李臣 1974.10.20被毒

李 臣の証言
     黒龍江省航道局勤務   

 私は李臣と申します。黒龍江省航道局に勤めています。私は当時、ジャムス市の西ドック口近くで沈澱している泥や砂を取り除く仕事をしていました。浚渫船「紅旗09」号に乗り込み、整備作業をしていました。1974年10月20日午前1時頃のことです。「紅旗09」号はポンプを降ろして、河の下の泥とか砂とかを吸い込んでいました。急に、ポンプが何かかかったみたいな感じで止まりました。ポンプが何かに詰まったからだろうと考え、検査のために船の下の機関場の中に入りました。入ったのは私を含めて全部で4人、肖さん、劉さん、呉さんです。肖さんは鉄の鎖を両側につけて、ポンプを上にあげました。ポンプの蓋を開けると、上には黒色のようなものが漂っていました。肖さんは多少の経験を持っていました。石だったら機械で細かく切れる。肖さんは切れていないから、たぶん鉄だと思いました。肖さんは中に何かあると思って、ポンプの中を探ったので、その中の液体がこぼれました。みんなは、肖さんのそばに立っていましたから足がぬれました。私はポンプの中から、鉄(砲弾)を手でつまんで、もう1つの手で下を支えて取出しました。肖さんはそれを上に持っていったんです。その鉄は長さ50㎝、直径10.6㎝、重さは5㎏位だと思います。その時、中身は全部流れていました。肖さんはその鉄を持っていくとき、私はポンプを下に降ろすとき油みたいなもので手がぬれました。

 その後、ポンプの蓋をし、ねじを締めようとしました。それが、終わらないうちに頭が痛くなり、目から涙が流れ、せきがでました。ポンプの修理が終わって、私は上にあがったんです。その時、めまいがするとかせきがでるとか、涙がでるとかを肖さんに言いました。肖さんも同じようだったので、そのことはわかりました。みんな上にあがって休んでいました。

 仕事の終わる時間になって、みんな5時半ごろ宿舎(休憩室)に入り寝ました。9時半頃、私は痛くて目がさめました。手をみると、紫色に腫れてとても痛くて起きました。そして、船長に時間をとって、病院でみてもらいたいと言いました。船は川の真中にあったので、町の方の岸に着けてもらって、ジャムスの病院に行きました。ちょうど日曜日でお医者さんが少なくて、当直のお医者さんを探して、その手を見てもらいました。その時は水疱みたいなものがでてきたんです。お医者さんに見てもらっても、どんなものかわからなくて、ただ痛みを抑える薬と消炎の薬を貼ってもらいました。そして11時頃、会社にもどりました。

 船にもどり、寝ました。4時半頃、また痛くて目がさめました。起きて手を見ると水疱が出来ていました。小さいのは米粒、大きいのは大豆くらいでした。もう1回、船長を探しに行ったんです。探して、自分の手を船長に見てもらいました。船長は他の人も心配になり、劉さんを探して見ると、劉さんの手も私と全く同じくらいの状態です。それで、その船長は肖さんのところへ行き、状態をみました。肖さんの目は赤くはれていました。しかも、みんな顔色は黒くなっていました。肖さんがなぜ目がはれたかというと、肖さんはポンプの蓋を開ける時、目に直接刺激を受けからではないかと思います。

 3人の状態はだいたい同じでした。船長は毒ガスの中毒ではないか、このままじゃだめだと考えた。船長は3人を連れて、もう1回、ジャムスの軍区ジャムス224病院(軍隊の病院)にいった。その時、6時半頃、その224病院に行き、王さんというお医者さんに見てもらいました。船長さんがこちらの状態を説明すると、お医者さんはこんな症状は見たことがない、ここでは治療ができないと言った。そのとき、王さんは包帯とか処置は何もやらなかった。伝染ということがあることを心配して何も処置をしなかったと思う。お医者さんはなるべく早くハルピンの方に行った方がいいと言った。その時、私と劉さんの手の大きな水疱は卵くらいになっていました。しかも、手は大きな水疱と小さい水疱で一杯になっていました。

 その夜、すぐ3人はジャムスから汽車に乗ってハルピン行きました。水疱の中には黄色の水みたいなのがありました。汽車の中で、水疱の中の黄色の水のようなものが始めは少し、あとは点滴のように流れました。3人は痛くて痛くて我慢できませんでした。汽車の座席の毛布は全部ぬれました。痛いのが我慢できなくて、食堂車に行って、痛みを抑える薬をもらって、飲みました。やっと8時頃ハルピンに着きました。11時頃、ハルピン医科大学附属第1病院に行き、診察をしてもらいました。私と劉さんは入院しました。その時も痛くてどうしょうもない。お医者さんも治療方法はないから、結局痛み止めの薬を飲ませて、注射する処置をしました。

        李 臣さん、呉 鳳琴さん夫妻

22日まで、そういう状態が続いた。お医者さんは治療方法がなかったから、1つの意見を出しました。それは私の腕を右は手首から、左は腕のひじから切る。劉さんは両方とも手首から切った方がいい、そうしないと血の病気にかかるかもしれないということでした。その時、私は29歳、劉さんは22歳でした。会社の航道局のリーダーたちは、2人がまだ、若いからかわいそうであるということで、その医者の意見に同意しませんでした。そのお医者さんは治療方法がないから、どうしようもなかった。しようがないから、そのリーダーたちは中央政府の軍医と外事公管部、衛生部、交通部にその状況を話し、状態を説明しました。それで、上の人たちはシェンヤン(瀋陽)の202部隊の病院に連絡して、その翌日23日に、2人は飛行機でシェンヤンに着き、すぐ202病院に入院しました。その後、肖さんと呉さんも入院してきました。

 病院までの道中、水疱から中の水がおちて、着物が脱げないようになり、はさみで切って、病院の着物を着ました。この病院に入院しても毒ガス中毒ということですから、やっぱり治療方法はなかったんです。その時、一階に10数個の部屋がありましたが、他の患者すべてを伝染するということで別の部屋に移した。4人はその一階にみな入院しました。そこでは他の部屋への行き来はすべて禁止されました。

 その時も治療方法がないから、うさぎで試験しました。うさぎを火傷させて薬を注射します。もし、その火傷が少しでもなおったら、みんなに注射するという方法をお医者さんはとりました。その薬を皆に注射をしたら、少しも直らなくって逆に大きくなった。1度だけで、その方法は止めました。その時、私は頭の上にも、1つの水疱ができていました。けっこう大きく、中に黄色の水があるようなもので、歩くとゆれるような感じがしました。

 入院しているとき、会社から電話があり、私たちの病気は毒ガス中毒であると知らせてきました。私たちは中毒していろんな治療していたけど、浚渫の仕事は続いて作業をしていました。もう1度、私たちのときと同じようにポンプは砲弾を吸い込み、機械が止まった。その時はみんな知っているし、漏れていなかった。そこで、ジャムスの軍隊、市の武装部、公安局、防疫局に報告しました。砲弾をそこに持っていって、鑑定してもらった。結果、毒ガス弾ということがわかった。イペリットとルイサイトの混合物であると鑑定しました。その後に引き上がった毒ガス弾は長さ・直径は前のと同じですが、重さは約15㎏です。今度のは毒ガスが漏れていないし、前の5㎏というのは大体の重さで、実際は計っていません。鑑定してから、その毒ガス弾は武装部に保管してもらいました。

 治療方法がないから、両手を塩水の中に入れる治療をしてもらった。手を塩水の中に入れると、水疱がやぶれて中の水が全部流れ、皮膚が爛れました。お医者さんは爛れた皮膚をはさみで切り、包帯で上下にして取った。私は痛くて、2回くらい意識がなくなった。そのような治療方法をしたんです。毎日、塩水の中に両手を入れて、塩のせいで皮膚が白くなる。はさみでその皮膚を切って、中の赤い色の皮膚の上にアルコールでふいて、包帯をまく。その痛さは我慢できない痛さです。お医者さんの足音を聞くと、私は恐ろしかった。本当にその痛みで死にそうでした。私はその痛みが恐くて、どうしても治療してもらいたくなかった。8時から11時まで、お医者さんの目の前でそう頼みました。お医者さんは「やってください」「してください」と言うが、私は痛くてがまんできないから、「だめ」「だめ」と8時から11時まで訴えました。「したくない」「したくない」と嫌がっていました。そういう状況の中52日位で、手の症状が治まったみたいで、皆は退院しました。

 退院してから、2ヵ月あと、私の両手はまたビランしました。私は会社の上の人に報告しました。その時、口の中、頭、背中の方も小さな水疱が新たにでてきた。それで、もう1回、シェンヤンの202病院に戻って見てもらいました。そのお医者さんは入院したら、前と同じ治療方法ですと言った。別の方法はなかった。私はその方法はどうしてもがまんできなかった。しょうがないから、会社に戻ってきた。また、会社の上の人に報告しました。会社のリーダーたちはもう1回、交通部と衛生部、外交部に報告しました。上の人たちは相談し、今度は北京の307部隊の病院に行くことにしました。いろいろ努力して1975年12月17日に北京の307病院に入院しました。

 北京でのお医者さんは黄さんら2人です。診察・観察しながら、治療してくれました。どこが爛れているか、どこに薬をしたらいいかを調べ、消炎の薬を点滴する、そんな治療をしてもらいました。その時、手は水疱でつながって、指と指は全部つながり分けられない状態でした。アヒルの足のようになっていました。それで1度、余りの肉を切ってもらうような手術をしてもらいました。

 1976年4月6日に退院した。家に帰って、しばらくはそのままが続きましたが、また口の中からその症状が発生しました。その時、手ももう1度つながっていました。お尻も爛れてきました。頭も性器もです。それで、1976年6月9日、もう1回、307病院に入院しました。もう1回、同じ治療をしてもらって7月21日に退院しました。退院しましたけれども、1979年のとき、またその病気が発生しました。そのときは、私だけでなく妻にも伝染していました。その年の12月に家族で、北京の307病院にいって、私と妻、娘2人みな検査してもらいまいした。

 結果は本人には教えなかったんですけど、実際はうつしていたんです。私が病気になり、お尻が爛れているとき夫婦の生活をしたんです。その時、うつしたんです。妻は子宮の中が爛れて、水が出てくるということがよくありました。1番目の娘は被害の前に産まれたので、何もないようです。2番目の娘は私が毒ガス中毒になった翌年産まれたので、この子は身体の抵抗力が弱いです。よく喉が痛くなり、せきもよく出ますし、口の中が爛れています。父親と同じくらいの症状です。

 その当時は文化大革命のときで、北京は混乱していました。お医者さんが地元の病院にもどって、治療してもらった方がいいと言ったので、家族4人地元に帰ってきました。

 長い間に、5回北京の病院に行き、シェンヤンへは2回行きました。その上に、毎年何回もハルピン医科大学附属第1病院と肛門と腸の専門病院にいっています。

 その時、私はまだ若くて給料は月に50元7角でした。病気のため病院代とか薬代とかかかります。給料だけでは足りなくて会社や親戚、友人から借りて、治療をしてもらいました。そのため、会社の借金を返すために給料から毎月15元引かれています。私の身体が弱いので栄養にお金がかかるし、あちこちの病院にいって入院したら、その費用は会社から出してくれるんですけど、もし、入院しなかったら、病院代は私費で払います。それで4人家族の生活はとても苦しいです。その上、2番目の娘も身体が弱くよく入院したりしますから、私は肉体的な苦痛と生活の面での苦痛で肉体的、精神的にとてもしんどくて、生きていく自身がなくなったんです。だから、私は1985年に薬(農薬の一種)を1度、お酒と一緒に飲みました。4個のビン、量はだいたいコップ1杯の薬を飲みました。すぐ見つかって、ハルピン第4病院に運んでもらいました。病院に運ばれて見てもらうと、その時もう死ぬような状態でした。お医者さんは、これはもうだめです、助かる可能性がないですと言った。でも、家族はみなお医者さんに頼み、一生懸命にすくってもらいたいんで説明しました。この人はイペリットとルイサイトの中毒で苦しいから死にたいと思って薬を飲んだことを一生懸命、お医者さんに説明しました。お医者さんはそれで感動して、一生懸命にやってもらったんです。それでも、身体の中の血が止まるような感じで、注射してもなかなか入らないみたいです。3日間位でやっと意識が戻ってきました。
                    
                 毒ガス被害を訴える李臣さん

1ヵ月位入院し、退院して家に帰ってきた。その時は薬で胃がやけて、何も食べられない状態でした。家の生活はもっと苦しんでいました。子どもが小学校に入る時期で、学校に行くといろいろな費用がかかります。例えば学費です。その時、自分の少ない給料ではどうしてもその費用は払えないです。しようがないから2番目の娘は、結局学校に入らなかったんです。今、20歳ですけど、漢字はあまり読めないです。家にいて仕事もない状況です。

 生活が苦しいので、妻はしようがないから勤めにでていきました。その当時は、私の家は石炭を使って、ご飯や料理を作ったりしていました。今はガスですけど。その時はお金がないから、妻は石炭とか鉄とかいろんなもの、ようするにお金になるものを拾って、それを売ってお金にし、そのお金で生活をしていました。私はそのことを知って、精神的にとてもショックを受けました。とても気持ちが悪くて、いらいらして落ち着かない。たまに、机とかなんかを投げ付けたり、自分の肉をかんで食べたりしたことがありました。今もその傷が残っています。この傷は自分で自分の肉をかんで食べたときのものです。私のそういう状態を見て、妻と娘はショックを受けて、娘はそれで心臓が悪くなりました。

 今でもよく喉がかかわくし、朝目がさめると口の両側に血みたいなものが着いています。せきがでると血みたいなものがでます。舌はかさかさして水が全然ないみたいです。水を飲んでもあまりきかないです。胃も悪くて、トイレでよく大便をします。大便しても量は少なくて、頻繁にトイレに行きます。また、よく涙が流れます。視力が弱くて、物を見るのが、ぼんやりともうろうに見えます。暑いとき、寒いとき、口と尻と腸、頭の方が腐るような状態になります。インタビューをよく受けるので、髪をのばしていますが、そうでないと短く切っています。下の娘はお尻の方も爛れています。

 普段は周りの人は私と接触しない、逃げていきました。親戚も友達も家に来ない。軽蔑されます。家族みんなが、毒ガス中毒が恐いということで。

 今、両手は何もできなくて、「残疾人症」(日本での障害者手帳)をもらっている。これは会社からの証明書、1974年からずっと仕事ができない証明書です。会社はずっと同じ会社ですが、仕事はできていない。給料はそのままです。基本的給料です。ボーナスや残業とか、いろんな手当てとかはない。

 今、借金が2万元位あります。借金して、お金を貸してくれた人にあうと私は落ち着かないし、苦しくてつらいです。お金をかえそうと思っても、お金がないから返すことができないからつらいです。例えば、妻の妹はお兄さん心配しないで、私はお金を取りにきたんじゃなくて、あなたの様子を見に来たんです。そう言われると、私はよけいつらくなります。

 私が今まで生きているのは妻のおかげであり、周りの親戚とか友人とか勤め先のリーダーたちのおかげで、今まで生きていられるんです。

 私は、日本政府に3つのお願いがあります。1つは中国の遺棄毒ガス弾をなるべく早く処理して欲しいです。これから、私たちのような苦しみ痛みをもたらさないように早く処理して欲しいです。もう1つは日本政府の方が第2次世界大戦の時に、中国で行なった毒ガス戦ということを認めて欲しいんです。歴史の悲惨が発生しないように。最後に、中国政府と日本政府とこれから子々孫々友好になって欲しいんです。
以上です。

呉 鳳琴(李臣の妻)
 普段はそういう話はあまり言わないです。インタビューなんかも受けません。1度、そういうことを思い出すと、何日ももどらないんです。