3技能者養成所・事務所周辺

技能者養成所

外灯がたってるあのあたりまで養成所の校舎がありましたね。職員室があって、教室があって、玄関があって、もう一つ教室があって、あの向こうから、そこの電柱があるぐらいまで、この低く下がってる部分に建物がありました。ここにあった教室は、戦後いち早く解体して、地元の忠海東小学校へ転用しています。そこで一四、五年は教室を使ったと思うんですが、三教室か四教室ありました。この山を越えると、検査工室がありました。そこへ「化学の教官をお願いします。」と週番が頼みにいくこともありました。一九四三年(昭和一八年)三月に養成所を卒業して、ちょうどその年に、今作業しているところあたりに実習工場ができました。これは機械実習です。
地下が石と煉瓦で組んだ明治時代の地下倉庫もありました。わたしらは、一九四〇年(昭和一五年)に、養成工ではじめて入ってきて、ここの教室で三年間勉強したんですが、その養成工の三年間の中で、この地下に何があるのか確実に把握したことはありません。この地下には絶対降りたらいけないという注意をされていました。それでも見てはいけないものは、見たいんですね。だから、時々ここへ降りていましたが、今覚えているのは、黒いドラム缶が縦に倉庫の中にあったこと、それとカッピーと書いてあったことです。その印象は、荷揚用桟橋前の製品倉庫の手前に重ねられたドラム缶の写真(オーストラリア戦争記念館所蔵)そのままです。女学生が大三島まで運んだドラム缶も同じもので、岡田さんの絵にも出てきます。それから、臭いをいまだに覚えていますが、甘い臭いがするんです。いちごのような臭いがしていました。地下の倉庫の環境上では、赤剤は普通は泥状ですが、気温が上がると水のようになります。そういう状態で、ねじの締め付けたところが緩むから臭いがしたのだと思います。
週番をやっていた一年生のころのことです。この下に炊事場であって、そこで三時のおやつが出るんです。そこで余った、かけうどんの玉とだしを、いっぱい、十銭で買って、ここでだしをあたためます。そのあたためるのに用務員室からすぐ出た所に、下へ降りる階段があって、あの階段へ通じます。それを通ってあれを上がって、この裏山へ板ぎれをひろってきて燃やしたんですよ。そしたら燃えつく前に煙が出ますが、急に目が痛くなりました。何という一応の痛みではありませんでした。両目が痛いと声が出るほど痛かったです。すぐかまどの下の燃えるようなやつをひっぱり出して水をかけました。何も説明なしに「これどこから持ってきたんか。今後一切板切れ持ってきて、そういうことしちゃあいけんど。」と、手ひどう怒られました。その日は、何ともありませんでした。帰って夜中に目が痛うなって起きてみたら、両方の目に目やにがべったりついて開けよう思っても開きません。冷たい水で目やにをとったら、そうでもないなあと思っていたら、また痛うなって往生した。夜が明けて三原の専門の眼科へ行ったら、「こりゃ入院して治療せんと失明するよ。」と言われ、「どこでどうなったんか。」と問われました。わしは、「それを聞いてくれるな。名前だけは、忠海のこういうもんじゃ。」むこうは大体知っとったよ。「大久野島に行っとるんじゃろう。」そうしてその日に治療してもろうて、「入院だけはできんのじゃ。こういうわけじゃから。」言うて、もどって大久野島に連絡したら、これまた「軍属たるもんあろう者が、一般の医者へなぜ行ったんか。すぐここへ出てこい。」いうて、目が痛いのに出て行きました。それでこの島の病院へ行きました。それで、その時思うた。ここの工員は絶対に一般の病院をつこうちゃあいけんということがわかりました。一ケ月ぐらいこの眼科へ通うたら治りましてね。その板ぎれに赤剤かなんかついとったんじゃろう思います。

技能者養成所とは

日中戦争期、軍需産業および関連産業における労働力不足を補うために、技能者を養成することを目的にした学校技能者養成令および工場事業場技能者養成令がだされた。これは、国家総動員法第二十二条にもとづいたもので、一九三九年三月公布、四月から施行されている。

第二十二条 政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ学校、養  成所、工場、事業場其ノ他技能者ノ養成ニ適スル施設ノ管理者又ハ養成セラルベキ者ノ雇傭  主ニ対シ国家総動員上必要ナル技能者ノ養成ニ関シ必要ナル命令ヲ為スコトヲ得

東京第二陸軍造兵廠技能者養成所忠海分所は、この法律に基づいて設置されたもので、この時期、特別なものではなく、陸軍工廠、海軍工廠はもとより、一般工場でも設置されている。
一九四○年(昭和一五年)、東京第二陸軍造兵廠技能者養成所忠海分所開校(定員六○名・三年終了・翌年の入所生は、二年終了。一九四二年より、一年で終了)一九四五年まで毎年約四〇名の入所生があった。
昭和一六年見習工員科養成工員科教育計画表
見習工員科は、午前午後ともに授業があり、幹部工員を養成することを目的としていた。陸軍工科学校に研修にいく見習工員もいた。一方、養成工員科は、実習(年間一三八五時間 見習工員科、年間一一○時間)を主に教育計画が組まれ、一般工員を養成することを目的としていた。
一九四○年入所生は、二年始めの試験の結果で、養成工員科と見習工員科に分けられ、さらに養成工員科は機械科、電気科、化学科に分けられた。また、教官は、普通教科のうち一部、英語、代数、幾何は近くの中学から来ていたが、ほとんどの教官は、忠海製造所の所員であった。
この教育計画表や次の頁の時間割は、村上初一さんが、技能者養成所時代に勉学のために宿舎に持ち帰ったガリ版刷りの学習資料の裏に印刷されている。戦後、大部分の資料は整理したが、「これは…」と思い、とっておいたそうである。
時間割  一九四一年(昭和一六年)五月
午前は、前段、八時から一○時まで授業。後段、一○時から一二時まで授業。途中五分の休息をはさむ。一二時から一時まで、昼食と休憩。午後は一時から三時まで、授業。時間割で空欄になっているのは、実習の時間である。終了後、一時間、精神教育などが行われ、五時に退所となる。
時間割は昭和一六年、五月、七月、八月のものと昭和一五年第一学期の一覧表が現存しているが、昭和一六年の時間割によれば、休みは日曜日と盆休みの一○日間(養成工員科第一学年は、二週間)となっている。授業が予定されていない日は、四月一日 入所式、四月三日神武天皇祭、四月二九日天長節、四月三〇日靖国神社例大祭、五月一九日は、大久野島神社祭(この日は、工場創立記念日にあたる)一九四二年(昭和一七年)から、休日はなくなる。

時間割の略字は以下の通り。
(精)精神教育 (國)國語 (地歴)國史または地理 (物)物理 (化)化學 (代)代数 (幾)幾何 (英)英語(兵器)兵器学 (機械)機械工學 (電気)電気工學 (材)材料學 (力)力學 (専工)専門工作 (分析)分析化學 (製化)製造化學 (化兵)化学兵器學 (圖)圖學 (工管)工場管理 (教)教練 (体)体操 (武)武道 (救)救急法 陸軍諸法規

南部砲台跡(製品置場)

大久野島に芸予要塞として建設された三つの砲台のうちの一つです。ここへ戦後来た時は、埋めてあって、まるっきり地形が変わっていました。戦争が終わって、一二年ぐらいたってからです。一九五八年(昭和三三年)に竹原市が合併して竹原市政になったんですから。そのころから大久野島に平気で来られるようになっていました。まだ一般客じゃなくて、行政職員としてです。そのころ南部砲台跡まで上がったらもう埋めとりました。「ありゃ倉庫がない。どうしたんじゃろうかあ。」思うたら「ああここに残っとるわい。」埋まっとったんです。この建物は、向こうの養成所があったところの手前までずっと続いとったんです。

炊事場・営造所・消防詰所

戦争中はここが一番安全な所、毒ガスとは関係のないところでした。ここに消防詰所や営造場(木工、土建)があって、一番大切なのは、この奥に炊事場があったことです。この島で働いている人がピーク時に、大体二千人ぐらいました。その人たちの昼食をつくって各関係の工場地帯へ配っていました。会食所は、島内に四カ所、長浦、三軒家、事務所地帯とここにありました。一〇時までに、各工場からその日の必要量をあげます。昼食といっても、おかずは自分の家から、注文するのは、ご飯(白米)で、大盛り一杯が一五銭、小盛りは一〇銭、他にかけうどんが一〇銭でした。売店には二重焼きもありました。わたしら、どんぶり一杯ではひもじいので、二重焼きを二つくらい余分に食べていました。 
会食所に行くと、どんぶりが並べてあります。テーブルの引き出しを各自が登録しており、その中に、湯飲みや箸箱、キセルやたばこも納めていました。「努めて、休息は会食所で」となっていたからです。その会食所で印象的だったのは、五〇号もある「イープル会戦」の絵が飾ってあったことです。「毒ガスというものはああいうものか」「毒ガスを使うのは当たり前。ドイツもフランスも使かったんだから」と食事をとりながら思っていました。
 今の地面は、当時と比べて、大方二メートル近く上がっています。ここに井戸があったのですが、環境基準を超えてましたので、最近つぶされました。戦中、戦後、一時期は使われたかもしてませんが、ほとんど使われてなかったところです。ここの井戸で砒素が検出されたのが、不思議なくらいです。原因として考えられることは、このすぐ上に陸軍の技能者養成所があって、その養成所の地下に地下倉庫、明治時代の地下倉庫を利用してくしゃみガスの原料をそこに入れておったのではなかったのではないか。今は全部埋めていますけど、もしそれがくしゃみガスであって、それがじわじわ浸透して、こういう水脈で検出されるようになったのではと考えられないわけではありません。
 技能者養成所への登り口の右手に防空壕があります。一九六九年、赤筒が、発見されて問題になったところです。そのころは、密封されていませんでしたが、国の厚生省も来て、その時には、化学検査までやりました。この防空壕は向こうへ続いています。

表桟橋

一九四〇年に就職して、四月一日に上陸しました。船が着いたのは、この桟橋第一乗船場です。ここは陸軍大臣の許可がないと上陸できないところでしたが、就職したことによってここに来ることができました。ところが、ここに上がったときに、異様なにおいがしました。のどを刺激するような甘いような何とも言えないにおいがしました。それで一度に不安な思いが感じました。正面に守衛詰所があって、すぐそばまで迎えに来てくれた守衛に、六四名中の一人が「変な臭いがするんですが。」といったら「何の臭いもしない。」と言っていました。永年勤めて慢性になっていたからでしょう。生まれて初めてですから、においがこんなものだと思ったのかもしれません。不安と一緒に入ったというのが、そのときの印象でした。
守衛の案内で慰霊碑のあるあたりの広場にあった庶務会計事務所にむかいました。二列縦隊になってずっと案内してくれて、事務所で入所手続きをしました。入所手続きは、昼までかかりました。その日に、『ここは秘密工場だから、誰にも言ってはいけない。二〇年間ここで働く。その二〇年間は自分の理由で辞めることはできない』などと、主な規則をもとに誓約書に書かされました。その後、この階段を上がって養成所に入りました。次の日からは、船から降りると、守衛が養成工であることをチェックして、ここへ上がっていました。(一九四一年の四月に、養成工も寄宿舎に入所することになり、地元であっても寄宿生活が始まりました。)桟橋を上がったら、軍隊ラッパが鳴り、合わせて歩調をとり、階段を上がっていきました。そういう生活が三年間続きました。そして、卒業とともに、一般工員と同じ出勤時間になりました。七時半の一番の船に乗り、八時からの仕事でした。

守衛詰所・軍隊舎

守衛詰所は、このトイレの角から、養成所に上る階段の手すりの手前ところにありました。この山ののり面は、切り込んでいます。守衛詰所の奥行きをとるために、削っています。二間くらいの長さで営倉がありました。営倉に入るのは、所長の権限で、憲兵隊とは別でした。栄倉制度が基準が厳しくなったのは、山中所長の時代からです。
 「何々工員の誰々、右は、何月何日にこういう罪によって何日の罪を命ずる。」と書いてありました。例えば、高野豆腐に、アルコールを吸収させて、持って帰ろうとしたとか、配給の食パンに、釘をいっぱい差し込んで持って帰ろうとしたとかです。

幹部防空壕・製図所・所長室

当時、幹部防空壕に入ったことはありませんでしたが、立派なものです。ここに入るといつも敬礼をしてなくはならなかったそうです。石積みなどは、工員がみなしたそうです。
この隣に製図場があって、機械製図、あるいは木工製図をやっていました。製図場は誰でも入れました。庶務の担当事務員はえらそうに入っており、高等官(階級では、技師、少尉以上)にも慣れっこになっていました。わたしは高等官に会うのはおそれおおいような感じがしていました。
医務室に行くにはここを通らなくてはなりません。このまっすぐが所長室。海岸道路をまっすぐに通っていくと、必ず所長室の前を通ることになります。偉い人一人が通っていたら、低姿勢をとって、止まらなければなりません。二人以上だと「頭右」と歩きながらします。やってなかったら、すぐに、「あれはどこの工員か、欠礼するではないか。」と説諭されます。会いたくないので、裏通りを通っていこうとしたら、所長とばったり出会ったことがありました。敬礼をしました。非常にびっくりしました。それぐらい上下関係が厳しかった時代です。無理もないですよね。学校の先生も神さんぐらいに思っていたんですから。そういう時代を生きてきた思い出の場所です。軍隊式で、自由を束縛され、命令主義でした。良かろうが悪かろうが命令だから聞けです。自由はありません。むろん政治活動もできません。養成工でも普通工員でも、新聞、雑誌を持って入っていたら、守衛に取り上げられる。これは行き過ぎではなかったのではないかと思います。一番厳しかったのは、博打は重罪。次に不倫。不倫と言ったら私生活なのに、それを工員が告げて、自分の手柄みたいにしていました。職長と仲が悪く、敗戦になったとき、にやにや笑いながら、私らの機嫌を取りに来ました。そのとき「おまえら、覚えておれ。」というように、ぐっとにらんでやりました。その人も恐れたようでした。上下の差は激しく、敗戦のときはこのやろうという、思いが強かったです。
また、敗戦の時に「毒ガスを使えば良かったのに。(勝てたのに!)」と、女子工員が敗戦の悔しさを叫んだことを覚えています。いま思えば、毒ガス兵器が人道兵器であるはずはありません。ただ毒ガス製造の罪意識を払拭するための、一つの教育だったと思います。しかし、今もそのことがまざまざと残っているのは、悲しいことです。

島を見続けてきたスズカケノキ

この資料館の前に一本枯れそうな木がありますが、スズカケ、プラタナスですが、あれは、当時この前に、事務所地帯に工員と公務係の工員の会食所がありましたが、その前にありました。ちょうど、直径五センチから一〇センチ、高さ一メートルぐらいのひょろとした木でした。それが早く太って、一年したら見違えるようになりました。これもアメリカの樹木だから「切ってしまえ。」と言われたこともあります。その時はプラタナスというのは外国語で、日本語では「スズカケというんだ。」と聞きました。機械工ですから、英語らしいものはみな日本語のなおしました。たとえば、ねじは、スクリューとかネルとかいうが、そんなものは使ってはいけないというので、らせんというんだ。ドライバーはらせん回しです。
そのころこの道路に面して食堂があって、ちょうど資料館の向こう側が洗濯場、並んでその奥にふろ場があって、その道路よりが境界でした。この東屋から、むこうの電柱までが製図場でした。

埋没処理 今も眠る赤筒

オーストラリア戦争記念館(http://www.awm.gov.au/)所蔵の戦後処理の写真で、埋設処理のようすがうかがえます。赤筒を防空壕につめ、コンクリートでふたをして、その中に海水とさらし粉を混ぜたものを注ぎこんで、中和している作業の写真があります。これは、地形から考えたら、ちょうどここじゃないかと思います。海岸の波が写っているものもあります。(ID Number132157~132161)赤筒の箱の前に人が立っている写真もあります。(ID Number 131767~131768) くしゃみガスの処理は、このように防空壕に入れて密封して、腐食を促進させて毒性をなくするという考えであったんでしょう。けれどもそれが表に出てくるおそれがあるので、コンクリートで、さらに塞いだということです。今の石垣の工事は、去年やったものです。あか筒が、正確にどこに何が何本埋まっているかは、わからないんですが、埋没処理をしたのは、約六五万本です。

大久野島建造物配置図

大久野島建造物配置図を部分的に拡大し、三軒家工場群周辺、長浦工場周辺、技能者養成所・事務所周辺の三枚の地図作成しました。この冊子を読み深めるため、また、大久野島で戦争遺跡のフィールドワークをする際に役立てて欲しいと思います。なお、この地図作成の経過については、全体図に記されている注を掲載しておきます。
この地図の原図は、平山柳次郎所蔵の二五〇〇分の一の原図を基礎として、田村譽志那が二倍(一二五〇分の一)に拡大したものです。平山氏は大久野島毒ガス工場(東京第二陸軍造兵廠忠海製造所)の事務関係の仕事を担当していました。その関係から何らかの用件で、この地図が同氏の自宅に保管されていました。それを田村氏は模写し、復元に努力されていました。不明な所や建造物を何に使用したかについては、当時島内で作業に従事していた人々に助言をいただいて、田村氏が復元したものです。田村氏の原図が完成したのは一九六八年三月です。なお、平山氏の原図には建造物に単に番号を附してあるだけで、何に使用したかは表示していませんでした。
また、本図の右上部に記入した符号で表現してあるところは、平山氏の原図では赤又は青鉛筆で後日追加記入されていたものを参考のため田村氏の原図にも表示していました。それを本図でもそのまま使用しています。
村上初一氏によると平山氏の原図は一九四四年頃、東京第二陸軍造兵廠忠海製造所の営造関係職員が作図したものだそうです。戦後五三年が過ぎ、大久野島毒ガス製造に関係していた方々も高齢になり記憶も薄れて来ているし、当時のことを知っている人も少なくなっているという危機感から、毒ガス島歴史研究所として村上初一代表と大川淳三副代表を中心に復元に取り組みました。お二方が関係者への聞き取りをしながらの作業で、精度の高い毒ガス製造時代(一九四四年)の大久野島地図が復元できたものと考えています。なお、関係者の方でこの地図を追加・訂正などのご意見がありましたら、同研究所にご一報くだされば、幸いです。
    一九九九年五月一五日
                               毒ガス島歴史研究所