お互いに一番正しい情報を伝えよう歩平

「お互いに一番正しい情報を伝えよう」   
歩平  (中国社会科学院近代史研究所所長) 

 私は北京の出身。小・中・高校を過ごした。1966年に高校3年生のとき、文化大革命のさなかで、大学生をはじめ若者は農村に入った。私は、中国東北部の黒龍江省に行った。最初は6年間、農民として働いた。その後、大学に入り、卒業後はハルビン市の社会科学院で研究を始めた。それから歴史研究を続けている。教授になり、副院長になった。ちょうど1カ月前に転勤した。中国中央部の社会科学院近代史研究所の所長になった。ノートパソコン1台と本1箱を持って来た。まだ資料も妻もハルピンに残している。娘は北京医科大2年生になる。

 私は、大久野島を4,5回訪れたことがある。みなさんと縁があるのだろう。最初に日本に行ったのは1986年。東京、仙台、新潟、山形などを訪れた。1985年までは中国とロシアの関係史を研究していた。1986年から中日関係史の研究を始めた。訪日したとき、広島の原爆投下を記念する社や寺院、祭壇があった。中国人なので、理解できなかった。私の印象は、日本人は自分の被害ばかり強調する、というものだった。子ども時代、中国の教育は、「日本軍は侵略者」「日本人は鬼のようなもの」と教わった。日本人が被害者という認識はまったくなかった。だから、初訪日したとき、日本人の被害の側面をまったく理解できなかった。

 その後、1994年、初めて広島と大久野島を訪れた。そのとき、広島の原爆資料館を見学して、自分の認識が変わった。そこには、女性と子どもの被害が紹介されていた。女性と子どもに罪はない。そのとき、日本人も戦争の被害者という認識になった。続いて、大久野島へ行った。それ以前に村上初一さんと手紙でやり取りしていた。村上さんと、岡田黎子さんと会った。村上さんも最初は、14歳から大久野島で働き、戦争の被害者という認識だったという。しかし、私が中国の毒ガス被害者の状況を話すと、村上さんは驚いた。自分が被害者だけでなく、加害者という側面に気付かれた。自分が造った毒ガスを中国で使い、どのような被害が出たのかという状況が分かったのだと思う。その後、いろいろな状況を研究すると、日本と中国の間に歴史認識の問題が今でも残っている。

 一番重要な問題は、お互いの理解がまだまだ進んでいないことだ。中国では社会環境においても、例えば、私の子ども時代から、テレビ、映画、新聞、マスコミの情報で、戦争時代の日本軍の残虐性がよく宣伝、報道された。日本人に対して悪い印象を持っている。それが、ふつうの中国人の認識だ。しかし、日本人の被害の状況をまったく知らなかった。大学の歴史学部の学生でさえ、沖縄作戦のことは知らない。教科書の中に、沖縄戦のことはまったく書かれていないからだ。日本側の教育も同じ。中国側の被害の状況や中国の戦争の体験が教科書に書かれていない。両方の理解はまだできていない。

 戦争の問題の研究目的は、できるだけお互いに一番正しい情報を伝えたい点にある。歴史認識の問題だ。

 もう一つが毒ガスの問題。それは重要な問題だ。昨年、チチハル市の工事現場で地下から5つの毒ガスのドラム缶が発見された。40数人が被害を受けた。そのうち1人が亡くなった。昨年のチチハルの状況は全国的によく知られ、大きな反響があった。毒ガスは被害が深刻で、大きな問題として受け止められた。もう一つは、日本軍が残した毒ガスだ。戦後59年が経った今でも、被害が続いている。それもひどい状況。大部分の中国人は、戦後、中国と日本が毒ガスを処理した状況は知らされていなかった。今年の6月、7月にもチチハルで毒ガス事件が発生した。

 このように、昨年から中国では毒ガス問題が広く関心を集めるようになった。日本でも2002年、2003年と毒ガス問題が神栖などであらためて表面化し、遺棄弾の問題が大きくなってきた。ただ、認識を比べるとちょっと違う。日本では神栖や平塚の問題が発生すると、マスコミで報道され、国会や地方議会でも取り上げられ、首相も発言した。しかし、中国では被害が出ていても、日本側ではあまり報道されない。日本の防衛庁が文書を書いている。その内容は、「遺棄弾の問題は日本側の責任ではなく、中国側の責任。戦後、日本側は毒ガス・砲弾を中国、ソ連軍に引き渡した。その後の原因はすべて日本の関係はない」というものだ。これは認識の問題だと思う。

 私の研究の目的は、日本人に中国人の被害の状況をよく説明し、戦争の責任を認識しなければならないということを理解してもらうことだ。
昨年、藤本安馬さんから手紙をいただいた。藤本さんは、毒ガス工場で働いた。もちろん被害を受けたが、加害の責任も認識されていた。私は、その手紙を友人たちに送った。毒ガスを製造した労働者の認識を知り、われわれはみな感心した。 お互いに理解しなければならない。

 現在、中国、日本、韓国の3国の学者が一緒に、相互理解のために教科書の副教材を書いている。1週間前、韓国で第7回の教科書の会議があった。原稿はほぼ終えている。今年5月が初会合だった。9月に北京で総合の第3回会議を開く。3つの国の19世紀の中ごろから今までの歴史発展の問題、3国のふつうの人々の戦争時代の体験、戦争の認識について討議している。

 実は、3国の学者が討論すると、問題がある。日本側の学者は侵略戦争と戦争責任を認めてはいるが、中国人と韓国人の間でも具体的な歴史認識の差がある。朝9時から夜12時まで、昼食と夕食を食べながら毎日討論した。3国の学者の認識はお互いに交流しなければ、ふつうの市民はまだまだ認識に差がある。だから、学者のレベルで交流し、共通認識を持つようにしなければならない。大体、それができてきた。来年5月に出版する。一方で、「新しい歴史教科書」の改訂版が出る。そのとき、副教材を出版しなければならない。お互いの理解のために努力しなければならない。

 中国人も同じ。戦争被害者だが、中国人の認識にも間違った部分はある。被害は事実だが、日本人と韓国人の戦争被害についての認識はなかったといえる。中国人の中にも実際に狭い、極端な民族主義の認識もある。例えば、中国と日本のサッカーの試合で起きたこと。一部の若者は自分の国の利益ばかりを求める傾向がある。それは、先生と学者の責任。できるだけ若者に正しい歴史認識を学ばせたい。中国の若者は日本に対して、右翼というレッテルを張っている。もちろん、日本は右翼だけではないのだが。中国のマスコミが日本の右翼の問題ばかりを強調する面がある。一方で、日本のマスコミは中国の極端な民族主義の問題ばかりを報道する。だから誤解が生まれる。短い時間なので、そろそろ質問を受けましょう。

(藤本さん)
 歩平先生の著書を読ませていただいた。日本軍の侵略戦争と毒ガス兵器がもたらした被害について書かれていた。何回繰り返して読んだことか。ちょうど読んでいたころ、悪性リンパ種の末期という宣告を受けた。もう帰ってこれないのだろう、という気がした。だから今知り得ているものを何とか、口で言えなければ、文章で訴えようと、「毒ガスの概要」という冊子にまとめた。手術を受けて入院している間に書いた。いつ死んでもよいという気でいた。ところが、そんなあまっちょろい考えでは己の責任をまっとうできないだろう。息の続く限り、生き抜かなければならない。生きて、生きて、生きている間に訴え続ける、という気持ちになった。それが、生きるということに結びついたのだと思う。

「日本国民も、毒ガス生産者は被害者である」という言葉をいただいた。しかし、立場が違う。加害者という立場は、永久に拭い去ることはできない。なぜなら、加害者の責任ということは、裏返せば被害者。被害者というからには怒りがなければ自覚できないはずだ。被害を受けた痛さを忘れ去っているのではないか。のどもと過ぎれば熱さを忘れる。それでは、これからどうするかという課題は生まれてこない。毒ガスによって障害を受けた被害という立場からすれば、そこで怒りが生まれてこなければならない。

 それが日本の国の今の状態になっている。戦争ができる準備、いや戦争が始まっている。戦争ができる条件が整っている。人間も整っている。これを被害という中でどう自覚して、今の権力に立ち向かっていくか、という課題が生まれてこなければならない。加害の責任と被害の責任は背中合わせの問題として受け止めるべきだ。当時の権力が加害をした。利用されたから、知ったことではない、ということでは権力を追及する闘いは起こらない。命の限り、過去の歴史的事実をしっかり語り、伝え続けなければならない。それがせめてもの償いの仕方ではないか。命の続く限り、闘い続けたいと思う。

(今関さん)
 三国の学者が弁当を一緒に食べながら、歴史的事実を突き合わせて、共通認識を持つのが難しかったところはどんなところですか。

(歩平先生)
 いろいろな問題があった。例えば、歴史認識は大体同じ。ただ、執筆方法が違う。日本側の教材、教科書は、戦争時代の両方の意見を掲載する。それを学生に見せて、自分が選んでください、という手法だ。中国ではそういう習慣がない。中国の教科書は編集者の認識で書き、学生に教える。中国の教科書は国定なので、国の意見を学生に教える。中国の学者と日本の学者は執筆の仕方が違う。中国人は、日本の学者に、あなたの意見はどちらかよく分からない、立場があいまいだ、と言う。ただ、後で細かく討論すると、日本側の状況が分かる。日本の学者、日本社会の問題がある。副教材を出版したら、右翼が攻撃してくる。

 文化背景が違う。日本の戦争時代の風刺漫画。漫画家加藤は、バス停の乗客が、民主主義と自由主義と書かれた大きな荷物を持ったままバスに乗らない漫画を描いた。漫画を利用して1940年代の大政翼賛体制の状況を説明した。一方、中国側はよく、スローガンを使った。日本側の学者には分かりにくい。

 もう一つ、いくつかの歴史認識の問題があった。例えば、犠牲者の人数、具体的な場所、一部の方の評価の問題。まったく対立した意見はなかった。中国と韓国の間も同じように問題がある。1840年ごろ、中国と朝鮮(韓国)の関係で中国の方が強かった。不平等があった。そのことを韓国の学者は強調するが、中国側の認識は乏しい。

(広田さん)
 遺棄毒ガス弾の問題。日本ではあらためて環境庁が調査して再度、調べている。中国でも日本政府が調査をしているということだが。中国の状況を明らかにする日本政府の姿勢をどうみるのか。中国ではあまりやってないのでないか。中国側の見方はどうか。

(歩平先生)
 日本軍の遺棄弾については、2つの状況がある。1つは、戦争終了時、遺棄弾(ふつの砲弾を含めて)が倉庫に残された。それは、ソ連軍に引き渡された。しかしそのとき、毒ガス弾が含まれている情報を中国、ソ連側に伝えていなかった。

 その後、1950年に中国軍が遺棄弾処理に当たった。そのときは、普通の砲弾だと考えていた。しかし、1951年に毒ガス弾が確認された。そのため、毒ガス弾を選び出して、隣の山奥や地下に埋めた。中国の東北地方がもっとも多い。例えば吉林省の敦化。
もう一つ、日本軍が逃げるとき、国際条約に違反していた毒ガスを自分たちで埋めた。それが戦後、偶然に発見されるようになった。この遺棄弾は、事故があったから分かった問題だ。それ以外の情報はまったくない。最初の情報は日本側が提供し、中国軍が埋める処理をした。1991年から、日本の外務省、自衛隊、防衛庁が各地で調査した。その場所は中国軍が埋めた場所。それは、日本の内閣府のホームページに出ている。

 しかし、それ以外は、日本軍が埋めた毒ガスの状況は、事故や被害が発生しないと分からない。それを明らかにしていく方法はない。
 

 ただ、2つの提案がある。

① 日本側ができるだけ戦争と日本軍に関係する情報を提供することだ。どこで埋めたのか。

② 工事する前に検査して、毒ガスの問題がなければ工事する方法の確立。ただ、検査の機会が優れたものがない。

 中国側の数字の200万発。中国側が発見し、地下に埋めた資料に基づく数字。そのときの情報は十分ではない。普通の砲弾と毒ガス砲弾の区別がついていなかった面はある。中国側の言う200万発は少し多いかもしれない。日本側と中国側が代表的な場所で調べ、推計して約70万発としている。