戦後の毒ガス処理作業体験 七宝茂

  七宝茂さんは1929年生まれ。戦後大久野島に渡り、毒ガスの処理作業に従事されました。1回目は1946年6月12日から9月15日まで。2回目は1950年3月5日から6月10日までです。
 2003年12月1日、寒風吹きすさぶ日、大久野島へおこしいただき、貴重な証言をしていただきました。

 私が初めて大久野島へ毒ガス処理作業に行ったのは、1946年の6月12日でした。私は「帝人三原」の下請けをしていた七宝工業所に勤めていて、その当時、17歳の元気盛りでした。そこから大久野島へ処理作業に行ったのです。私は主に溶接の仕事を担当しました。
 忠海駅から余り遠くはない船着場から船に乗りました。毎日一回の船には30人以上乗って通いました。大久野島では、いろんな所へ船をつけました。表桟橋をあがった上の方に宿舎があった。宿舎は粗末なものだった。追い込みになったら、泊まり込みで、帰らしてくれませんでした。疲れたら涼しい海辺で寝たりしました。通算20日以上泊まりました。同年6月20日頃から長浦付近の貯蔵庫(現在埋もれている)から毒液移送用パイプラインの架設工事を始めました。北部海岸に米第8軍より3000トン級の上陸舟艇(LST)2隻が提供されていました。 毒液移送用パイプラインの架設は、丸太を2本また3本組合せ地上約2メートルの所を北部海岸まで延長する工事でした。直径約9センチメートル長さ5.5メートルのパイプを架設架台に乗せアセチレン溶接で継ぎ足して伸ばしてゆくので二組に分かれて作業したが溶接は並み大ていの仕事ではなかった。
 特に工場周辺は完全装備でゴムの服(俗称タコ)を着ただけで汗びっしょりになった。それに防毒マスク、ゴム長靴、ゴム手袋を着け溶接の火が顔面近くで燃えるのでたまったものではない。
 長浦の工場周辺は特にガス漏れが激しかった。貯蔵槽かタンクがあったものと思われる。
当時は ガス検知機等無かったようである。当時表桟橋をあがって左側事務所前で多くの小鳥を飼っていた。何故かと思っていたがガス漏れを調べるのに小鳥を使っていた。長浦の工場前に入る時現場監督が鳥かごに鳥を2羽入れて来て、自分は防毒面をかぶって籠を持つ手を伸ばし恐る恐る前に進んでいた。すると突然鳥がばたばたと暴れ出し1羽はすぐ死んだ。「今日はガスが漏れているから入ってはいけない。」とか「仕事中にガス漏れがひどいから直ちに待避して下さい。」ということが度々あった。
 とにかく暑さと毒物の臭気、連日の徹夜作業に依る疲れと眠気との戦いであった。あまりの辛さに、時には元熟練工が風上で、催涙ガス、くしゃみガスをぬいて帰り、「ガスが漏れて仕事が出来ない。」と訴えると、ウィリアムソン少佐が現場を訪れ、くしゃみを連発。泣きながら、「これでは仕事は出来ない、今晩はゆっくりやすんで下さい。」と言う。すると、みんな歓声を上げ宿舎へ帰る。宿舎では酒の好きな人はアルコールの水割りを飲むのが楽しみだ。そのアルコールを汲みに行くのも我々若い者の仕事であった。発煙筒の缶を持って三軒家の海岸にあったかなり大きなタンクのタラップを上り上部のマンホールから手を伸ばして汲んでいたが、しばらくすると、手が届かなくなりロープを結んで釣瓶式で汲んでいた。汲んで帰ったときはサビで茶色に濁っているが待たれない人はガーゼで漉して飲んでいた。倍に薄めても火がついて燃えるような高純度であった。
 7月中旬から第一船(LST.814 3000トンクラスの上陸用舟艇)に毒液の積み込みが開始され、その後、作業は2交代。20日過ぎ頃から3交代になり監督官ウイリアムソン少佐以下作業員は泊まり込んでの昼夜を分かたぬ強行作業であった。宿舎は桟橋をあがった近くにあった。積み込み準備のため(LST)船内に入ると、船内には未だ乗れるような大型のトラックが残されていた。底の油タンクの油や水タンクの水を抜いて毒液を積んだ。
 船尾の居住区には缶詰がかなりあった。直径約30センチ、高さも同じくらいの缶で一人一週間分の食料とか、みな横文字で書いてあるので何か分からず、やすりなどで穴を開け汁を吸って何か確かめていた。最初は靴に塗る保護油も思いきり吸って当分不愉快な思いをしたものだ。その缶詰を陸揚げするのにまた苦労した。LSTのタラップの下にはMPと通訳が頑張っているが、方法はあるものだ。アセチレンガスの発生装置、俗に言うガスタンクの中に入れ、2個入ったタンクのうきこをかぶせ二人で担いで陸上へ水汲みに行く、当然MPが何か言っている。「水汲みに行きます。」と言ったら、「シーウオーター」を連発している。つまり「海水でやれ。」と言っているので通訳に「海水ではガスの出が悪いので清水を汲みに行きます。」とMPに話してもらう。
 いるので通訳に「海水ではガスの出が悪いので清水を汲みに行きます。」とMPに話してもらう。MPは、頭を傾けていたが「OK行きなさい。」と、許可してくれた。
 それからが大変、真水は山を少し登った所に湧き出ているのだ。しんどいけれど、「ホイサ、コラサ」で坂道を登り先ず、缶詰の缶を草むらに隠し、おもむろに水を汲み、担いで船まで降りる、その重いこと重いこと。 でも、辛抱して船まで担ぎ込む。夜になって缶詰を持って帰り4~5人で分ける。中には蟹缶、牛缶、カンパン、グリンピース、スープ、チーズ、チュウインガム、チョコレート等いろんなものがあり楽しみであった。自分はその頃、酒は飲まなかった。概ね食い気一方であった。三原へ帰る途中、忠海の駅前で焼き芋を買って食べるのもお決まりのコースであった。
 7月29日、台風が襲来した。第1船の積み込みは90パーセントまで達成されたと聞いていたが、LST814はアンカーチェンが切れて漂流し大久野島海岸に乗り上げ座礁した。このため毒液移送パイプが折れ、あたりに毒物が飛散して百余名の負傷者がでたそうだ。私は当日は帰宅していた。風雨が収まって次の日現場に行ってみたが、どこから手をつけたらよいのか途方に暮れた。海底にはクラゲの様な半透明で枕型をした毒液がごろごろしていた。毒液は比重が重いのか深い方へ深い方へところがっていった。中には波打ちぎわにきて砕けて段々と小さくなり最後には見えなくなった。毒液の回収はやりようがなかった。波打ちぎわにはさらし粉が蒔かれていた。
 焼却場の前の広場のパイプの破損がひどかった。破損したところから毒液が漏れ、パイプからゴムホースにつながっていたがそれもはずれて広場にはおびただしい毒液が飛び散っていた。広場にもさらし粉が蒔かれていた。安物のパイプなので破損は免れなかったと思うが、幸い山寄せに架設されたパイプは破損していなかった。
 ウイリアムソンたちは台風がくるので危険だとは思ったらしいが、危険を承知で作業を急がせたと聞いた。即復旧につとめたが毒臭と飛散した毒物により困難を極めた。8月になってサルベージ作業が開始され翌日早朝満潮時に離礁に成功した。パイプラインも即復旧連結し積み込み作業を開始。第1船(LST・814)は盆前の8月10日、米軍の曳き船に曳航されて、海没地点へ出航した。海没地点は足摺岬と室戸岬を底辺とした正三角形の頂点が目標と聞いていた。
 第1船の出航とともに、第2船の船積みに全力が集中された。8月20日過ぎ頃LST第二船は毒液を満載アメリカの曳舟に曳航され出航したが第2船は船底付近の損傷が激しくガスが甚だしく漏れ曳き舟の乗組員は目を痛め汽罐さえまともに炊けぬ状態になり船の速度も落ちくろうの連続だったそうである。その後第三船に毒ガス弾及び毒物入り容器を満載してこれらを深海に投棄する事になっていたが第三船の到着が遅れたのでLST積み込み用のパイプラインの解体整理を行い9月15日引き上げる。

 LST 積み込みと共に北部海岸では焼却炉を構築し毒液を燃焼さす工程も進められていた。毒液に重油を混合し圧縮空気で霧状に吹かして燃焼さすものでノズルの詰まりエアーの吹き出し等絶えず監視のうえ修正の必要があった。夏の暑さに加え完全装備での作業は想像を絶するものであった。
 防毒面は完全なものでなく我々に貸与されたものは着装しただけでかなり息苦しくなりじっとしているだけでも五分も辛抱できるようなものでなかった。いや、全部の防毒面がそうであったかもしれない。そんな防毒面を着けて仕事をするのだから途中苦しくなると急いで安全な場所へ行き深呼吸して現場に戻るか、若しくはその場で監視員の目を盗みそっと防毒面を持ち上げて呼吸するしかない。私も同僚と燃焼中の焼却装置の不具合を調整中突然、防毒面が外れ燃焼中のガスを吸い込んだ。その時はそんなに危険を伴うような臭気ではなかった。
 その後の作業は軽い気持ちで行ったが二三日過ぎから声がかすれて私も同僚も半月から一ヶ月声が全くでなかった。海岸には大釜で砂糖湯が沸かされ何時でも飲めるよう準備されていた。疲れをとるためか作業員には毎日湯飲み半分程度の砂糖が支給された。
 工具とかゴム手袋ゴム長靴等使用後は必ず消毒水洗いすることになっていた。消毒液は(カメレオン)葡萄酒のような色で高価なものと教えられた。これで先ず洗い次に晒粉を水でとかしたもので洗い最後に水洗いするように指導された。カメレオンは始め頃はたくさんあったがすぐ無くなったのでその後は晒粉と水洗いだけとなった。ある日焼却炉への移送管の継ぎ手から毒液がもれて、あわてた。晒粉を水で溶く間がなくそのままかけたら小爆発をおこし燃焼したのでびっくりした。毒液のいろは醤油のような色だった。重油を混合した色だと思った。
 1950年、戦後処理が終わった後、各工場の設備を解体したスクラップ及び、毒ガス容器を溶鉱炉に入るよう一定の寸法(400ミリメートル各くらい)にアセチレンガスで切断するための作業も行った。俗称黄一、赤一、茶一等の容器は資料館においてある容器より少し小さかった。上部に砲金製のはりこみエアー抜きの金具があり、まずこれを取り外し、容器の上部と下部を切断し、胴体を二つ割りにし、容器の内面に鉛が張ってあるので、地面に穴を掘り、アングル等でさなを造り、切断した容器を積み重ね木材等山積みし火をつけた。鉛が溶けて落ちて翌朝には固まっていた。黄1、赤1、茶1、等いろんな容器があり、燃焼させる木材も工場を解体した木材なので、色々なガスを吸収しており、燃焼する際に諸々のガスを発生し、近くにはおられなかった。勿論完全装備で作業するも、少しの気のゆるみが事故につながる。作業中は、くしゃみ、咳、涙、鼻水の連続で、私も容器切断中に腹部にガスが入り、水泡ができて半年以上治癒しなかった。ゴムの服は、上からすっぽりかぶるものもあったが、上下に分かれている物もあった。支給された防毒面は、つけるだけで苦しく、5分ともたなかった。作業中は常に風上に回り、燃焼中のガスの影響を避け作業するも、防毒面のガラスはすぐ曇り、見えなくなり、長靴の中には汗がたまってダーっと流れるくらいでした。首周りや体中に天花粉をつけるけど汗でずるずるしてどうにもならんかったです。毒の怖さは一応危険とは教えられたがどのように危険なのか具体的には実感がわかなかった。
 毒ガス製造装置の切断作業中ジャケットのタンクで、中が食用油のタンクがあり、切断作業中に天ぷらを揚げてるようないい匂いがしてたまらなく空腹を感じさせる事があった。
 その時年配の職人が一斗缶を半分に切り流れ出る油を受けてガスバーナーであぶり、油を煮やし、別の職人がすぐ蛸をつかまえてきて蛸の空揚げをつくった。チームワークは抜群だ。しかし10名の職人の誰一人食べようとしなかった。約20年間誰も島へ近づけないでいた。海岸には蛸をはじめいろんな魚がいっぱいいるが、毒物が気になり誰も食べない。 
 毒ガス缶を防空壕の中に埋めたということは聞いた。未だおいてあるのではないだろうか。戦後10年以上たって行ってみた時やはりガスのにおいが残っていた。その後2回ぐらい行ったがあまり行きたくはないところだ。現在74歳だが他の人に比べて年が行ったような気がする。夜咳がひどい。食事をしただけで、ただ座っているだけでも呼吸が苦しくなり、しんどくなる。歩くのも、速くは歩けなくて、妻も私のスピードにあわせてくれながら、これ以上悪化しないようにと心配してくれている。

父が語ってくれたこと 私の中の大久野島

今田 文子(七宝茂の娘)

2003年12月1日。私と母は、戦後の毒ガス処理作業体験を証言するために、大久野島へ向かう父に同行しました。当時父は、74歳。冬になると、風邪をこじらせて、微熱が下がらず、入退院を繰り返すようになっていたので、心配の余り同行したのでした。そんな体調の父が、曲がった腰で、杖をつきながら、真冬に大久野島を訪れて、実際の現場まで行って話をすることを引き受けたのには、証言を頼んだ私が一番驚きました。
 私は、小さいころから、晩ご飯を食べながら大久野島のことを聞いて育ちました。「わしらは、どうせ20歳まで生きられんと思よった。」「大久野島ではカナリアを飼っとって、毒ガスがもれたら、かごの中でばたばたあばれたり、死んだりするから、そしたら人間も危ないといって逃げよった。」「毒ガスを船に積みこみょうたら、嵐が来て、パイプがこわれた。毒は海水に溶けずに、丸い玉のようになって沈み、波に打ち上げられるたびに、だんだん小さな玉に分かれていった。」こんな話を当たり前のように聞きました。「イペリット」や「ルイサイト」、「黄1」赤1」のような専門用語もいつの間にか覚えました。
私が、小学校低学年のころ、地域の子ども会で、大久野島に海水浴に行くことになったとき、父は言いました。「あの島には、行かない方がいい。今でも毒ガスの臭いがする。」楽しそうに海水浴や釣りを楽しむ島が、その時すでに、戦後20余年を経過していたのにもかかわらず、恐ろしいままの島だったのです。後から聞いた話ですが、実は、父はこの時初めて毒ガス処理に行っていたことを母に話したのだそうです。母は、父と一緒に大久野島へ海水浴の下見に行ったそうです。すると、島の中には、毒ガスを貯蔵していた倉庫の跡が不気味に残り、くさいガスの臭いがまだ残っていたそうです。
それは、ある小学校の学習発表会での出来事でした。私の目からは、ただただ涙があふれて止まりませんでした。4年生の子どもたちが、「おじいさんから聞いた話 おばあさんから聞いた話・・・」と、「大久野島の歌」を合唱していたのです。その心にしみるメロディーと、歌詞の中身が父から聞いた話とぴったり重なって我が子が歌っているわけでもないのに、涙が止まりませんでした。
その後、私は、運命的な出会いをします。この、「大久野島の歌」を作られた中村京子先生と1年間同じ職場で勤めることができたのです。中村先生との出会いの中で、「毒ガス島歴史研究所」の会員にもなりました。そして、父のことを話すうちに、今回の証言をするに至ったのです。
証言をしている時の父は、一つでも多くのことをできるだけ正確に伝えようと、たくさん話 してくれました。家で聞くのとは違い、実際の場で話してもらったので、もっと聞きたくなり、私の方から質問したりもしました。父の取材を一生懸命してくださる研究所の山内先生ご夫妻をはじめ、同行してくださった会員の方々にもありがたい気持ちでいっぱいになりました。戦後60年。父や父のような体験をされた方の貴重な証言が、本当に大切にされ、多くの方々に知って頂きたいという強い願いも前より強くいだくようになりました。
戦争のことや、毒ガス処理作業のことは、必ずしも語りたいことではなかったと思います。思い出したくもなかったり、知られたくもなかったりすることだったのではないでしょうか。事情をよく知らない私は、父のとまらない咳をうるさいと感じたこともありました。少し歩いただけで息が切れてしんどくなる、そんな父の後ろ姿を見ながら、父が語ってくれたことを娘である私がまず大切にしていこうと、私の中の大久野島が言うようになりました。