敗戦時の毒ガス(国内)

敗戦時、毒ガス弾はどこにあったのか

敗戦時、毒ガス弾はどこにあったのでしょうか。また、どこに棄てられたのでしょうか。残念ながら、次の資料から、少しばかり、うかがい知ることができるだけで、全貌は未だに明らかになっていません。

環境省HP
昭和48年の「旧軍毒ガス弾等の全国調査」フォローアップ調査報告書    平成15年11月28日 (平成16年3月31日更新版)
環境省のHPから入るか、上の文字を範囲指定して検索するかでいきます。
戦争中、敗戦時、毒ガスがどこにあったか分かる環境省のHPです。


A 大陸指1822号 「化学戦準備要綱」 1944-1-29 について
「アメリカ軍の反攻が進み、日本全土に次第にアメリカ軍が近づいてきますと、アメリカでは日本攻略を楽に行うためにに、毒ガスを使えという議論が高まってきます。そのことを察知して、日本陸軍は44年1月29日に大陸指1822号「化学戦準備要綱」を発令します。これは日本軍が対中国のような先制使用はしないけれども、アメリカが使った場合には、報復するということです。そのアメリカが毒ガスを使った場合の報復は、航空機による毒ガス戦ということを想定しています。米軍も航空機によって使う。「きい」「あか」「ちゃ」の使用を想定していて、弾薬の集積地点として、上海・マニラ・シンガポール・トラック島、国内では、札幌(小樽)、宇品(忠海)と決めていました。これらの毒ガス弾薬が、戦後実際に廃棄されたことが明らかになっているのは、宇品(忠海)だけです。上海・マニラ・シンガポール・トラック島、札幌(小樽)の毒ガス弾はどこに棄てられたのか、未だに明らかになっていません。遺棄毒ガス弾問題は中国だけでなくて、他のアジア、太平洋地域にさらに広がる可能性があります。」
(日本軍の毒ガス使用 吉見義明 公開シンポジウム「大久野島から」報告集より)


B 吉見義明 「季刊 戦争責任研究 第6号 日本軍はどのくらい毒ガスを生産したか」
アメリカ太平洋陸軍参謀第二部「標的番号八五 東京第二陸軍造兵廠忠海製造所」(WDI文書 日付なし)、アメリカ太平洋陸軍参謀第二部「標的番号CW五〇三一 東京第二陸軍造兵廠曽根製造所(化学剤充填工場)」(WDI文書 日付なし)、アメリカ極東陸軍総司令部主任化学将校室「日本軍の化学戦に関する状況報告 第三巻 日本軍による化学戦資材の生産」(1946.3.1)、同「日本軍の化学戦に関する状況報告 第四巻 日本軍の化学戦資材供給システムと貯蔵設備」(1946.5.15) アメリカ国立公文書館所蔵
この資料をもとに、毒ガス生産量を、吉見義明 「季刊 戦争責任研究 第6号 日本軍はどのくらい毒ガスを生産したか」で推定している。
毒歴研会報 2号 「吉見義明(中央大学教授) 講演 中国遺棄毒ガス弾調査について」によると
「まず生産の問題からみると、現在まで明らかになっている資料によりますと、大久野島で生産された毒ガスの総量は6,616トンです。このうち、敗戦時に大久野島周辺に残っておりましたのが3,647トンですので、だいたい3,000トンづらいが配備されてということになります。この配備というのは、中国だけではなくて、日本の国内、それからアジア・太平洋の各地域も含めてということです。それから、砲弾に填実された量ですけれども、判っている限りでは、福岡県の曾根のありました「曾根兵器製造所」で161万発を填実しております。大久野島でだいたい43万発ですので、海軍を別にすれば合計204万発ぐらいになります。敗戦時に大久野島・曾根周辺に残っておりましたのが9万発程度ですので、だいたい190万発ぐらいが配備されたと思われます。砲弾ではなくて、筒(注3)につめて放射する場合があるわけですが、放射筒は564万本ぐらいということになります。
 中国側が言っております200万発というのは、放射筒を含めての数字ですとそれくらいの数になる可能性はありますが、放射筒を含まないとすれば、現在判っている資料からするとかなり多いという感じがいたします。
 ただ、海外に生産・填実の拠点があったかどうかということによってもまた変わってくると思います。特に、中国の東北地区に関東軍の造兵廠(火工廠)というのがありますが、そこで生産・填実していたのかどうなのかという点はまだよく判っておりません。陸軍の記録によりますと、1940年に関東軍の「遼陽製造所」でイペリットの生産施設(注4)を造るという予算案が作成された、という資料があります。それが実行に移されたのかどうかによっても、また変わってくるという気がいたします。
 次に海軍ですけれども、海軍は「相模工廠」というところで生産しております。判っている限りでは、総量は760トンということでありまして、陸軍と比べて9分の1くらいです。敗戦時に周辺に残っておりましたのが268トンですので、配備等が492トンということになります。こらは日本国内での配備を含めての数字です。砲弾については7万発くらい生産しております。これが判っている限りの生産と備蓄です。」

C 毒ガス兵器廃棄報告書「DISPOSAL REPORT CHEMICAL MUNITIONS OPERATION    LEWISITE BCOF OCCUPATION ZONE JAPAN 8 MAY 1946 to 30 NOV.1946」
大久野島の毒ガス弾などの廃棄は、「毒ガス兵器廃棄報告書」で明らかにされていますが、廃棄終了後に続いた事故、毒ガス弾などの発見を考えると、未知の部分も残っています。
この点については、「伝言」 の中に証言があります。
  敗戦の日から、9月11日までの間にあったこと (大久野島1927年~1947年)  謎の海洋投棄 (医務室周辺) 埋設処理(技能者養成所・事務所周辺)

D 「旧軍毒ガス弾等の全国調査の結果について」
  大久野島毒ガス問題関係各省庁連絡会議 1973-3-22  
1972年、大久野島の北部海水浴場建設工事中に毒ガス容器(腐食)二個発見されたのと同じ時期に、「別府湾に約4000発、宇部沖に約5万発の毒ガスが終戦直後、投棄処分されたこと関係住民が証言し、波紋が広がる。参議院決算委員会で公明党の中尾辰義氏が安全性を追求し、当時の佐藤首相が『必要なら旧陸海軍基地で毒ガスのあったところを総点検する』と毒ガスに関して初めて答弁し政府見解を述べた。環境庁、防衛庁など7省庁で『大久野島毒ガス問題関係各省庁連絡会議』を設置し、全国調査に乗り出した。」(中国新聞 毒ガス島1975.12.30より引用)

          旧軍毒ガス弾等の全国調査の結果について
                  大久野島毒ガス問題関係各省庁連絡会議 48-3-22
1.調査方法
本調査は、佐藤総理の指示に基づき、関係各省庁及び各都道府県の協力を得て実施し、本連絡会議においてとりまとめたものである。
本調査は、次の項目について残存資料の点検、関係省等からの事情聴取の方法により実施したものである。
(1)終戦時における旧軍毒ガス弾等の保有及び廃棄状況
(2)戦後における旧軍毒ガス弾等の発見、被災及び掃海処理の状況

2.調査結果

(1)終戦時における旧軍毒ガス弾等の保有及び廃棄状況

毒ガス弾等の保有及び廃棄の状況については、高度の機密事項に属していたため、終戦時はその殆どが処分されてしまっており、また当時の軍機密に関与し得た責任のある地位の人々の多くが故人となっている等のため、十分な資料を得るに至らなかったが、得られた報告によれば、終戦時に毒ガス弾等が保有されていたとされる地点は全国で18箇所である。これらの地点に保有されていた毒ガス弾等の廃棄状況についても同様 定的な資料を得るに至らなかったが、焼却破壊又は海中投棄の方法により処理されたものとみられる。海中投棄された箇所としては、全国8箇所が報告されている。

(2)戦後における旧軍毒ガス弾等の発見、被災及び掃海処理の状況

戦後において旧軍毒ガス弾が発見され、又は被災事故が発生した地域は、14都道府県において報告されており、被災者が生じた事例は20件、被災者数は約130人と報告されている。このうちには、目のいたみなど軽微な一過性の傷害も含まれており、その  はまちまちである。このうち昭和40年以降においても人身事故の発生が報告されている地域としては、青森県陸奥湾、千葉県銚子沖、広島県大久野島周辺海域の3海域があり、40年以前の事例発生地点の殆ども(1)の海中投棄箇所と関連していることが報告されている。掃海処理の状況については、(1)で報告された海中投棄箇所8カ所中3カ所は掃海が行われ、2カ所は掃海はなされていないが、毒ガス弾の有無の実地探査が実施され、1カ所は掃海実施後さらに実地探査が実施されている旨報告されている。残り3カ所は深度が深く、安全上問題が認められない箇所であり、投棄箇所中安全上なんらの措置も講ぜられていない箇所はなかった。
※海中投棄された箇所は、相模沖、土佐沖、遠州灘(深度が深い三カ所)、残る五カ所は、別府湾、陸奥湾、銚子沖、周防灘、さらに大久野島の周辺海域。

2002年末、「旧軍毒ガス弾等の全県調査報告(案)」が公表され、はじめてこの調査の全貌が明らかにされました。この調査報告(案)では、終戦時における旧軍毒ガス弾等の保有状況、終戦時における旧軍毒ガス弾等の廃棄状況、戦後における旧軍毒ガス弾等の発見、被災及び掃海等処理の状況が、都道府県別にまとめられています。なお、敗戦時に、毒ガス弾などが保管されていた場所18カ所は、以下の通りです。
                             終戦時に、毒ガス弾などが保有されていた地点
海軍航空廠千歳工場
北海道千歳
大湊警備府管下
青森県大湊
陸軍技術研究所米沢分室
山形県米沢市
陸軍習志野学校
千葉県習志野市
陸軍技術研究所
東京都新宿区
海軍航空廠瀬谷工場
神奈川県横浜市
相模海軍工廠
神奈川県寒川
相模海軍工廠化学実験部
神奈川県平塚市
陸軍技術研究所吉積出張所
神奈川県吉積
陸軍技術研究所三方原出張所
静岡県引佐郡
三方原陸軍教導飛行団
静岡県引佐郡
陸軍技術研究所高岡出張所
富山県高岡市
陸軍造兵廠忠海製造所
広島県竹原市
海軍航空廠切串工場
広島県江田島
陸軍兵器補給廠大嶺常駐班
山口県大嶺
陸軍造兵廠曽根製造所
福岡県北九州市
海軍航空廠大分工場
大分県大分市
海軍航空廠博多工場
福岡県志賀島

遺棄毒ガス弾の発見・廃棄(1973年~1995年)
1973年の第1次全国調査で「危険予測材料なし」と報告されたにもかかわらず、事故は起こり続けます。

1975年 富津沖

1976年 銚子沖 

 「イペリット缶処理作業中の海上保安官」の写真(銚子海上保安部 保安部の紹介)
1995年2月5日 広島県広島市南区出島
広島県が出島の埋め立て地(現在出島東公園)にドラム缶に入れて埋設処理したジフェニルアルシン酸が漏れ、土壌汚染環境基準の三百五十倍のヒ素化合物を検出。1997年11月19日、原料の撤去と汚染土の処理終了。

化学兵器禁止条約での扱い
1997年4月29日に化学兵器禁止条約(Chemical Weapons Convention: CWC)が発効し、同年5月に化学兵器禁止機関(OPCW)が設立されました。この条約にもとづいて、旧日本軍が中国大陸に大量に放置した毒ガス弾などを、2007年4月までに廃棄を完了するための取り組みがすすめられています。(例えば、埋めてある毒ガス弾は掘り出して、廃棄する)ところが、敗戦当時、日本国内で遺棄された毒ガス弾の扱いは、国の判断にまかされています。
国内にある化学兵器について、古いものは、条約では「老朽化した化学兵器」という定義が用いられています。

第2条5 「老朽化した化学兵器」とは次のものをいう。 
(a) 1925年より前に生産された化学兵器
(b) 1925年から1946年までの間に生産された化学兵器であって、化学兵器として使用できなくなるまで劣化したもの。
そして、条約第3条(申告)-2、第4条(化学兵器)-17には、「1977年以前に国内に埋められ、引き続き埋められているもの、1985年以前に海洋投棄されたものについては、当該締約国の裁量により、適用しないことができる」と記されています。従って、国内にある「老朽化した化学兵器」については、申告、廃棄が義務づけられず、その国の判断にまかされています。

そのため、国内の老朽化した化学兵器の処理は放置され続けてきました(海洋投棄されたもの、埋設処理されたものなど、工事などで掘り出された毒ガス弾は別として、埋めてある場所がわかっていても放置し続ける)。現在までに、1995年地元住民の証言にもとづいて、屈斜路湖で発見された26個の遺棄弾と1999年ヒ素による汚染土壌の島外撤去工事中に防空壕から発見された9個の赤筒は、苅田町(毒ガス弾57発)寒川町(ビール瓶10本、うち8本がマスタードを、1本がルイサイトを、残り1本がマスタードを含む)が条約の適用を受けています。

遺棄毒ガス弾の発見・廃棄(1995年~)
化学兵器禁止条約の批准により、発見された毒ガス弾等は、完全廃棄(再度、埋設や海洋投棄をせず、焼却や化学処理などで無害化すること)を義務づけられています。
1995年9月 北海道屈斜路湖
屈斜路湖に遺棄された毒ガス弾(毒ガス島歴史研究所ホームページ)
1996年7月11日 広島県竹原市大久野島 
大久野島土壌から、最大環境基準の400倍の砒素を検出。(1999年12月に土壌汚染等対策事業終了)

大久野島土壌等汚染処理対策(中間報告)について(環境省報道発表 1997.12.20)
1997年6月6日  広島県竹原市大久野島  海岸で発射あか筒、発煙筒など計35個見つかる

1998年9月29日 沖縄県糸満市 新垣陸軍病院壕跡で、青酸入り手投げ弾一個見つかる

1999年3月27日 広島県竹原市 大久野島  大あか筒9缶見つかる
大久野島の大赤筒(9個)(毒ガス島歴史研究所ホームページ)
大久野島の大赤筒(9本)の無害化処理について(環境省報道発表 2000.12.1)
大久野島から発見された大赤筒について(添付資料)

1999年10月30日 広島県竹原市 大久野島 毒ガス弾の残がい発見 毒歴研

2000年11月 福岡県苅田町 
苅田港の新ふ頭(現在埋め立て造成中)付近で、計56発(ほかに港外で1発)の毒ガス弾が見つかる。18発のうち12発は旧陸軍の50キロ爆弾(黄弾、青白弾、茶弾)、6発は15キロ爆弾(赤弾)。別の地点の38発の調査は先送り。新門司港沖に1発
遺棄化学兵器問題(小沢和秋衆議院議員ホームページ)

2002年9月25日 神奈川県寒川町
寒川町の「さがみ縦貫道一之宮高架橋下部工事」現場において地盤掘削中に、古いビール瓶数本が割れた状態で発見され、作業員が発疹やかぶれなどの症状を引き起こす。分析の結果、マスタード、ルイサイトとクロロアセトフェノンを検出。
「旧相模海軍工廠において発見された危険物」について(寒川町)
さがみ縦貫道路危険物への対応(国土交通省関東地区整備局横浜国道事務所)
さがみ縦貫道路工事現場で発見された危険物について (神奈川県防災局)
神奈川県内で発見された不審物の申告について (外務省報道発表 2002.12.12)

2003年3月20日 茨城県神栖町 
井戸水から水質基準の450倍という高濃度のヒ素が検出される。後日、有機ヒ素化合物のジフェニルアルシン酸(旧日本軍が製造した,嘔吐剤(くしゃみ剤)の分解生成物)の存在を確認。
神栖町木崎地区の飲用井戸ヒ素汚染について(茨城県)
有機ヒ素化合物による地下水汚染について(神栖市)

2003年4月3日 神奈川県平塚市 
 平塚第2地方合同庁舎建設工事現場において、山留杭工事の掘削中に刺激臭が発生し、作業員3名が頭痛などの異常を訴える。ボーリング作業中、球状のガラス瓶を発見。
平塚第2地方合同庁舎危険物に関する経緯(平塚市)

参考文献
・『週刊金曜日』2003年1月10日号 市川友貴 「毒ガスは陸と海で深刻な被害を引き起こしていた旧日本軍の化学兵器のゆくえを追う」
・世界 2003年8月号 国内の日本軍毒ガス兵器問題を考える  松野誠也(明治大学大学院)