秘録大久野島の実相 稲葉菊松

東京第二陸軍造兵廠忠海製造所 元 工員副長 化学工   稲 葉 菊 松

これが終戦前(昭和16年から)自分が組長として担当していた不凍性「イペリット」製造工室の全景である。
多くの工員が傷つき倒れてあの世へ行った当時の思い出を呼ぶ大久野島長浦A2工室の影。

はしがき                

遥かなる想い出を呼ぶ久野島時代
思い巡らせば遥か昭和8年4月1日あまた応募者の内から選ばれて、その当時、万人憧れの的であった元東京第二陸軍造兵廠忠海製造所の一従業員として入所し、文字通り十年一日の如く糞真面目に勤め上げたのが何と12年6ヶ月。あの厳しい勤めも今は昔の夢、じっと目を閉じて遥かの昔を忍ぶ時、過ぎ去りし日の想いでの数々が走馬灯の如く瞼の裏に蘇える。
私は、今、ここに歴史は過去38年前の昔に遡り古い日記やおぼろげな記憶を換起しつつ世間の注目の的であった大久野島で、国際法に違反した毒ガス兵器の製造作業を数千人の男女工員がどの様な苦しい思いをしながら僅かの危険手当てにおどらされて、我が身が日々に毒ガスの為に蝕まれて行くのも知らず唯「勝つまでは」の合言葉の許に全工員が傷害を繰り返えしつつも危険作業を強いられて来た当時の実態を述懐し心ある全国民の皆様の深き御理解と御批判を仰ぎ度いと思います。

大久野島の実相 
1933年(昭和8年)

時は昭和8年4月1日採用通知書を携えて入所した者24名は何れも製造所内に縁故者のある者ばかりでした。
午前8時、庶務課長麻生中尉の前で誓約書に捺印し、「入所後は上司の命令に服従し、勤務に精励、製造所内の模様は絶対に他言しません」と堅く誓いました。
初日給男子1円10銭也・この時に於ける庶務課長の訓示の一節が今尚記憶に残っているのは、「君達は農業の傍ら役所に来るのだから日給は1円10銭でよろしい」と、一寸有難い様な有難くない様なお言葉でした。
やがて各自に与えられた白い作業衣に着替え、一応工場内を見学させて貰い後程一番危険性の薄い普通兵器の発煙筒製造工室に案内され先ず作業は検罐作業から始まり、旱着等作業に慣れるに従い「テルミット」の填実、発煙剤填実、導火索の加工等の作業要領を習得し、翌5月からは甲みどり筒の仕上げ,填実作業が6、7月と続きやっと普通兵器の製造作業に慣れた時、この年の7月に忘れられない一大事が起こったのです。

注 
1.「テルミット」 火薬の一種
2.検   罐 筒体の気密検査
3.旱   着 頭蓋の「ハンダ」付け
4.甲みどり筒の填実 
「セルロイド」屑に催涙「ガス」を附着させた物を筒体の中に詰め込む作業

それは忘れもせぬ7月16日昼12時15分頃、幸見亀吉君が製造所開所以来初の犠牲者となった事です。第一の発見者は私で、私は他の工員より少し遅れて食堂に向う途中「サイローム」工室の外で、うずくまってうなっている工員を見付けた。早速、側へかけ寄って言葉をかけても応答がない。様子を見受けたところ、液体青酸ガスを大量に膝へこぼしたらしく、もうすでに言葉は発せられない様になっているので、急いで日陰へ抱いて入れ医務室へ急報した。軍医が来られるまでに時間があったので、人口呼吸を施している内に軍医と看護婦が馳せつけられ備え付けの酸素「ボンベ」を取り出して酸素吸入を極力行ったが遂に蘇生出来ず、魂は遠く天国に昇天して終っていた。悲惨事です。後日、告別式は幸崎小学校校庭にて厳粛に取り行われ、当日私も工場工員代表として参列を命ぜられ、香を奠じて友の冥福を祈りました。

注 「サイローム」工室 
中毒性毒ガス「青酸」製造工室

時の2代目所長生田中佐は、平素、常に私共下級工員に対しても「身体の健康には特に注意せよ,健康を保持するには栄養を摂れ,睡眠を充分にせよ」とお心やさしくご指導下さった。又、全従業員を記念碑前広場に集められ涙を流されながら、「幸見君の死に対しては、本人はもとより御遺族の皆様に対して誠に申し訳ない。役所としては御遺族の方に対して出来得る限りの万全の措置を講じて御遺族のお方を慰めて差し上げたい。今後、諸君達も作業方式を良く守り上司の命令を遵守し、ふたたびこの様な悲惨事を起さない様に注意を望む」と、実に血もあり涙ある訓示をされた事は今尚忘れ難い。
記念碑についての思い出は、この記念碑の表面に、時の造兵廠長官岸本中将の執筆に依り軍人に賜わった勅諭五ケ条が浮き彫りにされて居り、この五ケ条の精神を従業員精神とされていたのです。昭和10年1月御用始めの日だったと思います。全従業員をこの記念碑前に集められ、所長訓示の後、勅諭五ヶ条の説明を私3人目に指名を受け計らずも所長の一番お気に召す説明が出来、2代目所長生田中佐に賞詞を賜った事も今は思い出の一つとして残っている。
昭和8年8月9月は、現示筒、甲、乙、丙みどり筒及び代用あか筒等の填実作業を習い専ら装面作業の要領を修得する為の作業に馴れ、10月下旬頃から毒煙筒、試臭器の填実が始められ、試臭器には「イペリット」臭化「ベンヂル」、塩化「アセトフェノン」、「ルイサイト」、「ホスゲン」等の填実作業をして愈々危険性の最も強い毒物製造作業に近付く第一歩が始まりました。

注 1.現示筒  
2.甲乙丙みどり筒 
3.代用あか筒   何れも演習用兵器
4.毒煙筒 
5.試臭筒 各種毒ガスの実態を教育認識させる為めの見本
6.イペリット 
7.ルイサイト 何れも糜爛性毒ガス 
8.塩化アセトフェノン 催涙ガス

この頃筒類作業には導火索を使用する作業が多く、一寸した思い付きで導火索の切断器を考案した処、作業能率の向上に役立つ考案として、工場長に賞詞を頂いたことも記憶している。
 この年10月上旬、早くも同期入職者を主体とした団体活動をする会をつくる話し合いが持ち上り、会合を重ねた結果、愈々10月25日発会式挙行の運びとなり、友和会と命名し、冠婚葬祭に対しお互いに助け合うことを約し、我が初代会長に推され早速会則を作り会の運営をはかると共に会員の世話役として新人工員の加入も逐次勧誘し活躍している内に満州事変、ひきつづき支那方面の雲行きが険悪となるに及び、遂いに昭和10年8月時の3代目所長信氏中佐の命令に依り「所内に於ける各種団体は全部解散せよ」との通告を受け止むを得ず僅に1年8ヶ月にして解散したが、退廠後郷に在りてはお互いに助け合う機会を作って居ました。かかる内に11月上旬、かねて装置の完成を急いでいたA三工室(ルイサイト製造工室、約350坪)竣工と共に選ばれてA三工室附属工室アセチレンガス発生装置の(約150坪)製造準備作業に従事した。

注 1.ルイサイト(学名)
工場では黄二号と呼称し附着すれば急激に来る 糜爛性毒ガス
2.イペリット(学名)
工場では黄一号と呼称しこれには甲・乙・丙の三種類あり附着後数分にして性情が現れる
糜爛性毒ガス

(300立方ガスタンク2個 50立方ガスタンク一個 据え付け)当時三好雇員の指導を受け、愈々注目の新装置黄二号(ルイサイト)の試運転が11月16日より1週間の予定で開始され昼夜兼行で実施し、非常に好成績に終了してことを記憶している。黄二号の製造作業は、黄一号の如く皮膚が黒くはならないが是に必要な白一号を造るために食塩と亜砒酸を混合する作業と是を硫酸を入れた化成釜に仕込む場合に皮膚がものすごくかぶれるので傷害者を多く出すので皮膚の弱い工員は絶対にこの作業には従事させられない。

注 1.白一号 
食塩に亜砒酸を混合したものを硫酸を入れた化成釜に仕込み「バーナー」にて熱し上げて造る
2.黄二号 
白一号をA三工室の化成釜に送り摂氏七〇度の温度に加熱し「アセチレン」ガスを注入しながら攪拌する事20時間後に黄二号が精製される。

この製造装置は総て設備が優れているのと工室が広大な為め排風機を回転させる「モーター」は35馬力を2台据え付け運転するので轟々たるうなりを立て、室内で作業する工員は、寒い位であった。毒物作業は製造中にも受傷するが後始末をする場合にも多く受傷した。

注 排風機 
製造作業中工室内の毒ガスに汚染した空気を大気中に排出する機械

昭和8年4月1日初日給1円10銭の最低賃金で入所し8年12月1日2銭昇給させて貰った。まだ中には1銭昇給の者もいたのでその当時それでも嬉しかった。それに今一つ喜ばせた事は、年末賞与として28円50銭支給された事。12月分給料参17円17銭、合計65円67銭、今考えたら嘘のような金額であるが、この内の50円を母に与え、父には酒と煙草を正月土産に差し上げた時の母の嬉しそうな顔型が今尚目に映る想いがする。親孝行は生前にしておくものだと思わされた事です。
日給は安くても作業種目に依っては危険手当が付くので平均月収は35円位。
昭和9年1月中は、普通兵器の製造作業に従事し、1月末作業班の編成表が発表され、2月1日より仏式きい一号乙(A一工室日製百噸装置)の製造が1週間を2分して昼夜兼行で2ヶ班に分かれて是には分析係の中西技手指揮のもとに実施された。この作業は近く完成するA四(きい一号乙日製三噸装置)の試運転に備えての手ならしだったと思う。製造作業は1週間で終り、後1ヶ月余再び普通兵器の製造作業に従事し身体の保養を行い、3月14日再びA一工室を使用して今度は生熊技手指揮のもとに1週間の予定できい一号乙の真空蒸留試験に参加し終了後容器洗いをした際、身体を極度に痛めた事が思い出される。

注 A一工場 
この工場は仏式きい一号乙(糜爛製毒ガス)の製造工場で日製100噸しか出来ない小規模の装置で昭和の初め初代所長大島中佐とこの工場の試運転の時の指揮者中西技手が仏国から30万円で買って来て忠海製造所に据え付けたものと漏れ承っている

きい一号乙(イペリット)の製造並びに精製(真空蒸留)は入所以来始めての事にてどの位恐ろしいもの、又どの程度身体に被害を及ぼす毒ガスであるかをまだ充分認識して居なかった為め、簡単に思ってゴムの上衣を着用せずに下丈け防毒袴とゴム長靴を着用してゴム手袋に防毒面を装面して製品容器の中に上半身を逆さまに入れて容器の底部を洗ったので防毒面のすきまから毒ガスが浸入して一番先に目と咽喉を浸され一時眼が開かなくなり声も出なくなり1日後には上半身に小さい水泡がいっぱい出来て身体は茶褐色となり入浴も出来ず、すれると皮膚がむげるので静かにして寝ているより外なく1週間位い経た後に皮がぽりぽりむげ出して来ると追い追いと楽になって来ました。後程よく考えて見ればこの容器は一度「イペリット」を入れるのに使用した容器であった事に気が付き、これも後の祭、又高さが80糎もある深い容器であるから長柄の「たわし」を使用して上半身を入れずに手入れをすれば、この様な過ちは起さなかっただろうにと後悔した事です。このにがい経験は、後程新入工員の指導教育上大きく役立つ事は出来ましたが如何にせんこの様な危険作業を何年も続けている内には生身の身体には到底耐え切れず遂いには廃人に等しい惨ましい身体となるばかりか、己に死の宣告を受けられたお方も最早300数10人も居られると承はり思わず目頭の熱くなるを覚え合掌してご冥福を祈る次第。この頃の記憶に関係職員であった生熊技手は部下工員に対する思いやりの非常に深い人柄であり職務にはとても熱心なお方であった事です。私が受傷休業中毎日私宅を訪れられ心やさしく尋ねて下さった。又平素も人情味豊かであられた人柄は30有余年後の今日でも今尚忘れ難い。

1934年(昭和9年)

この様にして各種毒ガス兵器の製造作業を修得している内に、早くも1周年を迎え昭和9年4月1日付けを以って普通工に進級し而かも一躍拾四銭最高の昇給し日給1円26銭を給すと工員手帳に記入したのを貰った時の嬉しさは、過去1ケ年を振り返って見て12月の賞与と共に2度目の喜びであったと思います。
やがて新年度早々、4月5日・6日の2日掛りで中西技手の命に依り、きい一号乙(A一工室百K装置)の製造装置図と、きい一号製造工程図を画き案外出来ばえが良くてお褒めの言葉を頂き、20才の頃製図を習っていたのが実を結び初めてお役に立つ時が現れたと思わせられた。それが又計らずも突如4月9日、秩父の宮殿下当忠海製造所御見学遊被た時私の画いた工程図、装置図を基に中西技手より殿下にご説明申し上げられた事は、私一生一代を通じてこの上もなき名誉と感激で胸中いっぱいです。
昭和9年4月29日に昭和6年乃至9年事変に於ける勤労に依り金拾五15円を賜う。
その後、5月上旬A四(日製三噸装置)工室附属「エチレン」室が完成し試運転の準備作業を1週間行い、やがて全装置が完成し、各部処毎に準備作業が進められ愈々5月末より中西技手指揮のもとに試運転を開始したるも作業員の大部分は不馴れの者が多い為と各部処の故障を度々起しながら遂に六月末まで続行した。(この間に6月1日付けで参銭昇給し日給1円29銭給せられる)然し、製造は順調に進行しつつありたるも暑さのために、完全防護して装面作業はとても堪え難く、倒れる者、目を冒されて見えなくなる者、咽喉を冒されて声が出なくなる者、又、蔭部がただれて歩行困難な者等続出しこれらの傷害者は軽い間は現場備え付けの吸入器で咽喉は吸入をし、目は洗眼薬等で洗い、蔭部のただれは天花粉を散布したり、亜鉛革を塗布して急場をしのいで居ましたが治療する者より傷害者の方が多くなるばかりなので、遂いに一時中止の止むなきに至り、秋涼しくなるのを待って再開する事にしたのです。
   
注 装面作業  
防毒面をかぶって製造作業をすること

それから後9月下旬より今度はA三(きいニ号「ルイサイト」)の製造準備作業に着手し、この度は大量生産の命令があり、昭和9年10月10日より1ヶ月間昼夜兼行で作業を続行したこのきいニ号製造作業中、9年10月29日、今度は高松の宮殿下、当製造所御見学遊被せられました。
この作業はもう既に次ぎの製造作業命令が来ているために作業を少し強行した為めと、10月は残暑のためにA三附属工室白一号製造工室の作業員は、亜比酸と食塩を混合する場合には、皆白い布製の頭巾を防毒面の上からかぶって作業するために、ものすごく汗が出るのに亜比酸の粉が附着すると、かぶれて目も見えない様に腫れ上り、傷害者を沢山出して困難を極めたのです。この様にして次ぎ次ぎと毒物の製造作業が続行され、11月10日より又A四(三噸製黄一号乙)の製造準備を行い、今度は50噸口の大量生産が11月19日より、恒松雇員指揮のもとに製造が開始され、私の受け持ちは「エンソ」導入班長、「エンソ」は目を刺激し防毒面でも浸透するので長く工室内にいる事は禁物です。12月1日付けで4銭昇給して日給1円33銭給せられた。この度は傷付きながらも作業が順調に進行したので12月19日1ヶ月で予定量の製造作業は一応終了したものの、毒ガス障害者は次ぎ次ぎと出て来、入院する者、休業となる者等全従業員の3分の2以上は傷害患者となった。製造作業中は昼・夜勤者共に責任者は申し送りして退廠するために13時間勤務なので身体の疲労はその極に達していた。私は試運転の場合には1週間A四附属工室の「エチレン」導入の班長を勤め、後1週間は化成器の班長を勤め、この度の大量生産の場合には「エンソ」導入班長と、かくの如く転じつつあらゆる製造作業を指導教育している内に非常に貴重な体験と教訓が得られました。それは次の通りです。我々素人考えから推察してもこの戦争は遂次日を追って拡大されつつ長引く兆候にあるが、我々基幹工員は今後絶対にこの毒物製造作業から逃れる事は出来ない。そうすれば第一に身体の健康保持を一番に考え長続き出来る様に心掛けねばならないと。それがためには作業規定を遵守する事が第一の必守条件だ。所謂完全防護して作業をする事が何より肝要だとかたく心の底に命じた事でした。それ以来私は毒物作業に従事する場合には必ず完全防護しなければ絶対に作業には取り掛からない様に心掛け、部下工員にもこの様に指導教育を怠らなかった。こうした事が長期間に亘る厳しい勤務にも耐えられ、結果的には多少でも効を奏している様に思われます。又終戦後26年の今日に至るも尚比較的他の元工員よりも元気な姿で居られると言える事は、終戦後直ちに郷里高根島に帰えり、先祖より伝承した貴重な田畑1町余を多数の子供を相手に農業に専念する事が出来たのが、私の健康を維持せしめ、為に今日在るを得られた恩恵に他ならぬと、只管御先祖の有難さを痛感せずには居られません。   

注 完全防護 
防毒面を装面し、ゴムの防毒衣と袴を着用し、ゴム長靴を履きゴム手袋(厚手)をはめて作業する服装の事。

昭和9年度の大口製造作業もやっと終了し、多くの障害者を出し、後に残った比較的元気な丈けを以ってこの次ぎの製造作業に備えてA四の全部分の装置手入れを行い、この時年末も迫った12月26日A四の手入れ作業も全部終らない途中で突然進級試験が実施せられ大体の専属持場と班長が決定した模様でした。続いて26日・27日のニ日間焼夷弾の実演が実施され愈々大きな戦争の近付くを予知させられました。
A四の装置手入れも12月28日で終了し、午後は記念碑前大広場に全従業員集合し、所長の訓示が有り愈々御用納めである。この様にして無気味な内に昭和九年もあわただしく暮れて行き、29日から1月3日まで役所は休業なれど、この真黒気な顔ではどこえも行けない。私は咽に包帯を巻いたまま早速この休みを利用して郷里高根島に帰えり、煙草の苗床造り、「ネーブル」の貯蔵、柑橘の剪定等を行った。これまで8年、9年2ヵ年間は、月に1回ないし2回、日曜日は必ず帰郷して農業の手伝いをする事を忘れなかった。顧りみるに昭和9年度前半は基幹工員の養成に重点を置かれ、後半は毎月製造作業計りで多忙な内に終始し,明くる10年1月からは各種毒ガス製造工場の受け持ち班長並びに工員の配置,所属が定められた。自分の専属はA三附属工室「アセチレン」ガス製造班長と,赤一号(クシャミ性 燃焼すれば窒息性毒ガス)製造班長,A四は応援班長として,エンソ導入班長となりこれ等の工場が逐次運転開始する場合には、必ずその作業に従事する様に所謂専属化した訳である。この頃では,全工場をいちどきに運転し得る丈の工員がいないために交互に運転をした。
当時中でも自分の持ち場赤一号の製造工場は極めて清潔なのと,青酸加里を使用するので内臓は冒され易いが,外面的にはきい一号(イペリット)の如く外傷が現われないので一般工員の羨望の工場であった。然し毒物の製造作業で身体に害を及ぼさないものは何一つとしてなかった。それでこの頃は女子工員には毒物製造作業には絶対に従事させなかった。

注 
E一工場 
あか一号(ジフエシールシアンアルシン)製造工場 窒息性毒ガス
A三工場 きい二号(ルイサイト)製造工場 靡爛性毒ガス
A四工場 きい一号乙(イペリット)製造工場 靡爛性毒ガス 日製3噸装置

赤一号と関連性が有る為め,あか筒の製造班長も長らく勤めたが私の在任中は填実作業には専ら男子工員の手にて行い,当初は誰も筒体の外部は丁寧に拭いていたが製造量が日増しに増加すると共に逐次新入工員が増員され,自然に拭き掃除が粗雑になり,作業台に運ばれたあか筒の完成作業には主として女子工員に従事して貰ったが作業台に運ぶまでに填実した筒体外部を拭く男子工員は赤一号の附着した「ゴム」手袋をはめた手で布切れを持って拭いて,作業台に出すので,それを仕上げする女子工員は素手にて筒体を握って仕上げをするのだから,どうしても少量の赤一号が手に附着する。それで現場担当の班長,室長等は絶えず,用便に行く際には必ず充分に手を除毒して行く様にと注意を怠らなかったが,作業に追われたり,手不足の場合,又急に催した場合には除毒の暇もなく行動する場合も時々あるので,その時手のふれた処がかゆいので掻けば痛んで「カブレル」。この応急手当てとしては,現場に看護婦の出張所が設けられて,其処には天花粉,亜鉛革の溶液等が準備してあったが,女子工員は男子工員と同じ動作も出来兼ねるので,女子工員の苦痛は筆舌にては言い表わすことの出来難い苦労だったと思われます。特に主人の居られた女子工員のお方は人一倍お困りの様子だったと漏れ承り,人知れぬ御迷惑をおかけした事を当時の班長として誠に申し訳なく思う次第です。

注 危険手当ての附与
危険手当ての附与に関しては総て現場担当の先任職長の裁量に一任されていた。
危険手当て
1.毒ガス製造作業に従事する男子工員には危険手当て六割支給せられる。
2.毒ガスを使用した筒等の完成作業に従事する男子工員には危険手当2割支給せられる。

この様にして筒類の完成作業は専ら女子工員の手に依り行なわれ普通兵器の完成作業比較的容易であったが,あか筒の大量生産が始まり此等の完成作業に従事した女子工員は実にみじめなものであった。
注 あか筒 直径10センチメートル位の円筒であって携帯用に作られている。高さ40センチメートル位,内部には大豆位いな軽石に赤一号を吸収させたものを詰め込み上部の導火線に点火すると下部の煉炭に火が付いた後に投転する。この際風を利用する事を忘れない事。

そこで傷害を最小限度に食い止めるために現場に看護婦を1名常駐して貰い,含嗽,吸入,洗眼等の設備もして貰い,応急治療等も備え付けて簡易治療も出来得る様に設備は一応して貰ったものの特に女子工員の場合は常人が思うが如き実行が伴なわれず,意外に傷害者を沢山出した事は事実であり,甚だ遺憾の極みに思うと同時にこれ等の女子工員にも良き制度の基に一日も早く救済措置を施して差し上げて貰いたい。現場を預かる班長は作業場の指導はもとより作業の能率の増進と危険災害の防止には特に神経を使ったものです。

1935年(昭和10年)

年改まり昭和10年4月,3代目所長信氏中佐着任され,全従業員を記念碑前広場に集められその時の訓示の一節に新所長少佐当時「ポーランド」駐在武官として「シベリヤ」鉄道経由で赴任される途中,ソ連の実情を車窓から目撃された模様をお話になり,ソ連では1ヶの「パン」の配給を受けるために朝早くから長い行列を作って待っていたのを目撃したが,「我々日本国民はまだ誰もその様な不自由な経済的不安はないのだから不平不満を言わず専心業務に精励せよ」との訓示をされたのを今尚聞耳新しく記憶している。10年6月1日付けで4銭昇給し日給1円37銭給せられる。10年8月、所長命令で「製造所内に於ける各種団体は全部解散せよ」との命令が発布され、我が友和会も結成後僅々1年8ヶ月にして解散したがお互いの友和を保つ事は忘れなかった。10年12月1日付けで4銭昇給し日給1円41銭給せらる。10年中は主として赤一号の製造班長として長く製造作業に従事し,製造終了後はあか筒の班長,あ弾,黄弾の等の応援班長として勤務し,昭和11年の初めから黄二号(ルイサイト)の製造が初まり,「アセチレン」ガス製造後任班長の育成に当りここで次期班長(木保光夫氏)に職場を譲り、3度あか一号の製造に取り組んだが班長を交代して何程も経ずして運悪く「アセチレン」製造工場より突如火災を起し,火災呼集の「サイレン」は「ケタタマ」しく鳴り渡り,折りしも黄二号(ルイサイト)製造中の事とて一時大混乱を演じたが幸いにして大事に至らずして鎮火出来,全従業員「ホッ」とした表情でした。6月1日付けで4銭昇給し日給1円45銭給せられる。この処A四(黄一号乙)の夏季運転は長い経験からして汗が多量に出る時期には傷害者を激増する恐れが有るため秋涼しくなるのを待って行なう事とし,10月中旬から準備作業にかゝり,10月下旬より又々大量生産命令を受け,私は,「エンソ」導入班長だが化成器の方も見廻わる必要が有るために又して年末近くなりて真黒気な顔となり咽喉をすごく痛められた。
この年(昭和11年)11月22日、工場付き栗林上等工長突如退職の命令を受け少尉に任官され,渡満する事になり,私共元友和会員は直ちに同志と相計り,翌23日忠海町の臨濤館にて同志32名と共に盛大なる送別の宴を催し,司会者として送別の辞を述べたのも今は遥か35年の昔,栗林少尉はとても温厚篤実な馴染み易いお方であった丈に多くの従業員に非常に別れを惜しまれた。その当時を記念する写真を今自分の手に目を巡らせば,当時はA四(3噸装置きい一号乙)の製造作業中だったので誰も皆真黒気な顔をして咽に包帯を巻いている。自分の面影が印象的だ。然しこの同志32名の出席者の内22名は既に毒ガス障害のために尊い一命を犠牲にされている方々で、実に惨ましい限りであり、只管在りし当時をそゞろに思い浮かべ先き立たれた皆様の御冥福をお祈りすると同時にやがては近き将来我々にも又毒ガス後遺症のためにこれ等のかたがたと同じ運命を辿らねばならぬかと思えば思う程あの毒ガスの島、大久野島が恨めしい。斯くの如くして毎日多忙に明け暮れている内に本年も残り少なくなり12月1日付けで4銭昇給し、日給1円49銭給せられたが、又しも真黒気な顔をしたまま昭和12年1月4度目の正月を迎えた自分は時に齢まだ36歳の青年で働き盛り。

1937年(昭和12年)

やがて昭和12年4月1日付けを以って職長を命ぜられ、特待章乙佩用許可せられると共に、4代目所長服部中佐を迎えた。この所長に就いて一番印象深く残っている事は、流石に英国駐在武官を2度も勉められたお方だけにあって典型的な紳士所長であり、又、部下に対し実に慈しみ深い温雅に富んだお方であられた事は、当時入職されていた従業員がもしも居られたら、35年後の今日でも尚忘れ難く紳士所長としての尽きぬ噂は長く後世に言い伝えられる事でしょう。新所長を迎えてより従業員も逐次増員され、初め私は暫時赤一号製造専属職長として昼夜2ヶ班に別れ、大量製産に着手し、毎日多忙に明け暮れつゝやっと命令作業を完全に終了した頃、愈々予期していた如く昭和12年7月7日、廬溝橋の鉄道破壊と共に支那事変が勃発したのです。さあ大変な事になった。役所では多数従業員の募集が始まると共に、製造に必要な各種材料原料が次ぎ次ぎと会計倉庫や工場の広場に運ばれて来る。製造所も地方もざわめき始めた。だが今日に備えてこれまでに毒ガスの製造は急に応じ得られる如く製産貯蔵はしているが、普通兵器の急遽大量製産の必要に迫られ、この時、早速発煙筒工場の製造職長に選ばれ又もや昼夜兼行で芝山金二郎氏と2ヵ班に別れて発射発煙筒及び水上発煙筒等の大量生産命令を受け、この頃から召集将校(1年志願兵上り)が次ぎ次ぎと沢山配属されて来た。又、庶務の人事課では近郊の市長村長を通じて大募集が始まり、是に呼応して我が郷土瀬戸田町でも、時の町長山本伍次さんは老体を引提げ陣頭に立って50才未満の男女は1人も家に残らず皆出て来いと回覧を廻わして寄せ集め、町内の商船を数隻陸軍御用船として用意し瀬戸田地区、大三島地区の男女工員や、徴用工員を毎日大久野島に運び、当時島嶼部としては瀬戸田地区が一番多くの人員を提供し急に応ずる軍の要望に答え、銃後の守りを貫いた山本伍次町長さんの功績は実に大なるもので有ったと思う。これからと言うものは、地方では町村役場を通じて動員下令の赤紙が配られ駅頭や島々の港から日の丸の小旗を手にした老若男女や学童の歓呼の声が聞え始めた。我々工場工員も時こそ来れと第一線で活躍する兵士に負けじと昼夜を分たず文字通り浸食も忘れて銃後の守りに懸命の努力を傾注し、軍の要望に答え滅私奉公の誠を捧げた。爾来皇軍は連戦連勝破竹の勢いで進軍しつつある「ニュース」は新聞、「ラジオ」等を通じてその戦況は刻々に聞かされながらお互いに志気を鼓舞しつつ昭和12年も実に目まぐるしい多忙の内に暮れて行ったのである。

1938年(昭和13年)

昭和13年早々だったと思うが時の工場長館野大尉は少佐に進級され僅かの在勤で東京に転勤され、続いて人情所長服部中佐も大佐に進級され栄転され、昭和13年4月、5代目所長中橋中佐を迎えた。
この年4月15日突如命令が発表され、技手1名、工員私外2名は秘密兵器製造要領修得の為め栃木県岩鼻火薬製造所に10日間の出張命令を受け、急いで身支度を整え、忠海駅を出発して東京駅に到着するまでに16時間も要した事も思い出される。
上野駅より乗り換え岩鼻火薬製造所に着いたのは正午前、早速所長室に案内され、少々待つ内にやがて這入って来られたのが何んと人情所長で、その名を知られていた服部大佐であられたのには驚いた。流石は忠海製造所長時代に人情所長として神の如く全従業員から慕われ転勤を惜しまれたお方丈に会って特別思慕の念禁じ得難いのに又して時恰も12時前だったので、「君達食事はまだだろう」とお尋ね下さったその一語が我々下級一工員にまで思いやりのお心使いには益々以って感服の念を一層深めるばかり、早速所長直接電話で、食事を所長室まで運ばせる可く命ぜられ、さあ食べ給えと言って下さったその時の温いお心尽くしのお言葉は永久に忘れ得ぬ感激であり、今尚思い出される。昼食後は、又々左官級の技師をお呼びになり周回4キロもある工場内を隈なく案内して頂いて見学させて貰い、明くる日からは目的の秘密兵器薬包の製造要領を毎日習い、予定より1日早く終了したので、その1日を東京見物を許されたのは嬉しかったが、我々3人の工員は東京は無案内のために余りお土産話も出来る様な名所見物も出来ず、申し合わせた時刻までに東京駅に待ち合わせていても、肝心の責任者の技手が帰って来ない。もう発車時刻までには10分しかない。構内には16番「ホーム」まで有る内6番「ホーム」まで渡らねばならない。時刻は刻々に迫る。6番「ホーム」に立って見張っていても技手の姿は一向に見当たらない。発車用意の「リン」がけたたましく鳴り渡る。我々3人は固唾を呑んだまま乗車して車窓から見ている内に、30秒前に商人に支えられる様にして車内に飛び込んで帰えって来たのが我々の引率者某技手である。その時の我々の心配と焦燥の面持ちが今尚目の前に浮かぶを覚える。この時の事である。申し合わせた時刻を守れなかった理由を話せなくてさえ我々3人の者は憤慨でいっぱいだのに、先生御気嫌で東京製缶会社(忠海製造所へ各種の筒体を納付する大会社)の重役の招待で東京見物をさせて貰った後、一流の料亭で招待を受けていたのだと、まだ得意然として大言壮語する様を見せ付けられた我々の憤怒は一層つのるばかり、この頃から軍人や役人の横暴は現れ初め、この様な者が多くなってはこの度の戦争には日本は勝てないと思わせられた。この様にして我々工員は素直に諸規定を守り上司の命令を遵守し、勤務には勿論誠実に精励し、勝ち抜くためには自己の生命は基より、可愛いゝ我が子や妻まで犠牲にして31才の青春に近い元気盛りから43才の秋まで働き盛りの12年6ヵ月の厳しい勤務は並大抵な苦労ではなかった。昭和13年4月25日薬包製造要領修得帰任後は専ら薬包製造指導教育に当っている内に、又もや7月から水上発煙筒の大量製産命令が下り、再び選ばれて又もや芝山氏と両班に分れて昼夜兼行で水上発煙筒の製造職長となり、この度は短期間の内に目的地に送らねばならない為め大部分の工員を動員して製造を急いだのと昨年7月にも水上発煙筒の大量製産の職長を勤めた経験が生かされ比較的作業も順調に進展し、予定より早く修了し、而かも好成績を納めた事は男女工員の皆さんが作業に良く熟練されたのと、各々のその持ち場の作業を忠実に勤められ,従業員精神を遺憾なく発揮された賜もに他ならんと現場にて直接指導の任に当った職長として実に感謝に堪えない感激でいっぱいであった事は今尚忘れ難い思い出である。昭和13年の末頃であったと思う。この水上発煙筒が武漢三鎮攻略戦に我が海軍の艦艇が大軍を満載して揚子江を遡航する際に大量に使用して奏功したのだと聞き及び,我々も軍の作業庁に奉職する1工員として,傷つきながらも銃後の守りの一端でもお役に立つ事が出来た感激はいついつまでも忘れ難い。斯の様にして堅き我々銃後の守りと共に,皇軍は破竹の勢いを以って勇猛果敢に前進を続け,遂にこの年昭和13年10月27日午後6時30分,一億同胞待望の武漢三鎮完全攻略」の「ラジオ」臨時「ニュース」は全国津々浦々までこの喜びが伝わると共に我々銃後の国民は前線将兵の凱歌に相呼応して,街頭に,家庭に,戦場に皇軍萬歳の歓声はこの時こそどっと戦地えも届けよとばかりに絶叫したのである。ここで抗日拠点としてその名を知られていた武漢三鎮も遂に落城し,我々も一応重要な特別作業命令も無事完遂したので,慰労を兼ね発煙筒工場作業員(希望者男女共)60名別船を借り切り,11月3日(明治節)区長原技手引率のもとに我が故郷瀬戸田の耕三寺に旅行し,当日向上寺山に登り国宝三重の塔の横で全員記念撮影したのが当時の思い出として残されているのも懐かしい思い出の一つである。
特別作業命令が一応終わると再び薬包製造作業に従事すること翌年の3月までに及び,昭和14年4月1日付けで工員副長事務取扱を命ぜられ,工場員詰所に入りこれより1ケ年専ら全工員の勤務割り事務に従事している内に,この年昭和14年(1939年)の末第二次世界大戦が始まり,早くも欧州では独逸国は遂に「ポーランド」に攻め込んだ「ニュース」が報ぜられた。

1940年(昭和15年)

翌昭和15年4月1日付けを以って、工員副長を命ぜられ特待章甲佩用許可せられると同時に兼ねて現場えの進出を願っていた矢先きの事でも有り,今度はA二工場(きい一号甲,乙,丙の製造工場)の職長を命ぜられ,私のためにはここが最後の持ち場となった訳です。
この工場は建坪約500坪位いで,鉄筋「コンクリート」の3階建製造所内では最大の建物であった様に思われる。西側海に面した方では黄一号(イペリット)甲,丙の製造工室となり,山手側全工室の3分の1は黄一号乙の精製工室所謂真空蒸留装置が据え付けられて居て,工場の屋上に排風機3台が据え付けられ,製造作業中は,この3台の排風機を絶えず運転していれど,「プロペラー」が酸触して室内の毒ガスで汚染した空気を充分に排出する機能が無く,室内で作業する工員の苦悩は言語に絶するものがあった。工室の南側にはいち時に70人も入浴可能の大入浴場が設備して有り,作業交代する度毎に入浴し,毒ガスを洗い落とし,「シッカロール」を身体中に塗布して貰い,吸入,洗眼,含嗽等絶えず実行して居ても毒ガスに蝕まれる方が強いので,入院,休業患者の絶え間がなかった。排風機は3台の内1台位は故障して居ても作業は続行しなければならず,修理要求を出しても修理工場の方も人手不足でやっと1人位い来たのでは修理を急ぐ為には,工場の工員を2人位応援させねば捗らず,工場工員を応援させば製造作業員の方に重荷がかかるし,現場を預かる職長は実に気をもんだものです。
 
注  A二工場 大久野島では西側に面した長浦にありこの工場では一番危険性の強い黄一号甲,丙の薇爛性毒ガスの製造工場で黄一号乙の精製も併せて行っていた。

この様な毒物製造作業に従事する工場工員は,少々の負傷で医務室へ行けば直ちに休業されるので,少々の障害は皆我慢して作業に従事しこの様な毒物製造作業に従事する工場工員は、少々の負傷で医務室へ行けば直ちに休業にされるので、少々の傷害は皆我慢して作業に従事し、現場で間に合わせの吸入、洗眼、含嗽ぐ等の簡易治療を行い、又、睾丸等を冒された者は「ガーゼ」にて袋を縫い、その中に天花粉を入れてそれを陰茎にぶら下げて歩行の際の摩擦を防ぐ等工夫を凝らして長く我慢して作業している内には遂に目が見えなくなる、声が出なくなる、又、歩行も困難となり止むを得ず入院、休業を余儀なくさせられるが如き悲惨な実情は、毒物製造作業に従事してきた工場工員を預かる職長以外には他係りの職員や従業員には全然想像もつかないと思う。又、女子行員の内、あか筒、あ弾、黄弾等の完成作業に従事してきた者は殆ど全員陰部を冒されて居ても、女性なるが故に他人には話されず、こっそりと現場駐在の看護婦に亜鉛革の溶液や、天花粉等を貰って便所内で塗布して急場をしのいでいても夏季に於いては汗が出るし、作業に耐えられないので無断で休業していれば憲兵が調べて廻わるし、又長く休業すれば生活がかかって来る等、実にその当時の工場女子行員の困却の有様は到底筆舌にては表現出来難い苦痛であった事と思う。当時傷付きながらも入院、休業を忌み嫌う主なる原因は、世帯持ちの工員は皆生活がかかっているのと、配給制度が厳しいためにどうしても闇物資に拠らなければ多くの家族を賄っていく事が出来得なかったのです。又今一つは憲兵が家庭まで調査に来るのがうるさかったのです。
私の係り工場A二工室の北側には附属として製氷工場が設けられていて真空蒸溜工室の方へ(A二工室の裏側)「ブライン」を送るために利用していたこの製氷工場は当時中国一と称せられる程の製氷能力の大きな設備が施されて有り、又製造所内全域にも利用されていた。昭和15年4月、旧所長中橋中佐を送り、6代目所長阿部中佐を迎え、この所長は人情所長として全従業員に親しまれ、長き3年間の在任中数々の業績を挙げられたことは未だ記憶に残っている。愈々支那本土に於ける戦線は拡大され銃後を預かる我々従業員の責任は益々その重きを担わされ、その上に諸物資は不足を告げ、月日と共にその深刻さを加えられ、配給制度は培々厳しく、僅か周回1里に足らない小さい島に閉じ込められて、四角四面の人間にされ、社会と言うものを知らない個人主義の人間と化し、自然と人間との調和は乱れ、唯唯今後は護国の鬼と化して、働くより他に希望も楽しみもなき境遇に追い込まれてしまい、遂には健康と生活におびやかされるが如き恐怖を感じさせられる様にまでなって来たのです。
この様にして私共工場工員は昼夜を分たず毒ガスの製造作業に追われ、家庭に在る時には生活必需物資を求めて歩き廻る等、寸時も身も心も休める時とては無かったのです。この年(昭和15年)4月29日「支那事変に於ける功に依り金60円を賜う」。この頃軍部も中国との戦いは長引き最早中国をもて余すようになっていた様子です。続いて昭和15年6月(1940年)には早くも独逸国は仏国を降伏させた「ニュース」が伝わりこの年10月25日には「独逸軍は仏国と休戦協定を結ぶ」と報ぜられたのです。ために「アメリカ」との雲行きが悪くなり、昭和12年8月頃から15年夏頃までに毒ガス大量生産の要員として、多数の新入工員が工場へ入職してきたが、この多数の未経験者を教育指導していく基幹工員が余りにも少数なために1ヶ月余りの経験工で軍隊出の者を室長又は班長助手として作業の進捗を計っていたが、装面作業をする工場からは傷害者が多く出るので昭和15年の末頃からこれ等新入工員の内には恐れをなして、ポツポツ退職する工員が出始め、退職したら兵籍の有る者には召集令状が次ぎ次と発令されて来た。製造所内でも一般従業員の進級制度が改革され、私も昭和16年4月1日付けで化学工に進級を命ぜられ、愈々責任の重さを感ずる様になった。この頃から徴用工(当時火薬工と呼称していた)も入所して来たと思われる。昭和16年11月には独逸軍は破竹の勢いで前進を続け早くもソ連の首都「モスクワ」の近郊10里に迫ったと「ラジオニュース」で報道され是に勢いを得てこの時とばかり、昭和16年12月8日忘れもせぬ、我が海軍は真珠湾を攻撃し、アメリカ艦隊をフイ打ちにして、太平洋戦を起こし、独逸、伊太利亜も参加し、愈々第二次世界大戦と進展したのです。是からのちと言うものは、人々の生活状態や考え方がすっかり変ってしまった。生活必需品や日用品に至るまで配給制度は日を追って厳しくなり、製造所でも「金属類は一切使用してはならない」との命令が伝えられ、現場を預かって機械器具を使用する職長は本当に頭を悩まされたものです。昭和17年の春頃だったと思う。東京の化学研究所から技師1名とともに優秀な硝子工2名とが派遣されて来て、硬質の硝子管を使用してイペリットの製造装置をこの技師が考案されたものを私の受け持ち工場(A二工室)へ据え付ける事となり、私共もお手伝いさせて貰い、試運転には係技師と私共数名の工員が参加し、昼夜続行で行い非常に好成績を納めたのだが、惜しい事にはこの装置を使いこなす丈けの熟練工が足りないのと、この装置が破損した場合にこれを修理する立派な腕のある硝子工が当地方にはいないのが私共の前途を不安に陥らせた事です。それと同時に私は熟練工不足のために真空蒸留工室(きい一号乙の精製)掛け持ちの職長となり、従ってA二工場に配属された作業員は両方の作業を交互にして貰う事とした。就いては、私の任務も培々その重きを加えられて来た訳だが、後職長はA二工場関係者は私を含む6人いたので、皆それぞれ任務を分担して貰って製造業務を遂行していた。
この様にして諸物資の不足は民間はおろか、軍の作業庁である忠海製造所でも毒ガス製造作業には是非必要欠く可からざる防護用具の不足を来し、遂に上司の命令だと言って防護用具の使用を、その使用人数以上に使用させて、交換を長引かせる等。ために我々作業員は命の綱とも頼む防護用具は、毒ガスが浸透して傷害者は日を追って増加するばかりだった。

1942年(昭和17年)

てんやわんやの内に昭和17年4月(1942年)には欧州では早くも独逸軍の劣勢が伝えられ、ソ連軍の反撃を受けモスクワより遙かに後退し、又この年6月には日本海軍も太平洋のミッドウエー島沖でアメリカ海軍に破れ、翌年2月(1943年)には又して我が陸軍がガダルカナル島で破れ、私共は意気消沈している処へこの年の3月頃だったと思われるが、元気溌剌たる新任優秀職長梶村君と酒井君の2名配属応援を得、これにて6名の職長と共に元気倍増してこの難関を突破する絶大なる勇気を与えられた。この頃既に在任中に大佐に進級しておられた阿部所長は数々の業績を残し、全従業員に惜しまれつつ某要職に就く為離任されるのを、我々は桟橋までお見送りして別れを惜しんだのも僅々数年前の様に思われる。昭和18年4月元気旺盛なる7代目新所長山中峰次中佐を迎え、愈々勇気倍増し昼夜兼行で毎日厳しい勤務に精励している。この頃熟練工は余りの長期に亘る危険作業が続き、身に危険を感じ傷害を繰り返しながらも異口同音に「勝つまでは」とよくも頑張って下さった皆様に対し厚く感謝しつつ深い想い出と共に胸に迫って来るを覚えさせられる。
昭和18年4月1日付けで私も組長を命ぜられ一層責任の重且つ大なるを感じさせられた。続く危険作業に障害者は増すばかりである上に応召者も日増しにふえ是に伴い徴用工員の一番元気者ばかり10数人配属を受けこれ等の内から相撲班を結成し、旧工員久保正人君を主将とする8人の関取りは昭和18年4月15日(日曜)地方の大相撲に遠征して優勝を飾って帰えり、梶村、酒井両職長と共にこの列に加わり記念撮影して貰ったこの写真が28年後の(昭和46年)今日遙かなる思いでの一つとして良き記念に今尚思い出深く眺めている。徴用工員は当初は材料受領や製品運搬作業に従事して貰い、作業に馴れるに従い製造作業の方へも一部逐次少時間勤務して貰っていたが、毎日ある一定の時間は軍事訓練が施され、その訓練には現役軍人(将校)が当製造所に配属され担当していたが、その訓練振りの厳格さは見ていられない程なぐる、長靴で蹴る等実に目を覆う厳しさには何人も同情せずにはいられなかった。
この様にして当時、軍人は抜扈する地方にありても憲兵が付きまとい、時には憲兵は製造所内にも変装して工場工員の中へ紛れ込んで来て、不用意な話をして居ないかと聞き耳を立てる等実に不愉快な毎日であった。でも我々工場工員は元気溌剌たる新所長を迎え大いに期待を掛け只管愛国殉忠の至情に萌えて毒ガスの後遺症がどの様に恐ろしいものとも知らず、毎日の勤務に精励している最中に作業員が僅かな落ち度の為にその持ち場の職長(石塚君)は責任を問われ、重営倉3日の厳罰に処せられたのには一般従業員の間にも一時憤怒の声も沸いていた。それでなくてさえ一般国民は生活必需品が欠乏して困窮しているとき、一部の軍人や役人達、お金を持った人々は色々な物資をこっそりと手に入れて贅沢をしたり、又高い値段で他人に売ったりしていた話を聞かされ憤怒の念は一層つのるばかりでした。その内に早くも日本と同盟国の伊太利亜が降伏のニュースが伝えられ、愈々連合国の鉾先きは次第に日本に向けられると共に危険が身近かに迫るを痛切に感じさせられた。昭和18年9月28日には早速私共のA二工場担当職員杉山中尉が戦地へ向われ、続いて岡村君応召し片山君(徴用工)入営、室賀君も入営、佐藤君も入営(何れも徴用工)、たちまちの内に4名の工員がA二工室より出征し、昭和19年(1944年)の初め頃から学徒動員が始まり、この時、私の長女も学徒動員に参加し、直径10米の風船張りのお手伝いに御奉公させて貰った。がさてこの巨大な風船たるやどの様な役割を果したかを確聞している者は今だおらない模様。長女も動員学徒として長らく御奉公させて貰ったが惜しい事には春を待たずして23歳を一期にこの世を早く去った悲惨事は、今尚胸の迫るを覚え悲しみは永遠に去り難い。
召集令状は日を追って多く発令され、毎日万歳の声に送られて戦地に向う出征軍人の数はふえて行くばかり、私の持場A二工場からも1月から次第に応召者がふえ、岡田君、泉君、三永君、向井君の4氏が応召、2月4日には私の二男も海軍志願兵として入団し、3月にはいり森安君、岡藤君の熟練工が相次いで応召、藤田君、藤本君、近森君、森岡君、松田君(何れも徴用工)入営是にて14名の応召並びに入営者を送り、作業員不足の為め勤務は次第に厳しさを加え、身心共に疲れ果てゝ遂に力尽きて昭和19年5月末日夕方急性肺炎となり胸に針を突き刺すが如く痛み始め体温は40度を超える高熱となり手の施し様もなくなり、早速妻に命じて近くに居られた久野島の嘱託医の久富先生を迎えて強心剤を注射して貰い、先生も非常に心配されて、手遅れたら取り替えしが付かんと言われながら早速電話で大久野島丸を呼び救急車で大久野島の医務室に運んで下さり先生と看護婦さんのお手厚い看護のお蔭で九死に一生を得て約1ヶ月位の休業で復帰の喜びを得られたことは偏に院長大森軍医殿を初め久富先生並びに看護婦さん達皆さんのお蔭の賜ものである事を厚く厚く感謝し、私一生一代深き思い出の一大慶事である御高恩を忘れてはならないと思う。
この様にして幾度となく傷付きながらも難関を幾度も乗り越えて七月の初めより再び元の任務に就き御奉公を続ける事となった。7月中旬又して森江君、村上君が続いて応召し8月14日にはA二工場では最も中堅班長として大切にしていた中島君が応召し、この様にして次ぎ次ぎと数多くの中堅工員を失い、装置の破損は容易に修理はして貰えず、欠員の補充には未経験者ばかり貰い受けこれ等の工員を指導教育しながら製造作業を続行していく熟練工は極めて少数の為め「テンヤワンヤ」で操業しているにも拘らず毒物製造作業に従事する工員には是非必要な防毒面、防毒衣、袴、ゴム手袋、ゴム長靴に至るまで全部共用となり、幾等新鮮な除毒液を絶え間のない様に現場担当の医務係が用意して呉れてもとても追いつかず、受傷者は日増しに続出し、遂に昭和19年7月末6名の職長の内1名泉覚一氏が倒れ、入院休業となり、又熟練工としてはとても真面目な福井孝一君も入院し遂に力尽きて19年12月25日を以って退職の止むなきに至り、最早この上は製造作業より人命が尊いので傷害を最小限度に食い止めるのが現場を預る職長としては最大の任務である筈なのに、去る18年初め頃から工場長命令で現場の職長は作業するより新入工員の指導教育に重点を置く様にと命ぜられて居ても事ここに至っては最早作業員は半減しているのだから止むを得ず職長は率先垂範真先きに作業現場に進出して直接一般工員と共に働き一人でも受傷者を出さない様にと危険を感じながらも懸命に最後の努力を引絞り厳びしい勤務にも耐え、積極的に製造作業に精励して呉れた職長以下あまた工員の方々の辛苦の程はとても筆舌にては言い現わす事は出来難い。又毒ガス傷害のために早くも国の礎へとなられた多くの皆様に対しては本当に申し訳ない思いでいっぱいで、心から感謝の誠を捧げ今は亡き犠牲者の皆様の御冥福を祈る次第です。昭和19年9月2日には計らずも良く勤務に精励し工員の指導宣敷きを得た意味で特別賞与として61円30銭給せられ、12月分給料280円と年末賞与参158円を支給され工場工員としては最高額の給与でした。

1945年(昭和20年)

最早我が国内では諸物資は極度に不足し、配給制度は最悪の限界に達し、我々の働いている軍の作業庁でさえ製造に必要な原料、材料が入荷せず、昭和20年1月頃からアメリカ空軍の日本本土空襲は日を追って熾烈となり、最早東京、大阪、名古屋と大都市は殆んど焼野原と化し何百万と言う国民が死んだり焼け出される様になり欧州では早くも18年にイタリアは降伏して居り、続いて今度は昭和20年5月には又して同盟国の独逸の首都ベルリンが陥落し、有名をはせたヒットラーは自殺し、連合国に降伏したとラヂオニュースで報ぜられ、愈々連合国軍は勢力を倍増して日本軍の潰滅に全勢力を向けて来たのです。
この年の(20年)5月15日長男は第二相模野海軍航空隊に海軍特別幹部練習生として入隊しこれで私も2児を国家に捧げる事になったのです。
この頃米空軍の日本本土空襲は主として陸海軍の基地並びに軍需工場を目標に爆撃して来たのです。
もうここまで来られたら我が製造所では全工場の機能を失って終い、全従業員挙って防空壕を掘るのと毒物の疎開作業に一生懸命だったのです。最早この頃は、一部の軍人や各官庁の役人達の横暴振りは日を追うて荒々しくなり、配給物資の差し繰り合い、横流し等目に余る様な行動が現れ始め、我々何も知らない工場工員は唯忠実に最後まで命令されるままに行動し、与えられる物丈けを貰い幾等生活に困って居てもほしがらず皆同じ想いで唯「勝つまでは」の合言葉の下で苦しい生活に耐え忍んで来たのですが、もうこれまでと思い同じ死ぬのなら両親の許で一日たりとも孝養を尽して往生し度いと決心定め第3回目の退職願書を昭和20年2月12日に提出したけれども呆気なく却下されたので、最早半ば観念して元々通りA二工場の組長として作業を続行していたが米空軍の空襲が激しくなるに連れて製造作業も全然行う事は出来ず、危険物の疎開や防空壕を掘りその中に装置の据え替へ、又は焼夷弾攻撃を受けた場合に類焼せぬ様にと不用なバラック建築物の破壊作業等で天手古舞いでした。係職員杉山中尉戦地へ向かわれた後を受けて召集将校の池田中尉が代ってA二係職員となりその他の召集将校は殆んど戦地え出征し、池田中尉は残って大尉に進級すると共に臨時工場長となり6月下旬突然工務へ行って呉と言われた時には聊か不満の憤りを起こし言下に他係えの転属は絶対にお断りすると勇気を出して卒直に答えた。今更他係へ転属させるならこの際潔く退職させて貰うと答えた。何故なら入職以来長い12年余何の落ち度も欠点もない計りか各種毒物の製造作業命令も無事立派に完遂し傷付きながらも多数工員の指導教育に当り当り永年馴染んで来た多数の工場工員とは惜別の情禁じ得ぬものが湧き上り何れ遠からず米軍の空襲の蔭に戦死するのなら自分が永年手塩にかけて育てて来た同僚と共に枕を竝べて自分が護り通して来た工場と運命を共にし度い思いでいっぱいでいたからです。
然し如何に私が立派な理由を竝べても相手は上官、而かもその当時は軍人が抜居している最高潮期故最初は職権を以って弾圧しようと構えたが、元々A二工場係職員として共に勤めていた関係上、一歩折れた態度で改まり現在の地位と資格は変えないから身の為めと思い、兎に角行って貰い度い決して悪い計らいはせぬからとのたっての言葉に不承不承ながら工務係へ行った。その翌月7月から空襲は次第に識烈を極め、岡山、福山、因島、松山、今治、呉、広島と順次爆撃は昼夜を分たず激烈となり今治方面から呉に向って侵入するB29の機体がはっきりと久野島から見取られる。野呂山の上空に達した頃友軍の高射砲が時折り炸裂するのが見えるが弾丸が届かない。今度は7月下旬だったと思うがB29の大編隊が岡山、福山を次ぎ次ぎと爆撃して久野島の上空に近付いた頃全従業員は固唾を呑んで軒下から望み見ながら、今度こそは一人残らず戦死だと皆覚悟を定めていた処豈計らんや久野島の上空を通過しても一発の爆弾も落さない皆の者一同はほっとした気持ちでB29の機影が見えなくなるまで見送りながらもう呉にも広島にも届いている筈だろうにと思われるのに一向に我軍の高射砲の打ち上る音も煙も見えない。敵機が爆弾を投下した音響は物凄い地響きと共に聞えて来る。その時は只恐怖に戦きながら唯不審に思っていたばかり。後程良く聞いたら打つ弾丸が無かったのだとの事には驚かされた。この後間もなく連合国は日本に対して「ポツダム宣言」を突きつけたが、日本は一人残らず死ぬまで戦うと答えたので、米国は遂いに8月6日の朝原子爆弾を広島に落しこの一発の爆弾で広島はたちまちにして焼け野原と化し、24万人の人達が死んだのです。続いて8月9日2発目の原子爆弾が長崎に落されたのです。この日ソビエトは連合国側に参加して日本に宣戦布告し、満州に攻め込んだのでもう日本の軍隊は散々な目に逢い戦争を続けて行く事が出来なくなり、銃後の国民も軍部に協力しなくなり政府は止むを得ず「ポツダム宣言」を受け入れて、8月15日天皇陛下は全国民にラヂオを通じて重大放送をされ遂いに無条件降伏を伝えられたのです。私共はこの悲痛な玉音を工場の一隅で聞き互に顔を見合わせたまま気抜けがした表情で暫時呆然としていたがやがて我にかえり、長い年月の間互いに励まし合い或いは慰め合いながら心を込めて我が身の危険も忘れ昼夜を分たず懸命の努力を続けて来た苦労も今は総べて水泡に帰し皆只嘆き悲しむの外何の言葉も出なかったのです。
ここに於いて満州事変以来14年間長い間続いた戦争も愈々昭和20年(1945年)8月15日を以って終止符を告げたのです。今私ここに遙かな昔日久野島時代の事共をそぞろに想い浮べ往時楽しかりし時或いは悲しかりし時等交々に脳裡を去来し懐旧の情禁じ得ぬものがあります。
忠海製造所在勤12年6ヶ月間唯の一日も勝手欠勤もせず、又受傷休務の外は一日の休養もせず、一度の遅刻もする事なく、毎朝6時40分忠海港発のあの思い出を呼ぶ大久野島丸にて通い続けられたのも今は亡き妻の内助の功が光っている事を8年前に幽明界を異にして旅立った亡き妻の心尽しを感謝し、有りし日を追想し、目頭の熱くなるを覚えます。
長い長い期間を通じて一番私の心の底に残って居て惨ましい思い出となる事は、毒ガス傷害のために尊い一命を犠牲にされた方々の事共です。又終戦後に於いても多数のお方が毒ガス傷害等のために早くも国の礎へとなられたこれ等の方々に対し心から感謝の誠を捧げ、ご冥福を祈願しますと共にこれ等御遺族の皆様に失礼ながら紙上を以って謹しんでお悔み申し上げます。
この稿を終るに臨みこの他にも終戦後の今日に至るも今尚毒ガス傷害のために日夜苦しんで居られるお方もまだまだ沢山居られる模様ですが、是等毒ガス患者の内既に手当てを受けて居られるお方は一層療養に努められて少しでも長命を保たれん事を切望致しますと共に、未だ手当てを受けて居られないお方には折角我々毒ガス傷害者のために設けられた良き制度の基に一日でも早く一人でも多くこの恩恵に欲させて貰える可くその局に当って居られる諸賢の最も誠意ある至公至平なる調査と診査を望み、毒ガス後遺症のために同じ苦しみをして居られる同僚の皆様と共に老後の不安を除き一日たりとも長命を保ち度いものと念願致します。
この様な記述ではとても実態感が得られないと思われますが、長年に渡り悩み続けて来た当時大久野島時代の実態をそのまゝ述懐し、御愛読下さる皆様の深き御理解と御批判を仰ぎ、多少なりとも社会教育上の参考に資する処が得られますならば、私の喜びはこれに過ぎるものは有りません。
終戦後既に26年を経た今日尚も戦争に「コリコリ」して、あの毒ガスの島大久野島を平和な我が故里高根島から眺めては思い余り拙なき「ペン」を取り書き連ねまして擱筆します。
69翁
 昭和46年8月末日記す。
東京第二陸軍造兵廠忠海製造所

元 工員副長  化学工

元 大久野島毒ガス傷害者瀬戸田地区協議会                   
久野島会会長 稲葉 菊松 

                 明治36年7月1日生