北担村毒ガス虐殺事件幸存者 李慶祥さんの証言

中国北担村毒ガス虐殺事件とは

 1942年5月27日、日本軍は河北省北担村で毒ガスにより1000人以上の中国人を虐殺しました。日本軍が村に攻め込んで来たので村人たちが地下道に隠れているところに日本軍は国際条約では使用が禁止されていた大量の毒ガス(赤筒)を投げ込みました。地下道の中はまさに地獄となりました。やっとの思いで地下道から逃げ出した人々を日本軍は銃殺・刺殺・婦女子への強姦・幼児の惨殺などありとあらゆる残虐非道な行為を行い、老若男女を問わず虐殺したのでした。この北担村の虐殺事件で使用された毒ガス(赤筒)は大久野島の毒ガス工場で製造されたものと考えられます。

当時を思い浮かべながら証言する李慶祥さん

 皆さん、ようこそいらっしゃいました。
 

 1998年に日本を訪れた際は、いろいろな方にお世話になりました。あちらこちらで歓迎していただき、とても感謝しています。
 

 1942年5月27日の忘れられない出来事を伝えたいと思う。その日の朝、わが村では大変な事件が起きた。明るくならないうちに、私は銃声を聞いた。日本軍が掃蕩に来たのだ。父と母、兄弟、姉妹と北へ逃げようとした。村は三方面に川が流れていて、東北方向は逃げやすい。わが家だけでなく、村民はみな、その方向へ逃げようとした。日本軍は銃撃して阻止しようとした。兄、姉も向かったが、逃げられないので村の方へ戻ってきた。日本軍は村に入ると、縦横に延びる地下道の入り口を次々に発見した。密告者がいたのだ。すぐに兵隊たちは毒ガスを投入し始めた。毒ガスは、火薬と焼いたトウガラシのような臭いで、涙が出てきた。地下道の中で、村人たちは争って外に出ようとした。中は大混乱だった。家族はばらばらになってしまった。私は、母と2人の妹と一緒にいた。毒ガスが次々と流れ込んできて、濃度も高くなった。妹の1人が「とても我慢できない。歩けないよ」と言ってすぐに倒れ、息を引き取った。なす術もなく、私と母は出口を捜した。1つの出口が見つかり、上に芝を掛けてあった。それを動かして外をうかがうと、日本兵が村人をつかまえて殴りつけるところだった。それを見て、すぐに地下道に潜り込んだ。

 私の姿に気付いていたのか、まもなく日本兵がその出口を発見した。そこから毒ガスを投入し、出口の上の芝を燃やし始めた。私と母は、地下道を東南の方向へ逃げた。そちらの方が毒ガスが薄かったからだ。私たちは一生懸命に出口を捜した。私と母、赤ん坊の妹を抱えて3人で解家荘の親類のところ(約0.5キロ離れていた)まで逃げた。

 家族8人のうち、半分の4人(姉、弟2人、妹1人)が毒ガスにやられて亡くなった。家も財産もすべて焼かれた。次の日も惨禍は続いた。わが家だけでない。東隣の李三宝さん一家は全滅だった。西隣は家族6人のうち5人が殺された。家も焼かれた。南隣は別の李さん。家族3人で、息子が毒ガスで殺されてお年寄りだけになった。北隣は5人のうち3人が亡くなった。村全体の状況は、思い出したくない。とても悲惨だった。毒ガスを入れられて地下道から出てきた人たちも、殺されたり、地下道に再び戻されて八路軍の武器を回収するよう命じられた。27日の午後から28日の午前中にかけて、日本軍は至る所で殺りくを繰り返した。大きな井戸は現在の霊園だけでなく何カ所もある。井戸の周りでは、たくさんの死者が出た。毒ガス中毒になってのどが渇き、水のある井戸に集まったところで殺されたのだ。殺されなかった人も、渇きに苦しんだ。

 李洛敏さんの家。100人以上の比較的中毒の軽い人が集められた。しかし、一晩で11人が渇きの中で死んでいった。生き残った人も、機関銃で殺されたり、度胸試しとして銃殺されるなど、いろいろな方法で命を奪われた。李さんの家で生き残ったのは1人。彼は機関銃で掃射されたとき、自ら倒れて地面に伏した。その上には射殺された遺体が折り重なった。しかし、生き残った彼も具合が悪くなった。頭ははっきりしていたので、動かないでじっとしていた。日本軍が消えた後、死体の中から這い出したという。

 朱根徳さんの家にもたくさんの村人が集められた。日本兵は、同じように水を飲ませなかった。翌日、日本兵は村人に八路軍の服を着させようとした。着たいか、着たくないかで別々の列に並ばせた。「着たくない」と言った人たちはすべて殺された。殺されるとき、ある青年は「日本帝国主義者打倒、日本侵略者打倒」というスローガンを大声で叫んだ。別の列に並んだ人たちは、農民にもかかわらず、八路軍の捕虜として連行された。定州市の駐屯地まで連れて行かれたが、途中で歩けなくなると、その場で殺された。

 この辺りは毒ガス事件の前は空き地だった。空き地を綿花園と呼んでいた。南側にある池は以前、李さんの家の墓地だった。井戸もあった。日本軍は井戸の上で焚火をした。この辺りは、27、28の両日、中国人民を虐殺する場になった。樹木に鉄線で縛りつけたり、軍用犬にかみ殺させたりした。度胸試しで殺された人もいた。ある人はゆっくりと刺し殺された。わが家の本家の1人は、21歳の若者だった。彼は度胸試しで殺された。死ぬ直前まで憤りを隠さず、「早く殺せ。お前は人間ではない」と言い返した。殺された人たちは、最期のときに「日本侵略者出て行け。中国人民万歳」と叫んだ。火を燃やしていた井戸の周囲で殺されるケースが多かった。井戸は人々の死体で埋まった。5月の末はもう暑い。2日間で殺された人の死体があちらこちらに横たわり、村は死臭に包まれた。現在の霊園に残る井戸にもたくさんの遺体があり、そのまま埋められた。そのときから「血の井戸」と呼ばれるようになった。戦後の1946年春、井戸から遺骨を掘り出した。人々の遺体は欠損した部分が目立った。本当に悲痛だった。

 毒ガス事件で殺された人々を追悼するために、1946年に綿花園東側に霊園と記念堂をつくった。清明節には、全国から人々が集まって慰霊祭を営む。日本の侵略軍は人間ではない。獣だ。本当に信じられないことをした。ここで虐殺した兵士と村人は、遺体を確認できた人で1000人を超えていた。地下道の中や井戸に埋められた人もいる。また、強制連行された人もいて、行方不明の人は数知れない。全体でどれくらいの人が殺されたのか分からない。日本軍は28日午後に撤退したが、村の中は泣き声に包まれ、大混乱だった。その後の1週間。親は子どもを捜し、子どもは親を捜し続ける悲惨な状況だった。

 侵略者たちが村で行った蛮行は、人間性のかけらもないことだった。時は経っても、昨日のことのように思い出す。被害者は今でも精神的にも肉体的にも苦しんでいる。死者もよく眠ることはできないだろう。

 民族の感情の傷は癒えていない。昔のことではない。日本侵略軍が中国に対して行った侵略の犯罪、尊い命と財産の損失はいくら補償してもしきれない。侵略は鉄のような事実だ。侵略軍は国、村の人々に大きな災難をもたらした。ただ、日本の民衆も同じような災難を受けたのだと思う。日本の人々も、家に父や母、妻、子どもがいる。だまされて戦場に送られ、多くが戦死した。その家族は悲しみにくれたはずだ。政府関係者や権力者は、自分の子どもは戦場に送らない。民衆だけが戦場に送られる。日本国民は過去の事実を正しく理解し、尊重しなければならない。そうして初めて、同じ過ちを繰り返すことを防げる。再び侵略行為を起こすことはない。

 しかし、日本では右翼の勢力があると聞いている。彼らは、犯した罪を認めようとしないで、日本国民をあざむこうとしている。歴史と教科書も改ざんしたと聞いた。当時、海外に侵略した罪深い人々を、英霊として宣伝している。歴史を改ざんすることはできない。きっと、日本の軍国主義的な精神は、簡単に消え去ることはないだろう。ただ、みなさんは、歴史の事実を知るために遠い日本から来てくれたのだと思う。私から聞いた話を、ぜひ日本の人々に伝えてください。平和を擁護し、世界中の人々と仲良くしなければならない。世界平和のために、日本の人々を含めて力を合わせたい。手を取り合い、日本軍国主義の魂が復活しないよう努めなければならない。アジアと、世界中の国々のために一緒にやり抜こう。

 李慶祥さんの証言の後、北坦村の劉建剛村長たち村の役員も一緒に交流を行った。その場で大久野島で毒ガスを製造した藤本安馬さんから、証言者、李慶祥さんと村人に対して謝罪をこめた話があり、その後、毒ガス島歴史研究所事務局長(山内正之)が謝罪と決意の言葉を述べた。

(藤本安馬さんの話)
 証言者から、たくさんの課題を与えていただいた。私は、1941年から3年半にわたって、竹原市の大久野島で毒ガスを造った。なぜ、恐ろしい毒ガスを造ったのか。60年前のことだが、昔話ではない。事実は生き続けていると受け止めている。これからもどうしても、語り継がなければならない。過去の事実をしっかりと語り続けなければならない。過去の問題を忘れ去ってしまっては、これからの課題は生まれてこないからだ。なぜ毒ガスを造ったのか。支配権力、当時の為政者が実行した。大日本帝国憲法に基づき、天皇を中心とした帝国主義、軍国主義によって侵略戦争が画策された。その中で、毒ガスを造る計画をした。それだけではない。武器である毒ガスを扱う人間を、どのようにすれば造ることができるのか、可能になるのかも考えられ、実行された。

 1933年、私は小学校一年生だった。その時代の教育は、どちらを向いているか分からない。徹底して天皇制、軍国主義を教育現場に持ち込んだ。強制的に「ススメ、ススメ、兵隊ススメ」「日の丸、君が代万歳」。こういう教育を徹底した。

 証言者の李慶祥さんは「日本国民はだまされている。戦場の軍人はだまされてきて戦死をしたのではないか」とおっしゃった。権力は鬼。その鬼が子どもを育てれば子どもは鬼になる。その鬼が中国に兵隊として赴き、中国の人々を虐殺、毒殺、強姦、略奪した。兵隊も権力によって鬼にされた。ほとんどの日本人は戦後、戦争を経験した事実、三光戦を実行した事実、毒ガス作戦を実行した事実を語ろうとしない。私を含めて年配の人間は、過去の事実を語ろうとしていない。なぜか、「過去の為政者によってやらされただけの問題だ。私には責任はない」というのが今日の状況ではないか。つまり、大半の人は被害者意識にとどまっている。だが、加害者意識に立たない限り、権力によっていったん鬼にされた人間が、再び人間に立ち返るのは難しい。中国に来て、殺人、放火、強盗をした人間たち。加害者意識をもたない限り、まだ権力の側に立っていると言えるのではないか。それでは、権力に対する追及はできない。

 長い教育の中で、鬼にされた人間が、「侵略するのは当たり前だ」「中国人を殺すのは当たり前だ」という人間になっていた事実がある。それを徹底的に追及しなければ、己を徹底的に追及しなければ、これからの中国の皆さんと友好関係を築くのは難しい。自らを厳しく追及しなければ、中国と日本の真の平和は到来しないと思う。

 今、日本の小学校では、鬼をつくる教育が再び始まっている。権力が教育に介入している。教育基本法を改悪し、人間を鬼にする教育をしようとしている。既に日本は、戦争が出来る状況を準備している。みなさんには、今回訪問させていただいた12人の心強い仲間がいることを知っていただきたい。日本の平和のみならず、全世界の平和のために、力を合わせてこれからも頑張り抜くことを誓う。

(山内正之毒ガス島歴史研究所事務局長より謝罪の言葉)
 あらためて日本のやった侵略戦争や毒ガス戦による罪状について深く謝罪致します。

 今、聞かせていただいた李慶祥さんの話は、帰国後、報告会を開き、われわれの仲間や広く日本人に伝えたい。これからも、日本の国民が正しい歴史認識を持てるよう活動していきたい。

(劉建剛村長さんの話)
 藤本さんの話に感動している。みなさんは日本のとても難しい状況の中で、平和、戦争反対のために活動されていることに敬服し、感謝している。共通の事業、過去の事実を両国の青年に伝え、それを戒めとして今後、仲良くしなければならない。戦争を徹底的に消滅させる。それが共通の希望だと思う。日本政府はときどき、問題のあることをする。周恩来総理は、「前のことを忘れず、後の戒めとする。」と言った。その言葉に従って頑張りましょう。