私の体験 被爆の記録から M.K(元忠海高等女学校生徒)

火薬が爆発 火が部屋全体にまわり、大爆発をなりました

 今からおよそ30年前の昭和18年6月、私たちは忠海高女学徒報国隊として、旧陸軍造兵廠忠海製造所(大久野島毒ガス工場)に動員令がくだりました。私たちは一般工員の方々と一緒に、国のため大君のためと、毎日朝は朝星、夜は夜星、一生懸命ただ一途に働いた事を思い出します。
戦いもますます激しくなり、大久野島も危機に迫ったその頃、人手不足のために能率は上がらず、当然学徒は一般工員の仕事にたずさわらなければならなくなったのです。早速私達七人は発煙筒に点火する誘導固形物を作る事になりました。
 忘れる事も出来ない昭和20年4月20日午後1時すぎでした。親指より少し大きい筒の中に火薬の混ざったものを何かの液でとき、それを筒の中に入れ機械で圧縮する作業していたその時でした、一瞬、火薬が爆発したのでございます。固形物は勿論その部屋にある火薬に点火し、つぎつぎと火が部屋全体にまわり大爆発となりました。近所で働いていた友人はその爆発とともに煙を吸いながら煙をかき分けて逃げた様子、私は火をかぶり意識を失いその場に倒れていました。いかほど経過したのでしょうか、ハッと気付いた時には部屋の中は火の海となっていました。煙は一面にモウモウとたちこめ、一寸先も見えない有様・・・。私はその中をよろめきながら手さぐりで無我夢中で外に出ようと頑張りました。苦しいので救いを求めた私は、「佐竹さん、佐竹さあん。」と何度も呼んだ。「誰か助けてください。誰か来てください。」私は思いがけない一瞬の出来事にうろたえ、なすすべもなく助けを求めていました。
 然し誰も人を助けるどころではなかったのでしょうか、誰も私の手をとり導いてくださる人はいなかったのです。大人の人達はどうしたのだろう、監督の方は何をしているのでしょう。助けを求めるこの心が通じなかったのでしょうか。そのうちに強く喉のかわきを覚えました。苦しい、喉が焼け付くような乾きでした。トボトボと水を飲みたい一心に足をひきずりながら前にやっと進みました。部屋の横手の水道の処にやっとのことでたどり着きました。水を飲みたい、ただその一心でした。蛇口に口を当てて水を飲もうとした時、今までの自分の手と違い赤黒く手が火傷している事を知ったのです。ハッと驚いて自分の身体を反射的に見まわし、私はまたその場に倒れそうになりました。それもそのはずです、私の身につけている手おい、前掛け、頭巾に火が着いていて、ボロボロとくすぶり燃えているのに気付いたのです。
 私は本当にあわてました。今度こそ本当に「助けて!」と大声をあげたい衝動にかられました。その時丁度私をさがしておられた内田技手さんが走りつけて来てくださいました。「さあ、しっかりするんだ」と励ましてくださりながら、衣服を脱がせ医務室に運んでくださったのでございます。
そこには学友の荒木美津子さんもいました。その美津子さんの姿を見て、暗い悲しい恐怖におののきました。顔面、腕を火傷してふくれあがり、化け物そのものの様に見えたのです。私もあの様な姿になっていることを知り、泣くに泣けない恐ろしさに身をふるわせました。「恐ろしい、誰か助けて!」あらためて恐怖の実感が身体中を走りまわりました。マスクをしていなかった私は、口の中までも焼き、言葉にならない苦しさを訴えながら大久野島病院に負傷者として運ばれました。
 その時、病院の入口には、ものものしく「面会謝絶」「火薬第二度火傷」と張紙されていたとのことでございます。
 皮下に膿がこもり高熱が幾日か続き、氷嚢で冷やすなど大騒動の様子でした。そんな苦しい時、私達のこの入院している姿を見て、当時、現場作業の責任者であった今井中尉さんが病室の入り口に顔を出し、男泣きに涙を流しながら「すまない」と一口言われたまま後は無言のまま立っていられました。
 続いて引率の東城先生、鈴木先生も病院に入って来られるなり大きな声でただ泣かれるばかりで、見舞いの言葉も無かったというより出なかったのでしょう。その人達のお姿が今の私にはっきりと思い浮かぶのでございます。
 当時、大森軍医大尉さん、橋本婦長さん、首藤看護婦さん(現在忠海病院婦長中村さん)をはじめ多くの方々に手厚い看護を受けました。流動食からお粥、火傷の治療・・・と身を削られるような本当に苦しい思いの約1ヶ月の入院治療でした。
 そして、更に私はこの上もない悲しくも、淋しい入院生活でした。それは家族親戚の見舞いなり面会がいっさい許されなかった悲しさ、淋しさでした。私の事故を聞いた私の両親は、大久野島病院に取るものも取りあえず向かったとのことでしたが「秘密の島」と言われた大久野島には母ですら寄せ付けられなかったのでございます。私もお母さんに会いたい、お父さんに手を握ってもらいたいと娘心に父や母の名を呼びました。然し、両親の来訪は許されなかったのでございます。
 明けても暮れても心配でたまらない両親は、私の姿を見たい一心に、何度か忠海の大久野島の見える桟橋に立った事か。軍の秘密は学徒の私達にさえ親子の対面は許さなかったのです。母はせめてもの母の心づくしと、母の手で固くにぎってくれた、おにぎりや、卵焼きなど毎日のように友達にことずけてくれて、私は本当に嬉しく思いました。その反面、おにぎりを見るにつけ何故か悲しさに泣いてばかりいました。私は食べられなかったのですから。
 一度の面会も許されず一ヶ月が過ぎてしまいました。どうにか動くことが出来るようになった私は、退院することになりました。私は所長さんのところに挨拶に参上致しました。その時所長さんは、「山脇さん、あなたは立派な働きをしました。戦いが終れば金鵄勲章組です。」と激励してくださいました。母はただ一言、「元気になってよかった」と私の肩をなでてくれました。母も私もただしっかりと抱き合って涙を流しました。それから二、三日休暇をもらい、母のもとでゆっくり静養した後、平常通り動員学徒として作業場に帰ることになりました。
 風が新しい皮膚にしみて手先までズキズキとうずき紫色に変色していました。シラコの跡が残り、気味悪さを感じていました。女学生の娘心に此の傷は本当に死にたいほどの悲しいシラコでした。
 過去二十七年をすぎた今日まで、言葉に現す事が出来ない社会生活に苦しみを秘めて私の身体はどうなっているのか心配でならない毎日だったのでございます。日を経過するのとともに火傷の跡も段々うすらいで来ましたが身体全体の不調にいろいろな苦しい症状が起こり、年ごとに苦しみが重なっております。どんな治療をしても回復することはできないという結果をいただいてしまいました。本当に淋しいです。こんな宣告を受けた気持ちを誰が解っていただけるでしょうか。わかって頂きたいと思います。けれども私は今倒れることは出来ません。
 家・・・子供・・・を思えば、淋しい中にも勇気を出して頑張ります。どうか此の私を助けてください。
 皆様の暖かいご支援をお待ちしております。

(注)この証言は1972年に記録された証言です。
本人の許可を得て掲載させてもらいました。