おわりに

 今年の春、やっとこの冊子が完成に近づいた頃、村上初一さんに、「まえがき」を書いていただきました。その原稿を一緒に推敲したとき、「『この来た道は、いつか来た道』と思うから、養成講座をしたんですよ」という言葉を聞いたとき、静かな営みですが、今の時代を見据えながら、次の世代へ伝えたいという強い意志を感じました。この言葉に象徴的に表されているように、「伝言」で語られているのは、単なる戦争体験記ではありません。今を考えるために、語られている「伝言」です。
 また、村上さんが人生の中で、大久野島との密接なかかわりがあったため、「伝言」では、過去のそれぞれの時点での大久野島が語られています。東京第二陸軍工廠忠海製造所時代の証言。忠海町商工課職員時代の証言。これは、国民休暇村として、生まれ変わろうとしていた時期の様子で、「火力発電場」「南部砲台跡」などで、語られています。また、「海水浴場建設中に見つかった黄剤容器」は、竹原市公害係としての経験です。その後、毒ガス資料館館長として、正面から毒ガス問題にかかわることになります。「毒ガス資料館建設のいきさつ」を読んでみると、手づくりの資料館であったことがわかります。そして、「毒ガス島歴史研究所」の代表から顧問へ。今なお国内外で続く遺棄化学兵器による問題に発言しつづけながら、そして戦争の被害・加害を問い続けながら、現在も一証言者として、語り続けています。
 2000年11月、RCCの特別番組「眠る島―二〇世紀の戦争廃棄物・毒ガス」の中で、次の世代に託す気持ちが語られています。
 「これだけのことを、わしはやってきたけれど、どうしてもこれは残ったから、若いもの、やってくれというなら、わかる。自分らは何もせんで、次の世代に何を望むかといわれても、わしは何も言えんのですよ。まず、自分たちが精一杯、あと二ヶ月あまりの二〇世紀の中で償いを、このようにしたいと訴えて、二一世紀に若い者が、それをどのように使っていくのかを待つしか、他ないと今思う」
 この気持ちは今も変わらないといいます。このように、その時々で、大久野島にかかわって自分がしてきたことを振り返り、その時点で、できることをする、そして未来につなげる営みを村上さんは地道に続けてきたように思います。
 さて、この「伝言」を「伝言」として、私たちは、伝えられるのでしょうか。私たちは証言を聞き、そして、次の世代に伝えられる位置に今います。しかし、いざ、語り継ごうと思いたっても、自分の直接の経験でないので、説明は迫力に欠けます。いくら、忠実に証言を再現するテープレコーダーとなったとしても、「伝言」となりそうにありません。いざ行動しようと思ったとき、誰もが経験する、この迷いの解決方法は、村上さんが辿ってきた道にあると思います。
 証言を直接聞いたことは、一つのきっかけでしょう。そのきっかけを、どのように温めるのか、人それぞれだと思います。私にとっては、2000年4月から、6回にわたる養成講座。ホームページへの掲載、そして、この冊子の編集作業の中で一つひとつの言葉を反芻し続けました。何度となく、大久野島を訪れ、養成講座の中で語られた地点を、地図や古い写真をたよりに確かめ、写真やメモに残しました。また、新たな疑問が浮かぶと村上さんに尋ねる作業を繰り返しました。その時は快く、自宅にある資料を引っ張り出しながら、説明してくれました。自分の意志で動くごとに、新しい大久野島が見えてきたのも事実です。そして、今なお続く遺棄化学兵器による被害を問い続けてきたこと、その営みのなかで、考えたこと、思ったことに「伝言」の種子がばらまかれていると思っています。今後も今の時代に向き合いつつ、世代間のやりとりを、その時々でし続けることこそ必要なことだと思います。
 最後になりましたが、この冊子を作成するにあたって、多くの人にお世話になりました。この場をかりてお礼を申し上げます。「伝言」が大久野島に一度訪れたいと思うきっかけとなれば、幸いです。その時は毒ガス島歴史研究所が、ご案内しますので、連絡してください。一緒に、忠海製造所のことを語り、今を語りましょう。
     2004年6月