4医務室周辺

南部監視所跡

芸予要塞時代の建物の中で大久野島の一番南に位置してます。ここは明治頃の監視所の跡です。この小さい部屋が司令室になって、伝声管いうんですかね、あれから向こうの部屋に穴があいてます。その向こうの部屋にはタワーが伸びるようになっていたそうです。四角の煉瓦の一面に均等に四角の穴が開いていますよね。上からレールを縦に降ろして、晩にはタワーがずっと伸びて、この近海を照らす探照灯で、この周囲を警戒しておったそうです。そういう役割を果たす南の探照灯というところです。ですから、毒ガス時代にはここは使ってなかったそうです。毒ガスの関係はありませんが、大久野島の歴史として大久野島の芸予要塞時代の遺物です。

謎の海洋投棄

寒さの厳しいころは、ここはすばらしいところです。海に太陽がね、ばーと来るんですよ。景色いうたらこれほどのものはありません。そこの右手に見える小さい島、そこの三角の小島、これは愛媛県ですわ。これが松島いうんですね。向こうは神殿島いうて。今見えんですけど、恥ずかしゅうて隠れているのが、小久野島。この真向かいは愛媛県大三島。しまなみ街道は、この向こう側にあります。このまっすぐの水道を抜けたら、燧灘、伊予灘そして今治です。このあたりの真ん中あたりが水深六五メートルです。それからずーっと松島と神殿島の間、向こうにちょびっと見えますよね。あれを基準に、船はざーっと水道に出ていきます。
 このことはほんとかどうかわかりませんが 、日本は八月一五日に無条件降伏で敗戦しましたが、一六、一七おそらく一八日までかかったのでしょう。戦後駐留軍が来るまでの三日ないし四日の間に、毒ガスの処分を早くしたほうがいいと夜この海峡に捨てたという証言があります。神殿島から、松島あたりの海域に、致死性のイペリット、ルイサイトを捨てたというんですけどね。 
  忠海漁協組合長(広島県竹原市忠海町)、幸崎漁協組合長(広島県三原市幸崎町)三原漁協組  合長(広島県三原市古浜町)御島漁協組合長(愛媛県越智郡大三島町)から、一九七一年   (昭和四六年)二月二四日、広島県知事宛に出された「大久野島周辺海域に投棄された毒瓦斯  等の処置について(請願)」に記載されている。
 一九六九年一一月、防衛庁がこの海域を始めて調査したのですが、毒ガス等はないと報告しています。しかし、そのときは、一般航路になっているところ、水深六五メートルの海域を調査してないらしいんです。一九七〇年一二月二三日に、「大久野島南の沖でボンベ一本が漁網にかかり悪臭ガスで漁民五人がノドを痛め、年が明けた四六年二月にもガスボンベ一本が引き揚げられた」(「毒ガス島(十三)中国新聞 一九七五年一二月)という事故が起こります。それで、漁業組合が、請願書を出したのですが、先ほど説明した神殿島から松島あたりでボンベがかかったらしいんです。ところが、潮流が流れているとき、かかってるんで防衛庁が調査した海域まで引っ張られるんです。行政が信用せにゃそれまでだけど、ここであげたんじゃないんかと疑われたんです。それに、深いところは一般航路なので、禁漁区になっとる。ひかかった漁師は、禁漁区を知っとるから「ここであげたんじゃないんだ。向こうの浅い方で漁をしよるんじゃが、そこでひっかかって流れるんじゃ」というようなことをいうとるんです。そんなこともあって、一度も掃海されていないんです。

 野賀の石碑
 あのむこうに見える島が広島県の大崎島です。右側は広島県、左側は愛媛県。大崎島では、戦後に何か捨てていたものが流れてきたらしいですよ。地の子どもが拾ろうて大事になって、流れ着いたようなものを拾うなということになった。今、五〇代ぐらいの人が覚えています。ちょうど鮴崎のこちらの造船所が見えるところの集落ですがね。まだ、この海底にはもぐっとるかもしれませんね。
 木江から双眼鏡で見える、わりと通して見えるんです。木江の野賀というところがあります。野賀というところのみかん畑に石碑が建っていて、ここから大久野島方面の撮影を禁ずと書いてある。野賀は、ちょうど大三島の隣の島があるところがきれて、ちょっといったところです。よーく見たら、低い峰の上に清風館という旅館がたってるんですが、ちょっと四角になっているからわかるんですけれど、あの辺が野賀です。(会員説明)

大三島の海岸での毒ガス貯蔵

女学生がここで風船爆弾をつくって計画通りにひとまず終わった後に、今日みなさんがきた桟橋の前の谷に製品倉庫(四四ページ参照)といいまして、そこにくしゃみガスのもとですね。それがいっぱいあったんです。ドラム缶に入っていっぱいあったんです。空襲を受けたら大変なことになるというんで、向こうに砂浜が見えますよね。砂浜の向こう側にドラム缶を全部疎開さしたんです。そのとき谷から中央桟橋まで運ぶんですよね。その途中に暑い頃ですから、汗がでるのとそのドラム缶をじかに素手でさわって、顔がかぶれた、皮膚がかぶれたふうに、何かがあったんでしょう。
それが敗戦になって、工員が毒ガス後遺症じゃろうかと傷害で救済されますが、動員学徒は当分の間救済されませんでした。やっと動員学徒も救済されるようになりましたけれど、正規の工員と動員学徒の間には格差がありました。正規の工員はなくなった後も、ちゃんと一時金の請求ができたり、認定患者といいまして制度上国が自分の傷害を認定してくれます。それが五月頃からその格差がなくなるんじゃないんかというところまできました(「毒ガス障害者援護のしおり」は広島県のホームページに掲載されている)

陸軍省管轄地と逓信省燈台用地

陸軍省所轄地という書き方は、明治以降です。これが境界です。これから先が、逓信省灯台用地になるんですよ。こっちは陸軍省所轄地です。
現在の海水浴場から、灯台にあがる階段入り口にも、石碑が三つ、また、軍用地と灯台用地を隔てた厳重な垣根となったコンクリートの柱や有刺鉄線も残る。他、貯水池にも同じ石碑がある。
あれが灯台です。できたのが一八九四年(明治二七年)、その年にはじめて灯がともる。灯台いうものは、この狭い海峡を一〇万トンくらいの船が通りますよね。この灯台の灯と、まだ東によった三原の高根島といくところに灯台がありますよね。その灯台と見通した線の北側を通ったら浅いことになってますよ。ということで夜はこの灯台の灯がはっきり見えるようなところを通ってください。これは世界的に航路標識で決められているらしいですよね。ここを大きな軍艦が通るんですよ。一〇万トン、二〇万トンの船が通りますよね。超低速でね。
これから降りて、あれに向いて防波堤があったんです。今はなくなってるんですが、これをあがって灯台守の家に帰るようになってましたね。

大久野島神社

大久野島神社は、春五月、工場創立の記念に祭りがあります。それから秋にも祭りがあり、傷害者や一般の人も氏子として、ずっと昔の島民の八幡神社として、崇拝されていた宮です。一九三七年(昭和一二年)に修復をし、いまは興廃の一途をたどっています。当分祭りごとをやったとは思えない様子です。工場が造られる前は、久野島荘のリフトがあったところにありました。久野島荘の左側です。土地造成の時、忠海の床浦神社に仮移転し、一九三七年(昭和一二年)、お金を出し合って、この場所に、その当時のままに修復し、ここにまつられています。 大久野島神社縁起。ここを読みとると、経過がはっきりわかります。資料館ができたときには完全に見えたのですが。
境内には歴代の所長の寄付した祭りのぼりの石の標柱が残っています。わたしの入った時の所長は、中橋桂次郎でした。一九四〇年(昭和一五年)、一九四一年に、彼は南満州造兵廠に転勤しました。そのとき数人の工員が転勤しました。兄も一緒だったので、中橋所長はよく覚えています。大鳥居の寄付者名を刻んだ石碑には、大島所長の名前が見れます。後に大将になりました。麻生、栗林、中西は幹部です。中西は大久野島の毒ガス製造について一番詳しいと思います。山敷、荒瀬は技師、鶴丸は技手、槇原は公務係、ここから下は工員です。野口、戦後処理の写真をアメリカの化学隊からもらって修復しました。その後、商業写真家になったのですが、戦後処理の写真はたくさん発見されています。私は市役所に残っていた写真をもとに資料館の写真をつくりました。あとは忠海の人ばかりです。もう生きている人はいません。一緒に町役場で働いていた守衛消防の人、片山、服部忠、原恒夫、発煙筒の部長。一九四一年(昭和一六年)の防衛庁の資料をみてみると、こういう人が工員だと出ています。良い資料です。

ウサギやジュウシマツが飼われた動物舎

ウサギがボックスに入れられてここに並べられていました。小屋はドーム型のモダンな動物舎で、ジュウシマツ、ウサギが飼育されていました。ここにウサギがいるので、「どうしたのですか。けがをしたんですか。」と聞いたら、「毒ガスの実験の傷害です。」と、看護婦が答えました。そのとき、分析の講義時間に、服部忠さんが、暴露実験をここでやるんだという話を思い出しました。分析室の一番奥の部屋で、一坪の囲いをして一つの密閉した部屋で、サイローム、青酸ガスを発生させて、ウサギの耐性実験や毒性実験をしていました。また、それ以外に、動物実験もしていました。その部屋は、動物舎とつながっていました。鳥かご型金網の中には、止まり木もあり、下の方にウサギが入れられていました。一匹づつ水泡の出たウサギが、入れられており、ドイツ語か英語でデータが書いてありました。明らかに実験したものです。「ウサギはもうなおりません。実験だからね。すごいもんじゃ。」と看護婦がいっていました。どのぐらいの濃度で、どのくらいの時間で死ぬかを実験していたんです。当時はかわいそうと言うより、ウサギもやられるのか、これも国のためにあるという理解のもとに、かわいそうということはきえてしまってました。いろんなことを思い出します。この聖域は悲しいというより、当時は厳粛な思いしかありませんでした。いま考えるとそれが実態です。
最近読んだ本に、当時、「ウサギ鍋にするか。」と工員がよく話していたと書いてありました。戦争中にウサギはたくさんいたのか疑問です。ウサギはこの山にいたのかもしれないが、わたしが勤めた間に五年働いた中で一匹も見ませんでした。ウサギはいたのかと思います。

私とウサギ

敗戦の歳の暮れでした。町の消防団に入団しました。早速消防団の事業として年末警戒につきます、敗戦というまことにすさんだ年の暮れです、『火の用心』を徹夜で警戒に当たりました。そのときの事です。深夜に夜食が 配され、先ず「すき焼き」に舌鼓を打ちました。長い戦争中のことで、深刻な食糧難に合ったころだけにとても美味しくいただいた、そのあとのことです。「久しぶりの牛肉だったが淡泊な味でしたなぁー。」と言った者がいました。あのすき焼きの肉は 『ウサギ』だったんだ、ということでびっくり、実は敗戦後の大久野島から失敬してきたんだと言う事です、二度びっくりしたことを思い出します。
戦時中大久野島では、ウサギを毒ガスの実験に使ってきました。それが敗戦になって、追放されたものです。いわゆる、大久野島ではそのころウサギをたくさん飼育していたんです。それを失敬してきたものがいて、かような事と相成った訳です。
戦後一五年経ったころは島にはウサギはいなくなっていました。戦争中の毒ガスは占領軍監督の内に取り除かれたから安全だと言うことになったのでしょう。大久野島は国民休暇村に指定されて観光地になりました。そのとき観光地のマスコットにウサギを一〇羽くらい導入した、それが自然繁殖したのであろう、あるいは、当時学校などでたくさん飼育していて異常に繁殖したので島へ捨てに来たのであろうともいいます。とにかく 今は島に約五百羽くらい生息しているだろうと言うことです。
また、一九九〇年の早春ころの事ですが、外国の方の父子が島に来ました。毒ガス資料館に来まして、「実はこのウサギを島へ置いてやって欲しい。これまでに自宅で飼育したのがこんなに成長した。(茶色のメス)私は近々アメリカに帰る(客員教授)ことになったが、このウサギはもって帰れなくて、大久野島へ預けたらいいのでは。」と言うことを聞きましたから、「持って来て、ぜひ大久野島へ置いてやって下さい。」と返事をしました。約一〇キログラムくらい飼料も添えていました。まあウサギのことですから反対することはないと思って、そのウサギを島に置くことにしました。一日二日かは資料館に姿を見せましたが、その後は一向に姿は見られなくなりました。何げなく一、二年を経過したころです。珍しくも茶色・黒色・まだらのウサギがよく見られるようになりました。今では白ウサギを見るのが珍しくなりました。目の色も黒くなっています。 このように早く生育の上に変化が起こるのかと思っています。
したがいまして、昔毒ガス、今は温泉、ウサギの島、休暇村大久野島とイメージ変化しています。「皆さん聞いて、私のじいちゃん、ばあちゃんたちは、大久野島で毒ガスの実験に使われて亡くなったのです。このようなことは二度としてはいけません」と私たちへ呼びかけているようにも思われます。ウサギと共に呼びかける次第です。(二〇〇〇年九月二六日)

医務室

灯台にあがる道の右側の斜面が段々になっています。砂防工事をやった形跡があります。土を下ろして、土地造成をやったのでしょう。ここは、土地造成が遅く、一九三七年(昭和一二年)ごろに医務室ができています。それまで、病院は診療所として、各工場地域にありました。
私が、医務室の中を詳しく知ることができたのは、奥歯を抜歯し、血が止まらず、二日、入院した時です。入院室は、陸軍病院ですから、五〇床まではありませんでした。外科、内科、歯科、耳鼻科、入院室、事務所がありました。今目印になるのは、井戸、消化栓です。そして、何よりモミの木が病院の位置を物語っています。当初からもみの木は、医務室の中にあり、もみの木を避けて治療室があり、かどが外科でした。消火栓は、今の位置より、もっと海岸よりにあり、消化栓から先が、すぐ海でした。井戸は、医務室の裏にあたると思います。(表紙の写真参照。消火栓は、キャンプ場にも残っている)受付で受診券をもらって、内科や外科にそれぞれ行っていました。総合病院ですから、看護婦は一二~一三人いました。
「自昭和一六年四月 軍需動員實施概況報告綴 忠海製造所調製(防衛研究所図書館所蔵)」を読むと医務室での患者の状況がわかります。一九四一年度(昭和一六年度)の患者数は四三八人(気管支炎、八一人)。これは、全従業員数二一〇五人の二一%にもあたります。この綴を読んで、思ったのですが、せきやたんを排出する患者が多く、医務室はいつも満員で時には診療打ち切りとなることもあったようです。全従業員の約二一%が何等かの病気で治療を受けると云った状況で、特に内科の診療では、たいてい『限就』といい、作業制限が行われ、治療専念することが指示されました。殊に発熱(三八度)の病状になれば数日間の医務休業(有給)が与えられました。急性症状の場合、医務室で治療すれば、治りますが、繰返すと慢性化し、長い診療生活が続くことになったのでしょう。このような症状になったのはたいていが、工場勤務者です。工員の病状に圧倒的呼吸器疾患が多いのも、化学兵器製造の影響だと思いました