「正しい歴史教育をしないと侵略戦争は再び起こる」 都築寿美枝

「正しい歴史教育をしないと侵略戦争は再び起こる」   都築寿美枝

ー南京大虐殺幸存者の証言を聞いてー 

 常志強さん、男性、76才。南京大虐殺事件の幸存者である。顔に刻まれた深いしわは加齢によるものだけでなく、深い悲しみの刻印でもあるようだった。病気の孫を家において、証言に来られたという。日本人に伝えることが生き残った者の使命だと自ら言い聞かせてこの場に臨んだのではなかろうか。

 「1937年、当時私は10才だった。両親、姉、4人の弟、曾祖母、祖母の10人家族であった。秋ごろに日本軍の空襲が激しくなり、多くの死体を見るようになった。政府の役人や金持ちは南京から逃げ出したようだ。父は小売店を経営していたが、生活が貧しく、どこかへ逃げ出す事はできなかった。家族で相談した結果、祖母たちは家に残り、両親と子どもたちは安全区へ逃げることになった。泣いて祖母たちと別れ、安全区へ行こうとした。その途中に中国軍に足止めされ、いったん家に戻らざるを得なかった。翌朝、中華門あたりへ日本軍の大砲による攻撃が行われ、家族で防空壕へ隠れた。しばらくして防空壕を出てみると、人々の泣き声や叫び声が聞こえ、日本軍が銃剣を持って入ってきた。日本兵は無防備の市民を撃ったり刺したりしたので、南京市民は後退せざるを得なかった。私は怖ろしくて母の回りに隠れていた。姉と母は銃剣で刺され、母が抱いていた一番小さい弟が地面に落ちた。弟はおしりを刺され、空中へ放り投げられた。3人の弟たちは日本兵の銃剣を持ち『お母さんを刺して悪い、悪い!』と訴えたが、弟たちも刺されて殺された。失神していた姉は気がつくと『マーマは?』と心配そうに言った。母は全身血だらけだった。私は傷口を押さえて母の顔を見た。母はもう言葉が出なかったが、目は弟たちを探していた。死体のあるところから一番下の弟を見つけて抱いて母の所へ連れ戻った。母は必死で乳を飲ませようとした。何も言えず、母は死んだ。父を捜していたら、父は顔から背中から血だらけでひざまづいて死んでいた。撃たれたらしい。それから私は体を5カ所刺された姉をベッドの下に隠した。自力で動けない姉の体は10才の自分にはとても重くて大変だった。外を見ると日本兵は死体から指輪やイヤリングなどを盗っていた。家族を殺された私と姉は一晩中泣いた。翌朝、太った女性が子どもと一緒に家族を捜していたので姉と二人でその人の家に連れて行ってもらった。彼女の家は京劇俳優の家らしかった。女性が食事の支度をしていると、日本兵が来て二人を戸外に連れ出し、強姦した。姉は11才だった。姉たちの泣き声が聞こえたが、どうすることもできなかった。もし銃があれば、日本人を殺したいと思った。しばらくして二人は戻ってきた。それから4人で安全区の方へ逃げた。アメリカの旗の立っている安全区に大勢の人が押しかけていた。門が開き、人々が中へなだれ込んだ。何日か後、日本軍が来て人々を男女別に分け、身元確認をした。家族の確認のとれない男の人たちはどこかへ連れて行かれた。人々がごった返すような様子の中で、実際に家族がいてもはっきり認められないうちに、次々と縛られて連行された。その後、揚子江の水が赤く血で染まるくらい大勢の人が殺されたという話を聞いた。多くは一般市民だった。それから近所の人と祖母にあった。弟たちの遺体の確認に行ったら遺体はもうなくて、弟の靴の片方が落ちていた。遺体を片づけた赤十字社の人たちが、弟の鼻水が凍っていたと話してくれた。こうして私たちは孤児となった。

 その後、苦力などをして働いた。姉はコレラで死んだ。日本軍がコレラ菌をまいたと聞いている。日本人を恨んだ。工場に入り、労働者になった。家族のことを話すことは苦しい。誰にも話したくない。紀念館に来る度に思い出す。90年代テレビで日本の右翼が南京大虐殺を否定するのを知り、勇気を出して証言活動をはじめた。以前は日本人を恨む気持ちが強かったが、何度か日本人にあって証言するうちに気持ちが変わった。戦争や平和に対する考えも変わってきた。ヒロシマ・ナガサキの人々も被害者ですね。戦争を起こした少数者のせいで多くの両国市民が犠牲となった。事実は隠すことができない。もしこれから戦争になったら、私の家族と同じ事が皆さんの家族にも起きる。正しい歴史教育をしないと侵略戦争は再び起きる。私たちは次の世代を守らなければならない。証言することは苦しいけれど多くの人に真実を伝えたい。」

 被害者の証言はトラウマを再現させる。何十年経っても癒えない傷痕をかきむしりながら涙と共にさらけ出された真実に私たちは誠意を持って答えるべきである。決してお涙ちょうだいで終わらせてはならない。それは証言者や犠牲者を冒涜することになる。私たちにできる誠意ある行動とは、二度と愚行を繰り返さない事である。体験者でしか記憶できない空気の匂いや色がその証言の真実である。この事実を多くの人に伝え、幸存者の願いが共有される社会を築かなくてはならない。

 過去を学ぶことは現在、未来に生かされるべきである。平時にあってはよき夫や息子がどのようなからくりで残忍な日本兵と化したのか、最も近い中国や朝鮮の人々を虫けら同然にさげすみ、差別できるようになったのかを学び取らなければならない。当時の日本社会が戦争に突き進んでいった経過や、どのような仕組みで人々が分裂させられていったのかを知ることは、決して過去を学ぶだけではなくなってきている。証言者から頂いた涙と勇気を、今私たちは闘いのエネルギーに変えなくてはならない。