのは地球的ということなんだが、地球的に考ると、どういうことなのか、その時には、全く私は思いもつきませんでした。ちょうどその頃は、忠海病院は、実は私一人で運営している状態でありまして、目の前の患者さん、今日はどうなるのか、明日はどうなるのか、明後日はどうなるのかというようなことばかり考えておりまして、この問題を地球的な規模で考えるということを思ってもいなかったという状況だったわけです。
しかし、30年経ちまして、私もその間にいろいろ見たり聞いたりしたことがありました。それからまた、30年前には、毒ガス傷害者の数といいますか、登録している数というのが2500人しかなかったと思いますね。現在では、6800人の方がはっきり把握されているという状態ですから、大久野島や忠海分廠で働いていた人の4分の3は把握したと思っています。ですからそういう意味で大体全体像が見えてきた時代になってきたと思いますので、その意味で私も「人類が生き残れるか」というような大きな題を付けてみました。そのつもりで聞いていただきたいと思います。
まず最初に、地図が出ました。特に遠くからおいでになった方は今回はなかったと思いますけれど、地方からおいでになった方、まあ東京も大阪もここから見ると地方になんですけれど、そういう方にご説明するのにこのスライドを使っています。これは忠海の後ろの黒滝山から見た、前が忠海の町と港、向こうに見える鉄塔の見える島が大久野島ですね。これは、現在の国民休暇村になっている大久野島であります。現在と言ってももう30年位前の写真です。今はもっと別な眺めになっておりますが、いずれにしても国民休暇村であります。
これは大久野島の一番広いグランドにありましたイペリットの製造工室。大久野島では最大の工場だったところですね。全島がこのように工場あるいは工室、倉庫で埋まっていたわけです。


全国の従業員の分布を見てみますと、ちょっと古いんですが傾向は変わりません。
なんといっても広島県がもっとも多いですね。
それから広島県の向かい側、つまり大久野島の向かい側の大三島は愛媛県ですが、愛媛県からもかなりの方が登録されている。
それから大阪・兵庫に多いのは、この地方から人を取ったというんじゃなしに、戦後そこに移って生活をしておられる方がたくさんありますから、そういう意味で大阪・兵庫が多いわけです。
福岡にたくさんありますのは、これは曽根製造所の関係者が含まれていますので、数がかなりあります。これはもうちょっと増えていくと思います。
この数には、海軍の相模海軍工廠関係の数が含まれておりません。




これは広島県下の分布図でありまして、色を付けております所、赤い色を付けておりますのが忠海町でありまして、1232人、現在の町の人口がちょうど1800人位くらいですかね、ですからいい歳をしたおじいちゃんおばあちゃんは、亡くなられた方もおりますが、ほとんどが大久野島と関係があったというふうに考えていただいていいと思います。
ですから何年か前ですが、忠海の小学校で「大久野島の話をお家で聞いてみましょう。」という課題がありました。非常にいい話だと思っています。自分の家におじいちゃん・おばあちゃんにはなくても、となりのおじちゃん・おばちゃん、にはいろいろあると思います。そういったことで、若い方々、あるいは小学生がそういうことを地域から学んでいくというのは、非常にいいことであり格好の材料がまだ生き残っておられるというふうに思っております。
それから黄色いところが忠海以外の竹原市、これもかなりあります。897人。忠海とたすと2000人以上になります。
それから忠海の東側にあります三原市幸崎町、ここも500人近くの方がおられます。この色を塗っているところを合計いたしますと全体の広島県下の50%ぐらいになります。それから、そのとなりの市や郡を加えますと80%になります。それから、ちょっと離れた広島市、あるいは福山市にありますのは、これは、若い徴用工の方が連れてこられたということです。



これは、当時の「たこ」と呼ばれる製造工、あるいは工室に入るときの服装ですね。完全防護服ですね。しかし、何かのひょうしにポトリとイペリット液がつきますと、たちまち皮膚に大きな炎症を起こします。防護服を脱ぐときに除毒液、あるいは海水でざあざあと洗い流して脱いだといわれますが、この液が一滴ポトリと落ちますとたちまちこのような炎症を起こす。

これは白黒ですから分かりませんが、当時の看護婦さんに聞きますと、これは真っ赤っかになっていたんです。それからこれは付いたばかりだが、翌日は、両肩全体がフットボ-ルのような大きな水疱になる。という話を聞きました。



これは、脇の下でありまして、脇の下に直接ついたわけではない。脇の下あるいは陰嚢とういうところは、普段でも汗が多いところですが、わずかなガスが汗の中に溶けますと、まるで薄い毒液を局所に吹きかけたのと同じような変化がおきますので、同様の発赤、水疱そして破れてズルズルになるビランという状況になります。このズルズルになるビランという作用がイペリット、そしてルイサイトの特徴であります。


これは、はっきり人も分かっているんですけれども、戦後処理作業で何か汚れている所にペタッと座った。それが木の箱であったか、草原であったかよくわからないのですが、翌日はたちまちお尻全体に、このような水疱ができまして入院しておられます。



これは、現在の障害者の皮膚の状況でありまして、ご覧になりますように褐色の色素が全身にあり、そうしてその間に白い点々・脱色斑もあり、そして一部分がこげ茶色のかさぶた状の変化がおきており、かさぶたが取れてうす赤く皮膚の真皮が覗いているという状況がある。そうした変化が皮膚のガンでありまして、ボ-エン病と呼ばれる経過であります。


 昭和27年という年、20年に戦争が終わりましたから、ちょうど7年目ですけれども、30歳の男の人が広島大学を受診いたしまして、その方が肺癌でありました。今は肺癌という病気は珍しい病気じゃないですね。男子の癌で、死亡が一番多いのが肺癌ということになります。しかし、当時は肺がんは非常に珍しい病気でありましたから、「これはなぜか」と調べてみると、大久野島には毒ガスを作っていたという問題が分かりまして、それに広島大学が27年から、忠海町に来まして、集団検診というものを始めました。



これは最初の論文から引いてあるんですけれども、どういう症状でそのとき来たかと聞いてみますと、「咳と痰」がダントツでありますね。つまり呼吸器の症状が非常に強かった。最初の症状を聞いてみても、「咳と痰」でありましたし、工場を辞めたときも咳と痰があったんです。そして、7年経っても咳と痰が一番多いという状況が続いていたんです。


それまでに、どんな病名がついていたかというのを聞いてみますと、呼吸器の病名が圧倒的に多いですね。93%。その中で気管支炎という病名、それから肺結核、当時は、まだ肺結核が日本中にありましたから、結核があったと思うんですね。それから肺炎を患った胸膜炎。それは結核性胸膜炎ですね。その他に肺壌疽というような喀痰がどんどんできるのもあります。喘息というのはそれよりちょっと少ないですね。そのように呼吸器に非常に強い病気がたくさん残っているということが最初から分かりました。それで、その年から忠海病院に医師が派遣されまして、この病気についての系統的な研究がスタートするわけです。

その内に従業員が次々に病気で亡くなられまして、これがその亡くなられた原因を10年ごとに分析してみたものです。そうしますと、最初の10年間は、この青い色、青い色というのは呼吸器疾患ですけれど、呼吸器疾患で亡くなっておられた方が圧倒的に多いということが分かります。それから消化器・循環器の順になるわけですが、この割合を見ていきますと、だいたい消化器がどんどん増えてきて、呼吸器が減ってきて、日本全体の統計に近づきつつあるとは思いますが、振り返って見ますと、最初は呼吸器の障害が非常に強かった。しかも、この中でこの斜線の引いてあるのは悪性腫瘍、つまり癌でありまして、喉の癌、鼻の癌、そして肺の癌であります。もちろん胃癌もありました。そういう状況で最初から呼吸器の癌が非常に多いという疾患であることがよく分かります。その呼吸器癌の割合はだんだん減っていくわけですけれども、いずれにしても慢性呼吸器障害、その中でも肺癌というものが断然多かったということが分かります。慢性気管支炎、咳と痰が続くという病気なんですけども、これがどんなふうに発病しているかを見た表です。



 これは、長い間集団検診を担当されていた重信卓三先生という方の論文から引いたんですけれど、ここに職種がありましてイペリット、ルイサイトを直接製造した人、あるいは工務焼却という直接イペリット、ルイサイトに触れる機会が非常に多かった職種もあるんです。そうしますと慢性気管支炎の発病率というのがこんなに高い、77%よりも高い。当然だと思いますね。非常に強い障害がでてそして勤務期間も長いのですから、たくさんの人たちが慢性気管支炎を発病した。しかし、これをよくよく見ていきますと、例えば医務であるとか事務とかというようなガス地帯でなかった、工場地帯にいなかった人であっても、勤務期間がだんだんと進むにつれて、25%、あるいは30%を越えるようなグループもあります。「これはなぜでしょうか。」ということを考えてみますと、つまり非常に薄い毒ガスであっても環境が悪かったということは間違いのない事実ですね。そういう環境のもとに1日8時間も10時間も呼吸する。それが1年・2年・3年いや10年以上という方もあるわけですから、当然呼吸器の粘膜に悪い障害が起こしてしまう。それが年々、つまり毒ガス工場を離れても、一冬ごとに風邪を引いてだんだんと悪くなるという状況がみられるわけですね。私が医者になりたてのころ、いや医者になる前ですね。大気汚染という言葉が初めて使われだしたころ、どういう話があったかというと、「道路の真中に立って交通整理をやっている巡査が一日中悪い空気を吸っているので喉が悪くなる。」という話が書いてある。「そういう職業病があるのかなあ」というふうにそのときは思いましたが、今は、巡査でなくったって大都会に住んでいれば、誰でもその呼吸器障害になる危険がある。大気汚染ということが日常の言葉なんですね。
 ところが大久野島を振り返ってみますと、あの瀬戸内海の中の美しい小島、白砂青松という言葉がぴったりする。その小島において、昭和の初めから常に典型的な大気汚染という状況が作られており、その中で、1000人、2000人あるいは2000人以上の方がその島の上で働く、しかも何年も働くという状況がありまして、そういう方々は大気汚染という問題を我々が知るよりももっと早くから体験しておられる。ですから我々は、そういう状況を最初に見つけたといういうふうに言ってもいいと思います。そういった意味で今日的な意味のある表だと思って見直しています。


 呼吸器のお話をちょっといたしますと、これは、気管支造影法というレントゲン写真でありまして、気管支の中に造影剤が流れ込んでいますから、気管が気管支に分かれてそれが細い枝に分かれて、肺全体に広がっているもようがよく分かると思います。その枝分かれしていった一番先端はどうなっているかと言いますと、細い細気管支というのがあり、その先端にブドウの房のような肺胞と呼ばれるものがたくさんついている。この肺胞の表面におきまして、非常に薄い薄い膜ですから、中の空気と外の毛細血管を通っている血液の間にガスの交換が起こり、つまり、吸い込んだ酸素を血液に運び、血液の中の炭酸ガスを肺胞の中に捨てるという呼吸作用が行われておるわけです。これが肺全体の呼吸作用であります。気官や気管支の管の表面には繊毛と言われる柔らかい毛が絨毯のようにびっしりと生えておりまして、それがただぼんやりと生えているのではなくて、こちらの図のように絶えず運動しておりまして、しなやかに腕を伸ばして力強く弧を描くという運動を1分間に何百回も繰り返して、そうして、絨毯の表面についている粘液や、粘液の上に付着したチリや埃、細菌などを気管の上の方へ運んでくれる、つまり、クリーニングの働きをしておるわけです。
ところが、その繊毛作用、ありがたい繊毛作用なんですが、いろんな障害を受けて脱落することがあります。
例えば、強いインフルエンザのような炎症がおこりますと、一時的に脱落する。或いは毒ガスを吸ってもそうなります。
しかし、幸いに体中至る所に再生作用というのがありますから、下の方からまた繊毛が生えてくる。
これは動物実験でありますけど、動物に亜硫酸ガスを吸わせてザーッと繊毛が脱落した後、だんだんと繊毛が生えてくる様子を撮ったもので、長いものもあれば、短いものもあるという状況だそうです。
ところが、人間の場合はですね、これはヘビースモーカーの方でして、何度も何度も脱落、再生を繰り返しておりますと、仏の顔も三度と言いますが、何十回もくり返すと繊毛が再生しなくなる。こういう状態が起こってきます。
そうしますと、繊毛がなくなりますと、クリーニング作用が悪くなってきますから、そこに粘液が溜まりやすい。
粘液が溜まると、ここにすぐ細菌が取り付いて、繁殖する。ばい菌が取り付くとこの繊毛がまた悪くなるという非常に都合の悪い悪循環が起こってまいります。ですから、気管支の悪い状態がどんどんと広がってくる。つまり、慢性気管支炎へとおちこんでいくということになります。あちこちの中学校でもお話していますが、タバコも毒ガスですよということは必ず一言つけ加えるようにしています。


 咳と痰が出るというのが慢性気管支炎の特徴なんですね。それで、痰を調べてみようということを私の師匠の西本幸男先生が言われまして、痰の検査というものをたくさんやりました。その中の肉眼的性状、どんな痰が一日にどれくらい出ているのかというのをより多くの方について調べてみました。


ここに名前が出てきます。誠に申し訳ありませんが、この方は一日5ccぐらい。白っぽいといいますか、透明といいますか、粘液性の痰。量も少ない。これは、喀痰の肉眼的性状の分類といいまして、このMというのは粘液性ということですね。これが(M1)純粋に粘液性で、透明みたいなもの。これは(M2)濁っていて膿の存在が疑われているもの。Pになりますと、明らかに膿の部分がありまして、1/3まで、2/3まで、2/3を超えるものという風に肉眼的に分類しておりまして、これが非常に役に立つ。役に立つというのは、患者さんがどのくらい重い気管支炎であるか。あるいは治療した場合、その治療が効いたかどうかというのは、痰を見るのが一番確かな方法であります。この方はずいぶん、35ccも出ておりまして、痰が10cc以上出ると、たくさん出るねというんですが、20cc出るとのべつ出ると言う感じになると思いますが。それでも、まだ粘液性痰であります。これになりますと、もう痰の中に膿がありまして、これはP2になると思います。これは、もう全体が膿性でありまして、P3。見ただけでもう胸が悪くなるよう。しかし、こういう痰が毎日毎日出ていくんです。それで、そういう痰がどういう時間にどれだけ出ていくのか実験しようと思いまして、小さなビニールの袋を患者さんの枕元に置いて、痰を一回ずつ全部取ってもらって、このタイムレコーダーでがちゃんと何時何分というはんを押して、この袋に溜めてもらう。こういうことを、何日も続けてやってみました。
 この方は47歳の男の方。1日、2日、3日と、まずこれを見て頂きますと、午前0時から23時まで刻んでありますが、夜中に、2時、3時頃ですね、たくさんたくさん痰が出る。いっぱい痰が出てます。2時から3時にかけていっぱい痰がでる。しかも、濃いい痰が出てます。P3というような、濃いい痰が夜中にいっぱい出る。「夜中に痰がたくさん出ます」ということは、話には聞いていましたけど、この実験をやるまでは、実感できませんでした。そうして一寝入りして朝6時頃からまた痰が出だす。どんどんどんどん午前中いっぱいかけて出る。午後になると、少ない。こういうパターンなんですね。こちら側は、痰が切れる痰剤というものを使ったときのパターンの変化です。こういう慢性気管支炎というのは、反覆性の過剰な粘液分泌、痰が出る。そして、限局性の病気がない。そうして、2冬以上見られるというような状況が、ここに定義が書いてあるんですけども、まぁ、2冬どころじゃない、さっきの方47歳の患者さん、三原市バスの運転手さんだったんだけども、もう何年も前から運転するどころじゃない。ベッドの上に座ってヒーヒーという息をしとられる。そういう状態だったんです。
 もう一つ、肺気腫という病気がありまして、これはずっと前に出てきました肺胞というブドウの房のような、呼吸、ガス交換を行うの装置ですけども、その肺胞がだんだん破壊されまして、破れた風船のようにだんだんと融合して弾力性がなくなる。そうして、息切れがすぐくるという状態、これが肺気腫。 肺気腫と慢性気管支炎、この二つがガス障害の特徴であります。顕微鏡写真で気管支を見ますと、ここが気管支の管の中でありますが、この気管支の表面に薄い毛の層、絨毯の層がありますね。これが繊毛なんであります。この繊毛が非常にありがたい、クリーニング作用をしてくれておるのですね。ところが、この繊毛をもった表皮細胞に何度も何度も障害が加わって、ついに繊毛が脱落してしまうという状況が、次に起こってまいります。これがそうでありまして、本来なら、ここに繊毛がずーと生えそろっていたはずですが、もう全くなくて、普通の皮膚のような扁平上皮という組織に入れ代わってしまいました。こういう扁平皮に入れ代わる化成という現象が肺ガンの一つの段階である、発ガンの一つのステップであると学者が言っておりまして、いずれにしても危険な状況であります。 そうして、亡くなられたときに、これが、解剖させてもらったときの顕微鏡写真なんですが、気管支の中にいっぱい痰が詰まっている。気管支の中がどれかと言うと、これが気管支の管なんですが、その中にいっぱい粘液が詰まって亡くなっておられるんです。気管支にはたくさん痰が溜まっていて、炎症も強かったでしょうし、呼吸困難が非常に強かったと思います。最後は、気管支炎から肺炎になって多くの方が亡くなられました。
 これが、肺気腫と言われるもので、肺の一番最後のブドウの一粒一粒が肺胞です。しかし、それがだんだんと壊れまして、融合いたしまして、つながって大きな袋になってしまう。こういうふうに大きな袋になりますと、ブドウの粒一つ一つがもっておる弾力性というのが失われまして、そうしますと、肺全体の収縮力が失われてきます。肺が呼吸するというのは、はくとき、グーと搾り出すように空気を吐き出して、それから、しっかり深呼吸をして空気を吸い込むという、これを繰り返してるわけですが、肺も弾力性が衰えますから、しっかり吐きなさいと言っても、しっかり吐けない。肺が膨らんでいて浅いところで呼吸をしているという状態ですね。ですから、ガス交換がうまくいきませんから、炭酸ガスが肺の中に溜まりやすいでしょう。当然、少し運動しても、息が切れるという状況がやってくる。これが肺気腫であります。

毒ガス戦争の話をちょっと入れたいと思います。毒ガス戦争は第1次大戦で大々的に戦われたんですね。1914年から18年まで続くんですが、まず、最初はドイツが、ここにドイツがありますが、オランダやベルギーをどっと攻めこんでくる。ベルギ-は中立国だったのですけど、そして、フランス領へせまっていくという状況。







それで、ベルギー領のフランスに近い所に、イ-ペルという小さな町があるんですけど、ここで大激戦をやるんです。この西部戦線と言われるこの一帯でこう着状態になりまして、そこで、毒ガスというものが最初に使われます。最初は塩素ガスが使われましたが、その内に両方ともガスを使い合って、ドイツはイペリットを開発する、イギリスも負けずにイペリットを開発する、という状況になっていって、毒ガスが最初に、まぁ最後かも分かりませんが、大々的に使われた戦争になる。
 このイ-ペルという美しい町です。城壁に囲まれた。城壁の中に3000~4000人くらいしかいませんから、小さなおもちゃのような町だと思ってください。 
この町は毎年5月に「ねこさまの祭り」という大々的なお祭りがあって、まぁ、三原で言えば、やっさ踊りみたいな、町中の若者がねこの格好をして出るという状況です。それが有名な観光行事になってるんですが。
これは、同じところを撮ったものです。この大きな建物。この中に市役所があって、また戦争博物館というのもありました。それを見てみましょう。大きな建物といったのは、この建物なんですね。このときは第1次大戦の真っ最中で、ドイツ軍の攻撃によって、町全体が完全に破壊されている。市民は一人も住んでいなかったというふうに記録しています。 この写真を見たときに、まるでこれは原爆投下後の広島そっくりだなと思いましたが、その後、少しずつレンガを積んで、また元のおもちゃのような美しい町を再建しております。



イーベル広場に立つ著者 後は繊維会館と時計台








これが、戦争博物館の内部でありまして、第1次大戦のいろんな戦争資料がたくさんありまして、毒ガスに関するものが非常に多い。これが毒ガスを詰めていたボンベ。多分、塩素ガスだと思いますが、それを立てた筒であります。最初のガス戦というのは、こういう風に使ったらしい。まず、やりたい所に筒を埋めておく。それにボンベをさして、一斉に噴射するという。これは、空中写真。飛行機から撮ったものだすが、ボンベの口を開けてもうもうと白煙を上げてガスが出ております。その後ろから、歩兵が3列になって進軍しているという模様ですね。もっとも、この写真は実戦を撮ったものか、演習を撮ったものか、それは分かりませんが。いずれにしても、当時の毒ガス戦の状況をよく表していると思います。これが最初のガスマスク。マスクとも言えないような物を使ったんですが、すぐにいろいろと工夫して、両方、両方と言うのは、ドイツ側、イギリス・フランス側も次々にマスクを開発。マスクを作れば、今度はそれを通過するような毒ガスを作る。今度は、それに負けないようなガスマスクを作るというような両方とも開発合戦をやるわけです。
 まず最初に、目をやられるという記録がありますが、これは、おそらく塹壕の中の地下の野戦病院みたいな治療所なんでしょうね。目をやられた兵士が、見えませんから、前の人の肩にずっとつかまりまして、そうして、歩いて後方に帰っていく写真ですね。これは、有名な写真でして、映画にもなっています。私はテレビでこの動いている映像を見ましたが、この写真は、おそらく映画から取ったものだと思います。
 これが、西部戦線の塹壕の中ですね。戦線がこう着状態になりまして、最初は3~4週間ですぐ終わると思っていた戦争が、なんと3年以上かかります。しかも、膠着状態。両方とも、塹壕を掘って睨み合い。そういう中で、雨でびしょびしょ、泥まみれになる。みんな塹壕足という水虫のような病気になってしまう。或いは、戦争の神経症みたいなものになる。兵士の反乱も起こる。いろいろなエピソードがありますが、この疲れきった兵士の表情を見てください。毒ガスと砲弾におびえながら、泥の塹壕の中で暮らしていたんです。
 そういう激戦地から、いろいろ掘り起こされた遺品が展示されておりまして、これは、ピストルから、弾やら、鉄砲やら、いろんな兵器があります。これは電信の線でありまして、塹壕に電線を引っ張って、作戦をやっていたらしい。
 不発弾。今でも畑から、野原から掘り出される不発弾が次々とありまして、今、ベルギ-は80年前の戦争の遺品を掘り出しては、せっせとそれの分解廃棄作業を続けておりますが、この不発爆弾を掘り出す作業も非常に危険であった。戦後は日本でもそうですが、とにかく食っていくためには、焼け跡を掘り起こしてから古金屋に持って行くというのは、どこでも同じだったようで、このベルギーでも、みんな不発弾を掘り出す。それから、爆発弾やら、化学弾やら分からないのに、それを分解してしまう。犠牲者がずいぶんあって、以降、そんなことをしてはいけないというお触れを、ベルギーの政府が出したという記録もあります。その近郊には、第1次大戦の死没者の墓地があります。何百、何千という墓碑が並んでますね。しかも、こういう集団墓地がいっぱいある。150箇所くらい、その町の周辺にあるんです。
これは、ドイツ兵のための墓地です。このような所を、私は全体の1割くらいしか見ませんでしたけども、まるで、巡礼の旅のようでありました。
これはイーぺル近郊のペルカペラという村ですけれどもこの林の奥に毒ガスを廃棄する工場を建築中でありまして、もうすでに稼動していると思います。
 毒ガスと戦争という問題なんですけども、第二次大戦では、日本もこの大久野島で作った毒ガスが戦地へたくさん運ばれたわけですけども、南方戦線で退却して逃げるときに、毒ガス弾を置いて日本軍が逃げまして、それをオーストラリア軍が見まして、「これは大変だ。日本軍が毒ガス戦を企画しているから、われわれもそれに対抗してすぐ準備しよう」ということで、いろいろ準備をはじめました。
まず草っぱらにイペリット液をジョウロでまいています。そして「たこ(服)」を着ている。日本の「たこ(服)」と全く原理は同じなんですね。そこで背番号をつけた兵隊、志願兵(志願兵のことをボランティアと言うんですが)ここで猛烈に演習させて、どんな障害を受けるか見ていくということをやった。ガス室の中で、荷物をかついで一生懸命歩くというような労働をさせた。おそらく汗びっしょりでやってたにちがいない。そういう人たちの記録がありまして、ここは手首に大きな水疱が出ています。体中にこういう変化が起こる。これは陰部の障害。これはお尻のやけただれたあと。痛そうにズボンを履くところ。
 このような人体実験は、オーストラリアだけでなく、アメリカでも6万人に人体実験をやっている。これは無視できない虐待だという告発がおこなわれた。これは、1993年の新聞です。それがとうとうアメリカの医学雑誌に論文として出ちゃった。イギリスでもやっている。イギリスは第二次大戦がすんですぐにドイツを占領いたしまして、サリン(ザーリンと書いてある)などを押収してそのサリンの技術を持って自国でサリンなどの研究をはじめて成功します。そして、志願兵をたくさん集めて、人体実験をやっている。その技術はすぐアメリカに渡ってアメリカでも大々的にサリンの製造が始まります。
 くだりまして1800年代になって、イランイラク戦争が始まりました。イラクのフセインが、イペリットなどをイラン兵に対して使いました。これは、テレビのニュースですね。
このイラン兵は、ほとんどが戦場で即死したそうですが、生き残った人々をヨーロッパのあちこちの病院に運びまして治療させています。これは、ドイツのフライタークという医者が書いた論文から引いてあるんですけども、フライタークが言うには、イペリットの急性障害は、出血性の強い炎症である。それが治ると気道に収縮が起こって狭さくが起こる。これは、たまたま声帯のところでありまして、声帯がくっついてこんな鉛筆ぐらいの穴に収縮している状況で、このような状況では、たぶん窒息死する以外にないと思います。つまり出血性炎症と狭さくである。やけどが治る時のひきつれ状の狭さくであると言っています。フライタ-クは、自分が発明した人工の気管支をこの気管の中に埋め込みまして、狭さくを防ぐということをやっていますが、残念ながらせっかく気管支を埋め込んでもその先や根元のほうが狭さくが起こって、だめになってしまう。この論文を書いてからだいぶあとに日本に来ましたが、彼が言うには400人ぐらいやったけど、ほとんどだめだった。今4、5人しか生きていないということを言っていました。
これがイラン兵の顔の写真です。額は皮膚がペロットむけて、それから白っぽい所は、たぶんこう薬をぬりたくっていると思いますが、黒っぽい所はかさぶただと思います。
下肢全体にイペリットの障害の大きくぶらさがる水疱ができています。おそらくイペリットがまかれたばかりの草原みたいなところで作戦したんでしょう。下半身全体に大きな水疱ができています。ここでもやはり目をやられた写真が見つかりまして、80年前と同じだなあと思いました。
他人のことばかりお話しましたが、日本の話も少しはしないと不公平になると思います。中国にたくさん化学兵器を置いて帰っています。いや置いて帰っただけでなく、捨てて帰ったものもある。ちゃんと武装解除の時に引き渡して帰ったものもある。どちらにしてもたくさんの化学兵器が、中国大陸にあります。そして使ったか使わなかったが問題になるんですが、日本の政府は、赤筒は使ったと言うのは認めているが、黄弾を使ったのは正式には、認めてはいない。こういう曖昧な態度がアジアにおける日本の地位を悪くしている。
これは中国の青年が日本軍が捨てて帰ったイペリット弾のために皮膚障害をおこしている写真です。これは中国からおいでになった人からもらったものです。





 今、化学兵器が世界各国にたくさんたくさん貯蔵されておりまして、これをいよいよ廃棄する。もうすでに廃棄作業に入っております。アメリカにもたくさんあります。330万発もあります。ここにユタ州がありますがここにトウェラー兵器貯蔵所があり、ここにたくさんあります。

 これがトウェラー貯蔵所でありまして、ごらんになりますようなドラム缶、これが全部サリンでありまして、これだけで4000トン。これと別のところにこれよりもっと強い神経ガスが4500トンあると書いてあります。

 これは太平洋のまん中ハワイ州ジョンストン島という所にアメリカが建てた化学兵器の廃棄工場でありまして、ここへ運んでせっせと破壊分解作業をやっています。、こういう作業はアメリカが一番進んでいまして、大体半分近くやったと聞いています。
 あちこちで捨てた人があるようで、ソ連もドサクサにまぎれて、日本海に捨てたということも言っています。化学兵器禁止条約、いろいろな国が集まって、化学兵器を禁止しようということになり、10年以内にを目標にこの条約を作りまして、その後日本も批准いたしました。そして2007年までには、全部これを完成しようということに国際的な義務をおったわけですね。日本も去年から中国大陸でパイロットスタデイをやって、今年から本格的な大量処理に入るんですが、アメリカは非常にその意味では進んでいて、日本はその後。ソ連は一番あとと言う感じなんです。




 核兵器と化学兵器の相違点     
1.皆殺し兵器

2.長く残る後遺症

3.報復が怖くて先に使えない

4.分解・廃棄が困難

これが最後のスライドなんですが、化学兵器と核兵器の相似点ということについて考えてみましょう。まず第一に、皆殺し兵器だということですね。皆殺しというのは、兵隊も市民も全部殺してしまうという意味もありますが、それだけじゃあない。動物であろうが、植物であろうが、鳥であろうが、魚であろうが、とにかく生命体というものを全て殺してしまうという皆殺し兵器であるわけです。次は長く残る後遺症。これは人間の体にも後遺症が残る。それから、その土地にも長い間後遺症が残ります。それから3番目。これは戦術的なことですが、相手の報復が怖いので先に使えない。第2次大戦後の長い間の冷戦は、核兵器のバランスの上に成り立っていたんだと言う人がいますが、いずれにしても向こうが使ったら報復で使う。しかし先に使うことは出来ないと言うのが核兵器と化学兵器の共通点なんです。そして分解廃棄が困難。作るのは簡単に作った。工業力があれば化学兵器はすぐ出来ると思います。核兵器はもっとお金がかかると思いますが、化学兵器は化学国なら時間をかけ、お金をかければ出来ないことはない。しかし、それを分解廃棄するとなると、さらに危険なんですね。危険である上にお金がかかると言う問題。いずれにしてもこの4点におきまして化学兵器と核兵器は、双子のようにそっくりだと言うのが私の印象であります。これと全く同じなのが生物兵器もそうですが、よく似たのに地雷というのもあります。


「化学兵器の傷害作業」というタイトルをつけましたからそれをどういうふうに処置したらいいかちょっとお話したいんですが、本当は処置のしようがないと思います。軍隊は、毒ガスにどう対処したらよいかという事は、つまり自分の仕事ですから、その知識をよーく持っていると思いますが、それは公表されるような性質のものではないだろうと思います。私の読めるような範囲でどういうことがあるかと言いますと、イペリットについては、脱脂綿でぬぐうように吸い取るのがよいと書いてある。なぜか。水でザーッと洗い流すとせっかく局所についておったものが、水でザ-っと全体に流れてしまって、皮膚障害を広げてしまうだけだ。だから、局所から脱脂綿で吸い取るようにイペリット液を取りなさい、というふうにいっております。つまりそれほどイペリット液の毒性がやっかいなものであるということです。
サリンはどうかということなんですが、全く不幸な事ですが、日本にはサリンの経験がありまして、松本事件と東京都の地下鉄事件がありまして、この時松本の時はわかるのがおくれまして、地下鉄事件の時はだいたいわかったそうで、処理がしやすかったと言われていますが、実は非常に問題がある。たくさんの方が障害を受けましたが、担ぎ込んだ病院の職員が障害をうけまして、なぜかというと、被害を受けた人の衣服にそういうものがついてたり、染み込んでいたため、一生懸命看護した医者や看護婦さんがそれを吸って障害を受けています。ですからあとで聖路加病院からそういう報告があるんですけども、被毒者の衣服を全部ぬがして、ビニールの袋に封じ込みなさい、ということが書いてあるんですね。サリンの場合はそんなにやっかいな問題もあると思います。たまたまサリンをまいたといっても、松本事件の時は100gぐらい、地下鉄事件の時でも数百グラムだと思いますが、もしこれがテロリストなどによって、大都市で大量に使われる、あるいはもっとおそろしい戦争で使われるということがありますと、大きな地域でパニックが起こりまして、実際はどうしようもないと思います。消防署や自衛隊が走り回ってもそれは収拾できないような騒ぎでありまして、実際どのように対処するかと言われても対処の仕様がないと思っています。
ところで日本ではイペリットによる実験というものは事実上禁止されております。事実上と申しますのは、イペリットを使う場合は、通商産業省に届け出る義務があります。そうして何を何グラム、どういう目的で使ったかと言うことを国際的な機関に報告すると言う義務がありまして、日本では、そこまでしてイペリットの実験をした人は、いないそうです。ところが外国には、イペリットを使った実験がいくらでもあると言うことが最近わかりました。私は、日本の田舎に住んでいるからちょっと視野が狭かったかもしれませんが、最近いろんな文献を読んでみて、外国にはいくらでもあるんだと言うことを知りました。なぜかと言うと、外国には軍隊と言うものがあって、軍隊はイペリットをどのように防ぐかということを研究する。これは仕事であります。つまり実用的な実験なんですね、彼等にとっては。ですから実験をやっておる。そして、それが化学雑誌にちゃんと載っているという状況です。
それでイペリットだけに限っていいますと、たとえばイランイラク戦争の場合、ほとんどが戦場で即死の状況であります。二番目に幸い生き残った兵士は欧州の各地の病院に運びましたが、先ほど見ていただいたドイツのフライター博士の論文のようにいくらがんばってみても結局は、ほとんどが苦しんだだけで死んでしまうと言う状況でした。三番目にこれは最近1997年イランから出た論文ですがこれを読んでみますと、さらに生き残ったイラン兵を追跡調査してみてどのような症状があるかと言うと、強いぜん息症状があったと言うことが書いてあります。これは、われわれの大久野島症例とちがうところだと私は思いますが、何故、喘息が起こるかと言うと、気管や気管支の中に反応性の収縮(やけどのような収縮)が起こりまして、気道が狭くなる。そうして強いぜん息状の呼吸困難がくるようになると書いてあります。そして四番目は、われわれが長い間見てきた大久野島症例の段階ではないかと思います。慢性気管支炎、そして肺気腫という状況が進んで来る。しかしよく見てみないと、肺がんが次々と出ている状況がある。これが大久野島症例の特徴であると思います。つまり、イラン論文と言うのは、イランイラク戦争が起きてから、たかだか10年ぐらい後で出た論文でありまして、逆に大久野島症例からかえり見れば、イランにはこれから肺がんが増えてくると予言してもいいと思います。
さて、第一次大戦で毒ガスが大量に使われまして、その後毒ガスが使われることがなかったかと言うと実は使われております。ジュネーブの議定書は、1925年出来たんですが、1930年には、すでに台湾の霧社事件(これは日本の陸軍がやったものですが)、36年には、エチオピア戦争でイタリアのムッソリーニがエチオピア兵に対してイペリットを使った。それから1937年から日中の全面戦争に入りまして、この時に赤筒を使ったか、黄弾を使ったかどうかこの問題が未だに公表されていない。それからドイツが1938年に神経ガスを開発しました。最初は農薬殺虫薬、ジャガイモにつく害虫を予防するために有機りん系の農薬を作っていたんですけれど、これが人間をすぐ殺すと言うことがわかりまして、すぐナチスの抑えるところとなり、サリンなどを開発していくことになるんですが、ヒットラーは、サリンを使うことはありませんでした。1961年からベトナム戦争があり、この時にはアメリカは、おうと剤、枯れ葉剤などを使います。それからイランイラク戦争。1980年からは、先ほど申しましたイペリットなどをフセインが使っている。それから1988年クルド族を弾圧するためにやはりイラク政府が徹底的な壊滅作戦で、イペリットを使っている。1990年になりまして、ペルシャ湾の湾岸戦争の時には、どうもアメリカ軍は、サリンを用意していたのではないか。そのため帰還兵は、湾岸症候群というものが起こって、何かわけのわからない病気が帰還兵にたくさん起こっています。これはサリンをうっかり吸ったのではなかろうか、あるいはサリンを予防するために兵士全員に打った予防注射の副作用ではなかろうかという風なこともいわれており、この湾岸症候群の原因はまだはっきりわかっていません。そうして日本でも、94年には、松本事件、そして95年には地下鉄事件というものがあるわけです。決してわれわれが毒ガスに対して安全な立場に今あるわけではない。ちょっと振り返ってみますと、軍隊による人体実験がたびたび行われていると言う事実もあるのです。これはどういうわけかいろいろ考えてみましたが、ひとつは軍隊というものがもっている特性。自分の持っている武器がどの位きくのか、ちょっと使ってみたい、という欲望と言いますか、ちょうど自転車を買ってもらった子どもが雨が降ってるのに、「今日、自転車に乗りたい乗りたい」と言うような感じと全く同じで、軍隊は持っている兵器を使ってみたい。どのぐらい有効かということを早く知りたいという欲望がおさえられなくて、やはり志願兵を使って各国で人体実験に走っている。それからもうひとつ、戦争に勝つためには、何をやっても許されるんだと言う状況があります。戦争には必ず、いろんな暴力事件、性暴力事件も含めてありますが、日本はそういった人体実験を捕虜に対して行ったと言う汚名をいまだにもっています。
それから世界的な戦争に使われるということは、遠のいたんですけども、依然としてまだわれわれがそういう危険にさらされているというのは、核兵器と違って化学兵器は、貧乏人の核兵器といわれておりまして、つまり安いお金でこっそり作ることが出来るわけです。ちょっとした広い工場があれば作ることができますし、上九一色村でもオウムたちが作っています。それを査察すると言うことが、いまや国際的にやられておるわけですが、局地戦争ではやはり使われる危険があります。それから、独裁者が使うと言う危険もあります。フセインは国際査察と言うのをいまだに拒否しておるようです。それからテロリストと言うのがある。テロリストと言うのは、世界中いたるところにいるようです。その根底には、貧困問題がありまして、貧困問題を本当に解決できるだろうかという社会的な問題。それから狂信的な宗教集団。まあ宗教とよべるかどうかオウムなどがそうですね。オウムに入っている人をみるとちゃんとした大学に入っている教養人だと思っている若者が、何でオウムみたいなところに入るのか。多分、この受験戦争を勝ち抜いて、やっと大学に入ったが、五月病になったとたんに何していいかわからない。その時にしくしく話し掛けてくるグループがあって、初めて友だちらしい人ができて、それにのめりこんでいるうちに、それがオームだとわかり、あるいは新興宗教だということはたくさんあります。以上のような状況で、依然としてわれわれは、大戦争ではないけれどもいろんなところで毒ガスの危険性の中に生きて行かなければならない現状なんです。そのもとにあるのは、民族主義であったり、宗教の対立であったりする場面があります。バルカンなどがそのいい例でありまして、現在でもユーゴスラビアが解体したあとの、セルビア問題。今でも殺し合いがずっと続いています。あるいは、宗教問題では、パレスチナにおける問題。このあいだいだテレビを見ていましたら、外国の放送で、戦車が出て500人も死んだら戦争ではないか、同じようなことがパレスチナでも今起こっていますと言っていました。これも戦争だと思います。こういう所で、毒ガスが貧乏人の核兵器として使われる危険が依然としてあります。そういう世界の中で、私たちがどんなふうに生きて行ったらいいか、私が答えを持っているわけではないんですが、つまり地球上には、いろんな人間がいて、あるいは同じ日本でもいろんな価値観の人がたくさん混ざり合って住んでいる。言葉も違い、宗教も違い、イズムも違い、そういうことを乗り越えて、認め合ってしかも尊重し合う。それからお互いに悪く干渉しない。いろんな価値観をもった人々がまだらのように、でも平和的に住んでいける世界が理想的なものじゃないかと思います。核兵器、生物兵器、化学兵器がもし使われますと、この地球は壊滅的な汚染状況になるわけであります。たとえシェルターから這い出しても、もう安全に暮らしていける環境は、そこにはないですね。最悪の環境でも生き延びていける生命しか残らない。もちろん人類は残らないと思います。たとえばゴキブリのような生物しか生き残っていけないかもしれません。「歴史は繰り返す」という言葉、これは西洋の言葉だと思いますが、これは同じ過ちを何回も繰り返すというのではなくて、われわれが払ってきた尊い犠牲と言うものを歴史から学び取っていくことが出来ればというふに、いい方向に希望的に考えていきたいというふうに思います。
今日は「人類は生き残れるか。」というような、大風呂敷を広げましたが、おまえ何を言ったか結論が出とらんとおっしゃる。全くその通りだと思います。結論が出ていない話を今日はさせていただきました。しかし発言の機会を与えてくださったことに感謝いたします。
それから、もうひとつお願いします。広島には当然原爆という問題があります。原爆で50、60万人の人が被災しています。大久野島は、7000~8000人数にして百分の一なんですが、それだけ声が小さいといえばそれまでですが、出来るだけたくさんの証言を集める。いや元大久野島に行っていた人自身が自分でどんなものでも筆を取って書いていただく。老人会でつづり方教室があればそれをちゃんと書いていただく、ということが大事だと思います。私の所にお見えになる患者さんといろいろお話をして、ところで何かつづり方を書きましたかと聞いてみるんですが、中にはちゃんと書いている方が居られまして、必ず一部いただくようにしていますし、もし書いていない方があったら、便箋でも何でもいいですから書いて送ってください。すぐワープロで打って送り返しますから、それをまた直してください。と言いまして、実際にそうして頂いた方が何人もあります。これからも発言をたくさん集めていきたいと思っています。その意味でこの問題に長い間携わってこられましたこの会に、深い敬意を表します。
どうもご静聴感謝いたします。