毒ガスの戦後処理

5 大久野島に残されたていた毒ガスの戦後処理はどのようにおこなわれたのでしょうか

(1)敗戦直後、大久野島周辺に毒ガスがどのくら残されていたのだろうか。

敗戦時、大久野島とその周辺には約3000トンの毒ガスと16000発の毒ガス弾が残されていた。これは世界中の人間を殺戮できる量です。国際条約で禁止されていた毒ガスはどのように処理されたのでしょうか。その方法を探っていけば、現在の大久野島の砒素汚染の原因も明らかになってきます。 大久野島の毒ガス処理を請け負って実施した帝国人絹三原工場の社史によると敗戦時の毒ガス貯蔵量は約3000トン、その内訳は以下のようでした。

(種類)              (貯蔵量)

イペリットガス(致死濃度)   1,451 トン

ルイサイトガス(致死濃度)     824 トン

クシャミガス(呼吸困難)      958 トン

催涙ガス(涙が激しく出る)       7 トン        

 合計             3,240トン

周辺地域(忠海。阿波島・大三島)におかれていた毒ガスも大久野島に集められ1946年5月より毒ガス処理がおこなわれました。処理作業はイペリット・ルイサイトのような猛毒を処理するので非常に危険を伴うもので、製造するよりもむしろ危険でした。

(2)敗戦後大久野島に残された毒ガスはどのように処理されたのだろうか。  

  ①敗戦~進駐軍大久野島上陸までの毒ガス処理 致死性の毒ガスは国際法上使用禁止になっている非人道兵器。問題化するのを恐れた日本軍部は「証拠隠滅」を命じました。進駐軍が来るまでに処理しようと機帆船に積んで近くの海に大量に遺棄しました。毒ガス容器や毒ガス製造設備が1メ-トル四方に切り刻まれ海に投げ込まれたという広島大学の生物学者の研究論文、「貝の告発」によると戦後、約数年間、投げ込まれた海域の海底には生物が生息しなかったという。島周辺の海域からは戦後多数の毒ガス容器などが漁業者の魚網にかかって引き揚げられた。

②占領軍による毒ガス処理 戦後の毒ガス処理は英連邦軍(オ-ストラリア軍)によって行われました。本来なら化学兵器の専門部隊で行われるべき危険な作業を毒ガスの危険を知らない民間人が行ったために作業に従事した多くの人が毒ガス障害で悩まされることになりました。 【処理は三つの方法でおこなわれました】海洋投棄・焼却・島内埋没による処理である。帝人三原工場の社史「帝人の歩み」によるとそれぞれの方法で処理された毒ガスの数値は次の通りです。

海洋投棄・・・毒液1,845トン、毒液缶7447缶、クシャミ剤9,901缶       

       催涙剤131缶、60キロガス弾13,272個、10キロガス弾3,036個   

焼却・・・・・毒物56トン、催涙棒2,820箱、催涙筒1,980箱島内

埋没・・・クシャミ剤(大赤筒) 65,933個       

     クシャミ剤(中赤筒)123,990個       

     クシャミ剤(小赤筒) 44,650個       

     発射筒 421,980個

(A)海洋投棄による処理 イペリット・ルイサイトなど死に至らせる猛毒の毒ガスが船によって高知県の土佐沖まで運ばれ船ごと海底に沈められたり、また、別の船からは海洋に投げ込まれて遺棄された。積み込み作業は極めて危険にもかかわらず、作業に従事した民間人は、十分にその危険性を知らされていませんでした。危険性を十分認識していなかったため、裸で作業している人たちもいます。

(B)焼却による処理一部の毒ガスと毒ガス製造設備が焼却処理されました。毒性を消すため工場の建物の内部も火炎放射器で焼却されました。北部海岸にあった焼却場で働いていた業員はその後毒ガス障害に悩まされ早く亡くなったそうです。焼却した時、砒素などの毒物が飛散した可能性もあり、大久野島はかなりの範囲が汚染されていると考えらます。

(C)島内埋没による処理毒性の弱い毒ガスである赤筒や発煙筒などが島内の防空壕などに埋没処理されました。 帝人社史には次の方法で毒ガスを埋没処理したと記述してあります。

「クシャミ剤のような有毒姻剤が大量に残存していた。これらは大久野島所在の壕内へ埋没し、コンクリ-トで堰堤を造って密閉し、海水とさらし粉の混合物を注入してその処理を終わった。」

赤筒や発煙筒を壕内の奥に入れ、入口をコンクリ-トで密閉、毒の中和のためにさらし粉と海水を壕内に大量に注ぎ込んだのです。このような簡単な方法で砒素を原料とするクシャミガス(赤筒)が処理されました。 このような簡単な埋没処理によってもう、島内の毒ガスは処理済みであり、従って安全である。というのが今の環境庁の見解です。 海水とさらし粉で満たされた砒素を原料とするクシャミガス(赤筒)は50年も経過すれば容器は腐食し原料が流れ出る可能性は高いといえます。砒素は元素であり永遠に分解されることはない、それが大久野島の地下水系に流れ込んだら大変なことになることは考えれば容易に予測できます。 1995年から環境庁がおこなった砒素濃度検査でも、地表よりも地層4m~5mのところから高濃度の砒素が検出されている場所もあります。これは地層深く砒素がしみこんでいるからだとも考えられます。このように、大久野島の毒ガスと毒ガス製造施設の戦後処理は、その後の大久野島の環境汚染につながる可能性を持った戦後処理であったのです。