事実を伝えて欲しい・竹城孝

<青年学校>

 私は1924年(大正13年)4月19日生まれで、現在73歳になります。私は、青年学校の2年生の時、1941年4月から忠海分廠(現在のアトムKKの場所)に動員されました。大久野島で働いた人の中には、国家総動員令や学徒動員令で動員された子どもたちがいます。私もその1人です。
 青年学校とは旧学制の中の一つです。戦時中は尋常小学校に6年間通い、勉強ができて家庭が裕福で経済的にゆとりのある男子は中学校へ進学し、女子は女学校へ進学した。また、尋常高等小学校2年へ進学する子もいた。勉強できる女子で三原女子実家女学校へ進学している人もいた。進学しない人は青年学校へ男子も女子も通った。
 青年学校は小学校と大きい職場に併置されていた。後に幸崎の幸陽ドックにも青年学校ができたが、先生は学校を退職された先生だった。大久野島にもあった。
 青年学校は本科5年と、本科終了後、研究科2年があった。研究科の生徒は戦局が悪くなり、中退して兵隊に行っていたので卒業生はいなかったと思う。
 つまり、青年学校は進学しなかった14才からの男女が通っていた。忠海西青年学校は、私が2年までは夜間の学校だったが、3年(1942年4月)から昼にあるようになった。忠海西青年学校では、男子は主に軍事教練をし、女子は和裁をしていた。しかし、毎日というわけではなく、男子は月水金が登校日であった。残りの火木土日はそれぞれの職場で働いていた。
 私は忠海西小学校を卒業後、幸陽ドック株式会社で働いていた。幸陽ドックで働き始めたときには、会社にまだ青年学校がなかったので地元の忠海西青年学校に通った。
 私の学校の先生は、忠海西小学校の先生が兼任していた。本科の1年から5年と研究科までで男子が45人位、女子は35人位いたと思う。
 青年学校では午前は授業で、午後が軍事教練だった。授業は教科書はなく、私の先生は「山下将軍のマレー半島作戦」を教えてくれた。この作戦は「きつつき戦法」という。きつつきは木の片方から少しつついて、もう片方で虫が出てくるのを待ち伏せるという。そのように、軍隊が片方から攻めると見せてもう片方で待ち伏せるというような内容だったと思う。内容は戦争の話ばかりだった。
 軍事教練は高学年と低学年に分かれ、高学年は小銃、低学年は小銃がないので木銃で撃つ練習をしていた。軍事教練の指導員は忠海分廠の消防長をしていた下士官(伍長)が教えにきていた。

 私が5年の時、忠海西小学校と忠海西青年学校の合同の運動会で青年学校は3種目の演技をした。一種目は1・2年が木銃を持ち、3・4・5年は銃を持ち並んで、空砲(先が真鍮は実弾で、空砲は先が紙)を1人3発くれた。全員が横1列に並び、伏せた。宮床の海の方向に向かって先生の「うて」の合図で撃った。私は機関銃を撃った。弾は15発あった。機関銃は高学年の5年生が使った。機関銃は1挺だった。撃った後に「ごぼう剣(銃剣)」を抜いて銃の先につけて突撃をした。30m位走り、「突き」をして終わった。元の位置に帰り、分列行進をする。私は一番右にたち、サーベルを抜き右の肩につけ、学校長の前を通り敬礼をするときに、サーベルを額の前に掲げ、「かしら」と声をかけ、「右」でサーベルを右斜め下にたらし、右をみる。残りの人は銃を担いだまま、かけ声にあわせ右を向いた。そして、退場門から帰った。
 他には、高学年は銃に着剣し俵をつく演技をした。低学年は板にルーズベルト(アメリカ大統領)とチャーチル(イギリス首相)の似顔絵を描いたものを一人ずつ木銃でつく演技があった。板はバネがついており、突くと向こうに倒れ、突き終わると元に返るようになっていた。
 また、運動場の真ん中に円を書き2班に分かれ反対周りで、俵を担いでリレーする競技があった。ただ走ってもよいし、途中で俵をぶつけてもよい。ぶつかると力が弱いものがこけたり、ぶつけようとしたときにすっと逃げると相手がこけたりした。

 当時、忠海西青年学校は銃剣術が強かった。青年学校の銃剣術大会が三原地区であり、それに優勝した。福山大会でも優勝し、県大会にも出場した。私は個人戦でも県大会(1943年5月10日)にでて優勝した。
 
 忠海の招魂祭(4月16日)で銃剣術大会をしていたが、主催する在郷軍人会より強くなったので、銃剣術大会をなくされてしまった。そこで三原の大会に行ったが、青年学校というと子どもは危ないから参加してはいけないと断られた。みんなで防具をつけて「自分たちは忠海の在郷軍人会だ」とウソをついて参加し、優勝した[次の写真]。優勝戦で対戦したのは大久野島在郷軍人会で、選手はみんな下士官だった。後から「忠海の在郷軍人会が優勝した」と聞いた忠海の在郷軍人会の会長は、だれが参加したか不思議がっていた。
 それくらい銃剣術の強い忠海西青年学校の上級生になり、指導する立場だったので、幸陽ドックに青年学校が作られても、そちらに行く気にはなれなかった。

 青年学校を出ても職場の給料が上がるわけではないが、自分も兵隊に行くから鍛えるために通った。
 青年学校が朝からあるときには休暇届、昼からあるときには早退届が必要であった。私の職場では技師に判を付いてもらわなければならなかったが、職場の青年学校に通っていないため判をなかなか押してくれなかったり、嫌みを言われたりした。そこで技師長に判を付いてもらうこともあった。
 幸陽ドックにある青年学校に通えば、勤務時間中に行くので休暇届もいらないし、給料もでていた。忠海西青年学校に行っていたら職場を休むので給料は出なかった。後に、私の親戚が憲兵と結婚して、その憲兵が職場に幸陽ドックにある青年学校と同じような扱いをしてくれるように言ってくれ、給料を出してもらえるようになった。当時の憲兵は力を持っていたので、全員に給料がでるようになったのではないかと思う。
 
<忠海分廠へ動員される>
 国家総動員令や学徒動員令がでたので、県の学務課から動員の命令が校長にきて、校長の命令で忠海西青年学校の生徒も動員に行くことになった。幸崎・忠海西・忠海東・大乗・吉名の5校、つまり豊田郡内の青年学校が動員で行っている。青年学校2年生(14才)の時、1941年4月から陸軍広島補給廠忠海分廠へ動員で行った。その当時は月に1回くらいだったが学年があがるにつれて回数が増えていった。最初は男子だけだったが、女子も行くようになった。
 動員がある日は事前には分からなかった。だから学校に行って初めて動員に行くことを知った。しかし、忠海分廠で働いている青年学校の生徒は動員のある日はそれを知っており、学校には来ずに忠海分廠で待っていた。
 
 動員の日は朝礼があった。奉安殿の隣の国旗掲揚台の前に朝礼台があり、そこに校長が立ち挨拶、訓辞をした。私は年長者であったので、整列したときに一番右に立ち、「校長に敬礼、かしらなか」と言ったりした。その後、隊列を組んで忠海分廠まで行った。引率は先生で、歩いて20分くらいで着いた。 トラックから倉庫に、倉庫から倉庫に、倉庫からトラックに荷物を運ぶ仕事であった。船からトラックに荷物を運ぶこともあった。女子は発煙筒がさびたものを磨いたり、草を抜いたりしていた。


 忠海分廠に着くと、9番10番倉庫の前の広場や正門の前で集合し、そこにいた工員が監督をしてその指示に従った。5~6の班に分かれて、決められた倉庫に行ったり、繋船場に行ったりした。青年学校の生徒は、火薬庫と黄燐筒倉庫には行ったらいけないということで、そこまでの倉庫で働いた。
 忠海分廠では、トラックで運ばれてきた木箱(毒ガス資料館で当時のものをみると赤筒の木箱であった)を降ろし、倉庫に運んだ。倉庫の中は木箱でいっぱいだった。木箱は男子も女子も2人で運んでいたように思う。木箱は軽いものもあったが重いものもあった。1回か2回砲弾を運んだこともある。砲弾はほとんど日通の人が運んでいた。引率の先生は見回りをしていたように思う。
 トラックは日通のもので、後ろのタイヤは今のように2本ではなく1本だから今の2㌧車くらいだったと思う。その荷台に木箱を3段くらい重ねて積んできていた。それを5~6人で降ろして倉庫に運んだ。時間にして30分くらいだったと思う。監督が「用心せえよ、用心せえよ。乱暴な扱いをするな」というので時間がもう少しかかったのかもしれない。終わったら次のトラックが来るまで待っていた。だから楽な仕事だった。
 二窓の繋船場では、船から運ばれる木箱をトラックに積む作業をした。
 昼休みは12時にサイレンがなった。13時まで休憩で、忠海の者は昼食をとるために家に帰った。幸崎の青年学校の人は弁当を持ってきていた。
 17時に集合して、工員から「今日みなさんが作業したことは帰って言わないように」という注意があった。だから、家では作業内容の話をしなかった。その後、現地解散して家に帰った。私は帰りが早かったので、帰ってから農業をした。
 私の生活は、火木土日は7時20分の電車で幸陽ドックに通い、20時頃帰っていた。月水金は青年学校で勉強するか、動員で忠海分廠に行き、帰って農業をするかであった。

 働きに行った服装は、青年学校の服装だった。青年学校の服装は、軍隊と同じもので、違うところは、階級章がないことと、胸に名前の名札だけでなく、青年学校と名前を書いている名札をつけていたところだった。青年学校は軍隊ではないので服装は軍隊からの支給ではなく家で買ったものだった。靴は地下足袋にゲートルを巻いていた。帽子はかぶっていたが、手袋はしていなかった。

 荷物を運んでいるときに、日常生活でかぐような臭いとは違う臭いがした。しかし、臭いなとは思ったが毒ガスということは知らなかったし、うわさも聞かなかった。弾薬だろうと思っていた。口に出して言わないが、大久野島で働く工員をみて何か体に悪いものを作っていることは薄々感じていた。
 
<兵隊になる>
 私は青年学校研究科1年の時に徴兵検査を受け、現役で1944年9月10日に21歳で、陸軍歩兵広島西部二部隊三中隊に入隊した。私は銃剣術で部隊で優勝したので、抜擢され中隊長の当番になった。健康体で、気がよくつく兵隊でなければならなかった。中隊長の後をついて歩くので中隊長より位が下の将校がきた場合は敬礼をしなくてよかった。
 1945年5月沖縄決戦に行くので一個部隊編成し、賀茂郡原村に集結した。出動命令がでて八本松の駅に行った。中隊長が実家に電話するというので、日通から広島の実家に電話をかけた。それを郵便局に行って内容を聞いてもらった。瀬野で事故があり三原から広島に呉線で行く、夜中の2時につくことを連絡していた。幸崎駅で止まった時、忠海の私の母に連絡すると食べ物などを持って待ってくれると言った。列車をゆっくり走らせてくれと頼むと、分かったと言ったがそのまま通り過ぎた。
 真夜中の2時に軍用列車で広島駅を出発した。しかし、アメリカ軍機動部隊に海上封鎖され、北九州折尾駅に降ろされた。そこで、本土決戦に備えて、陣地構築をした。塹壕を掘り機関銃をすえ、そのうえを松などで偽装した。戦車が攻めてきたらどうするかなど話していた。
 八幡の空襲で日本の高射砲から弾がでない。高射砲陣地があり高射砲が見えるのに弾がでないのでおかしいなと思っていたら、偽装した木の高射砲だった。自分のところが爆撃されなければ人ごとであった。爆撃は夜みるととてもきれいだった。
 昼は50m間隔で爆撃された。防空壕に入り逃げていたものは熱風が入り死んでいる。その死体を処理したこともある。くさくて3日くらい飯が食べられなかった。近くに芦屋の飛行場はあったが、飛行機はみんな逃げていった。
 爆撃されたことや飛行機が逃げたことから、日本は敗けるじゃろうと思っていたので、敗戦を聞いてやれやれと思った。日本は神国で神風が吹くといわれていたが、裏切られたような気がした。それからは無神論者になった。
 
<敗戦後の処理にあたって>
 敗戦になり、9月27日に忠海に帰ってきた。もう一度、幸陽ドックで働こうと思ったが、青年学校の件でもめていた技師が技師長になっており入社を断られた。
 兄が、毒ガス処理の進駐軍労務者の責任者だったため、毒ガス処理を手伝うことになった。兄はどういうことで責任者になったのかは知らないが、日給10円という高給だった。
 10月3日から1946年5月5日まで働いた。100人位いたと思う。毎日、朝8時から午後5時まで働いた。日本人は終業時間がきても仕事が片づくまで仕事を辞めない。外国の人は仕事の途中でも終業時間がきたら仕事を辞めると聞いていたが、日本人と同様、仕事が片づくまで終わらなかった。
 忠海駅前の西よりの広場(養成工宿舎の裏:今の浅野医院から三好歯科の間は広場だった)に集まり、忠海分廠・阿波島・大久野島に振り分けられる。しかし、トラックに乗り組む人は進駐軍に選ばれた。
 私はトラックで忠海分廠から、船に乗り大久野島に木箱を運ぶことが主な仕事だった。私は最初の内はなるべく目立つように、みんなより少し前に出て立ち、トラックの運転者(外国の軍人)にトラックに乗るよう選ばれることを心がけた。この仕事はトラックの運転手がタバコをくれるからだった。後には顔見知りになり、私を撰んでくれるようになった。また、兄がキャプテンに頼んで大久野島(現レストハウスの下に防空壕があり、そこに衣類をおいてあることを兄が元工員から聞いて知っていた)においてある工員の白い作業服を一人2枚ずつもらったりした。
 忠海分廠から大久野島の2カ所に、木箱を1日4~5回持っていった。今の永福設備の事務所と駐車場のところに洞窟があった。1945年の初め頃掘った洞窟である。3月10日に1等兵になり、3月13日に忠海分廠にいる西部二部隊三中隊の中隊長に報告に行ったら、同期兵がいないので聞いてみると防空壕を堀りに行っているということであった。そこには木箱がいっぱい詰まっていた。その洞窟の木箱と倉庫の木箱を運んだ。

 外国の軍人が運転するトラック(1台に5人が乗り込む)に木箱を積み込み、「新田のすべり(城本遊漁船の前)」から上陸用舟艇に2台のトラックごと乗り込んだ。洞窟の木箱は大久野島の発電所の横の桟橋に乗り上げ、慎重に降ろした。倉庫の木箱は唐人傘(大久野島の北海岸)に持って行き降ろした。丁寧に降ろしていたら、進駐軍が投げおろしてもいいという手振りをしたので投げおろした。そして、そこで焼いていたように思う。阿波島に行ったものはチビなどを運んだのではないかと思う。
 木箱の中身が毒ガスじゃないかと思ったのは、こんなことがあったからだ。洞窟にあった木箱は焼却処理しないし、慎重に降ろせという指示があった。また、倉庫に入れないで、洞窟に置いておくくらいだから危険なものではないかと思う。
 1945年12月20日、火事のサイレンが鳴った。忠海分廠から火柱で花火のようなものがあがった(発射発煙筒ではないか)。行ってみると13番か14番倉庫が火事になっていた。そこを担当していた進駐軍がジープできて笑っている。だから、進駐軍が早く荷物がなくなれば自分の国に帰れると思い、火をつけたのではないかと思った。
 大久野島の南部砲台の方にあがる坂を、進駐軍のトラックが軽々とあがるので、このようなすごい機械を持っている外国には戦争には勝てないと思った。また戦後、進駐軍のジープとトラックが衝突した。するとジープのラジエターが曲がったが笑いながらなおして乗っていった。日本の軍隊では馬の蹄鉄を落とすと重営倉に入れられたし、「おまえらは1銭5里だ」と言われた。この様な違いをみて、こんな国に勝てるわけはないと思った。
 
<戦後処理がすんで>
 1946年7月、現在の三菱重工三原製作所に入社した。それから、1973年に胃の調子が悪くなった。十二指腸潰瘍で三菱病院に入院。1月半くらい入院した。1981年8月まで、入退院を繰り返した。原因は分からなかった。1981年8月呉国立ガンセンターで胃の手術を受け、3分の2取った。父親も兄もガンで死亡したので一抹の不安を持っている。
 現在は、胃を切っているのであまり食欲がない。それまでは体重が67キロくらいあったが、今は47キロくらいしかない。45キロになったら入院しなければならない。1984年から、健康管理手当をもらっている。
 
<複雑である救済制度>
 大蔵省関係の救済要項と厚生省関係の救済要項がある。その仕組みは複雑である。
 大蔵省関係の救済要項は、特別手当・医療手当・健康管理手当・保健手当がもらえる。そのためには、医療手帳が必要である。
 救済要項では、旧陸軍共済組合員で毒ガス製造などの業務に直接従事した方に医療手帳が交付されるとなっています。私のつれあいは看護婦をしていて、陸軍共済組合員であったが、毒ガス製造には従事していない。しかし、現在では毒ガス製造の業務に直接従事していない看護婦・守衛・消防・事務所関係・船員・倉庫・炊事・食堂・売店・発電場・忠海分廠の工員・陸地(桟橋忠海がわの)も全員医療手帳を交付されている。
 医療手帳は証人を2人つけ申請し、間違いないと立証されるともらえる。認定患者(特別障害者・特別手当と医療手当をもらっている人)は大蔵省(工員)で、月に3回通院していたら医療手当がもらえる。健康管理手当は医療手帳の交付を受けた方が、「指定医療機関で診療を受け、ガス疾病であると診断されたときは健康管理手当が支給されます」となっている。
 保健手当は、「健康管理手当の支給を受けたことがある方であってガス傷害の再発のおそれがある方」という基準だが、特別手当と医療手当と健康管理手当てをもらっており、保健手当をもらっている人はいない。
 大蔵省関係・厚生省関係いずれも、3年に1度健康管理手当の切り替えがある(1995年から5年に延長)。病院に1回も通院されていない人でも継続される。
 厚生省(学徒・女子挺身隊・国防婦人会で勤労奉仕にいった人・日通の人夫・戦後処理をした人)の救済要項は、通院しなかったら健康管理手当が停止になるか保健手当に落とされる。
 医療手帳をもらうためには、まず健康管理手帳が必要である。健康管理手帳をもらうためには、自分が働いていたという証人を2人付け県に申請する。障害者の中から調査員が3人、県の原爆対策課から1人の計4人がいる部屋に入り、面接し、おかしいと思われたときは証人を呼び出す。申請者と証人の証言が、間違いないと調査部会で認められたら交付される。
 健康管理手帳をもらうと、年に1度、広島大学毒ガス研究班の健康診断(一般検診)が受けられる。検査結果は葉書で郵送され、総合判定がくだされる。総合判定は1から5まであり、5は「毒ガス検診の精密検査を受けて下さい」と書かれており、精密検査を指定された日時場所で受ける。再びその結果が葉書で郵送され、AからFまでで判定され、C以上のものは医療手帳交付の申請ができる。
 県に申請し、審査会医療部会(広島大学医学部教授・広島大学健康管理センター所長・忠海病院院長・県の福祉保険部長)で承認されると医療手帳が交付される。これで毒ガス障害者と国が認めたことになる。忠海病院の医療費は竹原市に請求されるので厚生省の負担はない。 
 健康管理手当は「ガス障害者と認められた方で現に症状があり治療中または治療を要する方の障害の程度によって健康管理手当が支給される。」以前は「広島県はガス障害者に健康管理手当を支給する。」となっていたが、現在は改悪されている。健康管理手当は通院していないと停止になるか、保険手当を落とされる。ここに、大蔵省関係の救済要項との差がある。
 
<旧忠海分廠動員学徒の会を始める>
 旧忠海分廠動員学徒の会を始めたきっかけは、忠海分廠に動員されてた私より若い人が、1978か1979年頃、忠海病院に行っているのを見た。どうして通院しているのか聞いてみると、兵器庫へ行ったからだと言う。兵器庫へ行っていたら健康管理手帳がもらえることが分かった。それなら青年学校も動員され忠海分廠に行ったのだから、会を作って救済してもらおうという話になった。青年学校の同窓生に連絡をし呼びかけ、1980年5月6日、22名で「旧忠海分廠動員学徒の会」を発足した。
 県庁に救済申請に行くと、「青年学校はどんな学校だったか」と青年学校に対する認識がなかった。青年学校の沿革誌や学籍簿は敗戦時焼却処分されたのでないため、写真を持っていったり、青年学校優良生徒特別訓練(賀茂郡原村陸軍演習場・県下の青年学校620名位がいる中で県知事から特別表彰を受けた。「忠海西青年学校竹城孝」特別訓練を受けての成績優秀だったため。)という表彰状を持っていき理解してもらった。
 毒ガス障害者互助会が1951年10月に発足したのは、できた当時から知っていた。これは工員だったから救済されると思っていた。私たちは動員されてはいるが、工員ではないので救済されないと思っていた。工員以外の救済のための会があることを知らなかった。だから、救済される最後の会になった。
 現在は忠海西青年学校・忠海東青年学校・幸崎青年学校・大乗青年学校の116名で構成されている。すでに死亡者は22名、そのうち47%がガンで死んでいる。
 被害は被害で救済されなければならない。しかし、加害を手伝ったのは事実である。
 
<事実を伝えて欲しい>
 私は青年学校本科5年の時に行われた、広島県内青年学校優良生徒特別訓練(県下620名、忠海西青年学校から3名)の10日間で、軍国主義を一升ますの中に詰め込まれた(軍国主義の固まり)。毎日軍隊と同じような練習であった。少佐が訓話をするが、天皇と軍隊のことばかりであった。また、軍事教練は、青年学校でする訓練と違い、実戦用の訓練でほふく前進をしたり、夜間演習をしたりした。
 この様な軍国主義の訓練をした後、原村の陸軍演習場から帰る途中、三原駅へ向かう電車の中で、パーマをかけた女の人を髪をつかんでなぐった。当時パーマをかけていた人は敵国の髪をしているということが理由である。
 また、明治神宮での全国大会のため、比治山で広島県内の銃剣術の合宿をしていた。広島県内から10人が選ばれ、恩清(おんしょう)塾で合宿していた。そこでも夜広島の街に行って、女の子の髪にパーマがかかっているとなぐり、文句があれば「比治山の恩清塾にこい」といっていた。憲兵も見ていたが何も言われなかった。それくらい軍国青年であった。それは軍国主義教育を徹底的にたたき込まれたからだと思う。
 私は真珠湾の奇襲攻撃の時、幸陽ドックにいてラジオで軍艦マーチを聴いた。そして万歳万歳と行った。今考えると宣戦布告もせずとんでもないことだった。
 
 今は、学校教育で平和教育をしてきちんとしてもらいたいと思う。現在の日本は、自分の都合の悪いことは隠そうとしている。事実は事実として伝えていかなければならない。初め、日本政府は毒ガスを使用していないと言っていたが、現在は様々な資料によって確認され、非致死性の毒ガス(赤筒など)の使用は認めている。しかし、致死性の毒ガス(イペリット・ルイサイト)の使用は認めていない。
 戦争の事実を伝えて欲しい。広島も長崎も加害を語り始めてきた。大久野島であったことの事実を伝えて欲しいと思う。
 また、大久野島で作られた毒ガスについて、平和を語り継ぐ人が何人もでてこないといけない。竹原市は前館長の村上氏をやめさせる前に、次に語り継ぐ人を後継として育てるべきだったと思う。
 
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[解 説]
(青年学校とは)
 1935年(昭和10年)3月30日の青年学校令によって、青年訓練所と実業補習学校が統合して、青年学校となった。
 青年学校の目的は、「男女青年に対し、その心身を鍛練し徳性を涵養するとともに、職業および実際生活に須要なる知識技能を授け、もって国民たるの資質を向上せしむる」とされた。
 青年学校には小学校にひきつづく2年の普通科、その上に男子5年、女子3年の本科、さらに1年の研究科があった。そして、この青年学校は1939年(昭和14年)4月26日、青年学校令の全面改正によって義務制となった。各学年における各教授および訓練科目の授業時数は次の表(次ページ掲載)の通りである。
[「戦前・戦中」用語ものしり物語より]