「上海抗日記念館」都築勤

「上海抗日記念館」   都築 勤

 8月21日の深夜、突然妻が腹痛を訴えた。薬を飲んで一晩寝れば、次の朝はけろっとしているだろうと高をくくっていた。事実、これまでは薬を飲まなくても次の日にはぱくぱくと朝食をとるのが常だった。ところが今回は違った。朝6時15分が集合時間だったので6時前に起こしたが反応がおかしい。最初は夜中に何度かトイレに起きたので眠たいのかと思っていたが、どうも違うらしい。自分でズボンがはけない。ボタンができない。支えがなければ歩けない。意識がもうろうとしているのだ。再度薬を飲ませたが直ぐに効くはずもなく、出発時間はすでに過ぎている。山内さんたちに部屋からバスまで荷物を運んでもらって、私はむりやり妻をバスまで連れて行った。バスが出発したのは6時30分を過ぎていたと思う。2日目からこの日までお世話してくださった陳先生やツアー仲間のみなさんには大変な心配をかけてしまった。幸いにして藤川さんから頂いた薬が大変良く効いて、上海に到着した10時頃には少し元気が出てきて自分で歩けるようになっていた。

 上海空港には蘇智良先生が日本語のできる生徒さんや蘇先生を取材しているテレビ局のスタッフと一緒に待っていてくださった。蘇先生は中国における日本軍性奴隷問題の第一人者で、彼の努力で中国において性奴隷問題が注目を集めるようになったと言っても過言ではない。その先生の活動ぶりを取材するために先生を追っかけていた上海のテレビ局が、私たちを案内するということを聞きつけて同行取材することになったのだ。

 先生とは2000年12月、東京で行われた女性国際戦犯法廷でお目にかかって以来4年ぶりの再会だった。直前まで南海島で調査活動をされておられ、私たちが着くというので朝2時に南海島を出発して、出迎えてくださったのだそうだ。感謝の気持ちでいっぱいになった。

 上海での滞在時間は国内線から国際線に乗り換える約7時間。時間を惜しんで上海抗日記念館を訪ねた。記念館は、大きな公園の一角にあった。記念館に入ると1932年1月28日に始まる日本軍の蛮行が、多くの記録写真や資料によって展示されていた。中でも、私たちを案内してくださった蘇先生が調査し明らかにされた慰安所の記録写真は、とても印象的だった。入り口に「聖戦大勝の勇士大歓迎」「身も心も捧ぐ大和撫子のサーヴィス」と大書された慰安所は、もともと銀行であったそうだ。上海の豊かさの象徴であった銀行を慰安所にしたのだ。そして、この建物は現在警察署として使われているそうだ。

 写真の前で、藤本さんと寿美枝がテレビ局のインタビューを受けた。藤本さんはかくしゃくとしてインタビューに答え、日本軍の犯罪と自身が毒ガス製造に関わることで、その一端を担っていたことを厳しく自己批判された。また寿美枝は、北京を出るときには意識朦朧としていたのにインタビューにはしゃきっとして、性奴隷被害者の名誉回復のためにも日本政府が公式謝罪し、被害を補償すること、そして教育内容にその反省を反映することの重要性を訴えた。

 ところで、現在日本の裁判所で戦後補償を巡る裁判が約60起こされている。花岡事件やいくつかの企業を相手にした訴訟では補償を勝ち取ったケースもあるが、国の責任と補償を求めた裁判はことごとく敗訴している。(関釜裁判下関判決を除いて)ちなみに、今回の旅行の前に、こんなことも話題になるかもしれないと思って、戦後補償裁判で要求されている補償をすべて認めるといくらぐらいの金額になるのか調べてみた。記憶が正しければ500億円にも満たない金額である。ところが日本政府はアメリカ軍のためにいわゆる「思いやり予算」として毎年6000億円もの大金を支払っている。戦争のために、世界で最も富める国アメリカに毎年6000億円を超える税金を使いながら、日本が筆舌に尽くせない犯罪的行為をしたことの賠償として、憲法の精神に則って戦後補償問題を解決するための500億円が支払えないのはなぜだろうか?

 記念館を出て、エレベーターで展望台に上り上海を一望した。町並みのもさることながら、揚子江の大きさに驚かされた。対岸が見えない。聞けば瀬戸内海よりも川幅が広いとのこと。今回の旅の間ずっと感じていたことだが、中国のスケールは桁違いだ。狭い日本の、小さな村から出てきた兵士が中国に足を踏み入れたとき何を感じただろうか?どこまでも続く広大な平野、何日歩いても同じ景色が続く。きっとその大きさに恐れおののいたに違いない。その不安と恐怖のストレスが、中国人民に対する蛮行をいっそう激化させたのではないかとも思った。そして、中国で出会い、お世話になった人々の心の大きさ広さにもスケールの違いを感じたのは私だけだろうか?