再び戦争をくりかえさないために・岡田藜子

 私は、広島県三原市幸崎町に育ち、忠海高等女学校3年生(現中3)の夏、敗戦を迎えた。 以下に、戦時中に育った私の体験を語り、現状に対する思いを述べる。「この道はいつかきた道」といわれる今日、私の学童期の状況が、国民を戦争へといかに巧妙に操っていったかということをふり返って、現状と照らし合わせたいと思う。

内容項目
1 戦争と国民
2 教育が戦争にどう関わったか    
  A 学校生活
  (1)国家主義教育
  (2)小学校時代の生活(1年生~6年生)
  (3)小学校での一日(登校~下校)
  (4)戦争中の各教科(小学校、女学校)
  (5)学校行事(小学校、女学校)
  (6)女学校での戦時中の教育実態(S18年4月~19年10月まで)
  B 地域や家での状態及び私自身の状態
   (1)家での状態
   (2)私の状態
3 大久野島への学徒動員(説明後、スライド・・・会報 3号に掲載)
4 現状に対する私の思い
  A 民主主義から国家主義へ
  (1)教育
  (2)自衛隊
   (3)司法の没主体性
  B 2000年の私の訴え

※当時の言葉を文章に沿って順番に列記する。
非国民、治安維持法・勅語(ちょくご)(天皇の国民に対するみことのり)・国体(天皇主権国家)忠君愛国・聖戦・八紘一宇(はっこういちう)・奉安殿(ほうあんでん)・御真影(ごしんえい)・東方遥拝(とうほうようはい)・大和魂(やまとだましい)・閲兵分列(えっぺいぶんれつ)
天皇への敬称語・・・現人神(あらひとがみ)・大君(おおきみ)・天皇(すめらぎ)・皇尊(すめらみこと)・大御世(おおみよ)・大御心(おおみこころ)・大御言(おおみこと)神勅(しんちょく)・・肇国(ちょうこく)の由来(天皇統治権の基礎)とされた天壌無窮(永久)の神の勅(みことのり)
公民・四大節(新年・紀元節・天長節・明治節)・軍神・赤紙(召集令状)・海蛍 慰問袋・千人針(武運長久)・筍生活・大日本国防婦人会・銃後・隣組・敵愾心(てきがいしん)
四文字熟語…滅私奉公・盡忠報国・神国日本・君国日本・国体護持・大政翼賛・大東亜共栄圏 聖戦完遂・神国不滅・神風特攻・本土決戦・一億玉砕

1 戦争と国民
 戦争の時には、国民は、だいたい三つの方向に分かれている。
1.ひとつは、戦争遂行者で、戦争には、民族・宗教・国土などの問題によるものもあるが、ほとんどの場合が、経済をその動因としている。現在のアメリカでは、覇権主義が戦争の大きな誘因となっており、国連憲章が定めているところの「各国の内政には干渉しない、国際的な武力の行使は国連の決定による」という世界平和の秩序を無視して、「人道」の名のもと、NATO(北大西洋条約機構)や日米安保ガイドライン戦争法による軍事同盟などによって、覇権主義、干渉主義の武力攻撃を行っている。これら戦争遂行者の戦争心理は、相手国への被害が大きければ大きいほど、業績大ととらえるようである。
2.一方、平和主義者や、人道主義者たちは、いかなる場合も、平和原則を絶対とする側に立ち続ける。個人の良心に忠実に生きることを、人生の最も大切なことと考える人々の存在がある。
3.残る多くの国民は、戦争へと巧妙に誘導されていくという歴史事実がある。この多くの国民の状態について、私の視点で15年戦争の国情をふり返ってみる。
 国民を戦争に向けて誘導する方法には、マインド・コントロール、弾圧、情報操作による目隠し、そして、武力を憎む人間の心理を巧みに利用して、武力を使わない大量殺戮としての経済制裁などがあげられるが、いずれにしても国民は操られ易いものである。 
 太平洋戦争の時には、天皇制軍国主義国家の中で、1億人という国民が弾圧とマインド・コントロールによって、有無をいわされず、戦争へと誘導されていった。当時、病人など参戦できない人を非国民呼ばわりしたが、その異常な国情に批判的な人も、治安維持法による弾圧のため、声を挙げることは出来なかった。

2 教育が戦争にどう関わったか  
~私の学童期を振り返ってみる~
 国民教育は、大日本帝国憲法(明治22年、1889年)、教育勅語(明治23年、1890年)、そして、君が代(明治26年、1893年)の三つによって、国体(天皇主権国家)の尊厳と忠君愛国の精神を鼓吹した。 
A 学校生活
(1)当時は国家主義教育であった。
 人間性や個人を否定してしまい、自由を封じて統一し、命令に無批判な人づくりをして、私たち学童を戦争をするための消耗品として育成した。 
 学校では、教育勅語が基本に据えられ、八紘一宇といって、日本は一軒の家であるとされ、その統治権者である天皇への忠節と従属、思想統一という愚民化教育が学校教育全体の中で徹底して行われた。その内容は、具体的には
・天皇は実際に神であると信じ込ませ従わせること。
・戦争は神である天皇のする聖戦であると、戦争を美化し、正当化すること。 
・戦死することは、日本国民として最も名誉なことであると、戦死することを美化し、戦死することを強要すること、などが思い浮かぶ。
 私は小学校3年生のとき、「人間はみんな死ぬる、同じ死ぬなら戦死がよいなー」と思っていた。小学校に入学して間もない頃、爆弾三勇士というのを習ったが、三人の兵士が爆弾を抱えて肉弾となって敵陣へ突入したというもので、軍の神様であると教えられていた。私も、いつのまにか潜在意識の中にすり込まれていた。

(2)小学校時代の生活(1年生から順を追って辿(たど)る)
昭和11年、尋常高等小学校に入学、その頃各家庭には必ず、天皇と皇后の写真が飾ってあった。
昭和12年、支那事変が起こり、出征兵士(赤襷(たすき)か日の丸の旗に、祝・氏名・寄せ書きなどが書かれたものを肩にかけていた)を全校生徒が日の丸の小旗を持って駅まで見送りに行った。出征兵士の歌・・・♪勝ってくるぞと勇ましく、誓って国を出たからにゃ、手柄立てずに死なれよか、進軍ラッパ聞く度に、瞼(まぶた)に浮かぶ旗の波・・・東洋平和の為ならば、なんで命が惜しかろにゃ・・・♪
昭和13年度は、病気のため休学した。
昭和15年、1940年2月11日は紀元2600年の祝賀式典が盛大に行われた。
その時の歌♪天地輝く日本の栄えある光、身に受けて、今こそ祝え、この朝、紀元は2600年、ああ1億の血は燃ゆる♪紀元節の歌♪雲にそびゆる高千穂の高嶺颪(おろし)に草も木も靡(なび)き伏しけん大御世を仰ぐ今日こそ楽しけれ♪
★この頃から戦死者の英霊を全校生徒で喪章をつけて駅へ迎えに行った。遺影と白木の箱の帰還だった。その数は徐々に増えていった。葬儀は町を挙げて町葬として行われた。小学校の運動場で、英霊は天幕の下に安置され、全校生徒が参列し、僧侶がずらっと並んで読経し、町の名士が長々と弔辞を述べた。冬は寒く、夏は炎天下で倒れる生徒が続出した。 
昭和16年、小学校5年生になると、学校は一変した。尋常高等小学校は国民学校と改称され、教科書も一変した。青少年団マークをつけさせられ、次期戦闘員としての自覚を強められた。

マークは荒鷲(わし)を上下に二羽絵で表してあり上は青年団、下は少年団。荒鷲とは、戦闘機に乗って勇猛に闘う兵士のたとえである。

★この年12月8日、太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ)した。登校前にラジオで「米英と戦闘状態に入れり」というのをきいた。両親は唖然(あぜん)とし「えらいことになった、日本はどうしてアメリカと戦争するんじゃろうか。負けるにきまっとるのに」と不安がっていた。両親としてはアメリカはとても日本が太刀打ちできる国ではないと判断していた。私はその時から「負ける戦争をするんじゃなー」と思い、敗戦の日までそう思っていた。
★人手不足が生じた。屈強の男性は次々と兵隊に取られ、戦死者も増えていった。農家は徐々に人手不足となり、小学校では農繁期には午後の授業を止めて、麦刈り、稲の虫取り、除虫菊の処理などをしに行った。この頃から盛んに「産めよ増やせよ」と叫ばれ、国は戦力増強を目指して子どもを10人以上産み育てた女性を表彰した。

★防火訓練があり、空襲に備えて水をバケツリレーした。

(3)小学校での1日(朝から順を追ってみる)
★学校に行くと校門を入った所に奉安殿(ほうあんでん)という小さな立派な建物が建ててあり、その中には、御真影(ごしんえい)と言って天皇の写真と、教育勅語(きょういくちょくご)が入れてあるのだが、その建物に登下校の際、敬礼をしなければならなかった。
★朝会では、毎朝、皇居に向かって、東方遥拝(とうほうようはい)があり、その時、大和魂や日本の繁栄を讃(たた)えるという意味の詩が生徒によって朗詠された。
  ・み民われ 生けるしるしあり 天地の栄ゆるときに あえらく思えば
  ・身はたとい 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂
 また、訓示の中で「天皇陛下」という言葉が出ると「キオツケ」の姿勢を各自でとるようにいわれていてボヤ―としていると教師に手の甲を平手打ちされた。
★朝会がすんで、教室に入ると、授業開始前に、黒板の上にかけてある教育勅語を全員で声をそろえて朗読した。
★昭和16年からは昼食前に雨の降らない限り閲兵分列(えっぺいぶんれつ)行進があった。
 夏冬とおして木綿の運動シャツ1枚で裸足(はだし)になり、運動場を四列縦隊で行進し、朝礼台に立つ教師に対して「歩調とれ、頭右(カシラーミギ)」をするというもので、高等科(現中1~中2)の男子生徒は銃剣の替わりに竹筒をかついで行進し、軍人が時折、視察にきた。軍隊さながらの行進であった。
★昭和18年、2月頃(私が6年生の3学期)寒風吹きすさぶ校庭で軍人による閲兵分列式が行われたが、運動シャツ1枚で、2時間近く、直立不動であった。隊列の右に一人でポツンと立って風を受け、肉体的には緊張して耐えた試練であった。その時の軍人の訓示は「戦地の兵隊は敵弾が雨あられと降る中を進め進めと進撃している。そのことを考えよ。内地での苦労は何でもない」といわれた。

(4)戦争中の各教科(幸崎小学校―忠海高等女学校2年生10月までのもの)
★日本歴史・・・国史と呼ばれ、日本国の起源が神によるものとして、この世のものとも思えない神代の世界(伝説)が強調され、その神代から血筋がずうっと続く、万世一系(ばんせいいっけい)の天皇の系図が神武天皇―昭和天皇まで教えられ、天皇はまぎれもなく現人神(あらひとがみ)として神格化が確実なものとされた。蒙古(元寇(げんこう))襲来(文永11年と弘安4年、元のフビライ軍襲来、博多地方を攻めた)の時は、神風(台風)が吹き、日本が勝った・・・・と教えられた。
 神勅を暗記させられた。天照大神がににぎのみことを日本の国に下す時、やたのかがみと共に授けた勅(みことのり)で、「豊葦原(トヨアシハラ)ノ千五秋(チイホアキ)ノ瑞穂(ミズホ)ノ国ハ是吾(ワ)が産(ウ)ミノ子ノ公(キミ)タルべキ国ナリ、宜シク汝天孫(イマシスメ)行キテ知ラセ、幸(サキ)クマセ、天ツ日嗣(ヒツギ)ノ栄エマサンコト正ニ天地ト極(キワ)マリナカルべシ」という文章であったが、この意味は私見でのべると、天孫降臨(天照大神の命を受けてににぎのみことが高天原から日向、高千穂に降った)の時授けた勅(ミコトノリ)で「美しい日本の国は、天照大神が産んだ天皇の国である。孫よ無事に行って天皇家が永久に栄えるようにしなさい」ということだろうか。天皇統治権の基礎とされた天壌無窮の神の勅。
★国語・・・小学校5・6年の教科書に「敷島の大和心を人とわば朝日に匂う山桜花」というのが掲載されていて、山桜の花は一斉に散る、潔くパッと散る、日本人の心であると解釈された。
★公民(女学校での教科)・・・われわれは国家のための人間であるということで、教育勅語が教えられた。また、大久野島が近いこともあってか、「お喋りはいけない」と諜報(ちょうほう)への警戒が繰り返された。
★音楽・・・女学校では、ベートーベンやモーツアルトを教える綺麗(きれい)なオールドミス先生が、朝会の時壇上に上がってタクトを振る「海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ、顧みはせじ」意味は、(何処(どこ)ででも天皇の下に死んでいきましょう。決して悔いることはありません。)というもの。

★武道・・・昭和16年頃から出来た教科で、女子は長刀(なぎなた)をならった。

★英語・・・中等学校では、教科科目としてカリキュラムにはあったが、忠海高等女学校では、敵国語として、なおざりにされ、アルファベットと教科書3~4ページ習うに止まった。他県では実施されていた。
音階もドレミファではなく、イロハニで教えられ、ハへトイトへト、ハハイハトという塩梅(あんばい)であった。
★以上のように、各教科で天皇が神格化され、「天皇の行う戦争は東洋平和のための聖戦であり、お国のために天皇陛下の御為に殺すことは手柄であり、殺されることは名誉なことである。死を恐れたり、命を惜しむ者は、正義感に乏しい人間である。」ということを教え込まれた。

(5)学校行事(小学校、女学校)
 ★四大節・・・年に4回祝日として式典があった。新年、紀元節(建国記念の日)、天長節(天皇誕生日→緑の日)明治節(明治天皇誕生日→文化の日)各家庭では必ず日の丸の旗を玄関脇に立てた。

小学校では、式の始まる前に教頭先生がモーニングを着て白手袋をはめ、桐(きり)の箱に入った教育勅語を奉安殿から式場へ恭しく運んだ。

 式典では校長先生が勅語奉読をした。生徒は頭を下げてそれをきいた。教育勅語の一節に「一旦緩急(いったんかんきゅう)あれば義勇公に奉じ」という文章があった。これはひとたび危急なことがおこれば身を犠牲にして国家につくすようにという意味であるが、是に対して女学校では生徒が斉唱で応えた。♪あやにかしこき皇(スメラギ)のあやに尊き皇のあやに尊くかしこくも下し給えり大御言(オオミコト)これぞめでたき日ノ本の国の教えの基なる・・・大御心に仕え奉らん♪とうたった。
★運動会、音楽界、学芸会などは昭和18年度まではあった。修学旅行は全くなかった。
 昭和16年太平洋戦争勃発の翌年の運動会では、小学校低学年は「九軍神」の遊技をした。「九軍神」というのは、真珠湾攻撃の時、若い海軍軍人9人が肉弾となって、アメリカの軍艦を撃沈し、軍神ととしてあがめたものであった。

(6)女学校での戦時中ならではの特異な教育実態と学校生活(昭和18年4月~19年月10月)
★読書の禁止・・・さまざまな本を各自が学校へ持っていって回し読みをして楽しんでいたが、個人の本は教師に取り上げられた。ヘルマン・ヘッセは「車輪の下」など国家主義批判もしている為かヘッセを没収された人もいた。女学校にも反戦思想、厭戦(えんせん)思想を封じる治安維持法の網が張られていたのだろうか。
★教師の出征・・・一般的には、赤紙で召集令状がくると「おめでとうございます」というのだが、先生を送る式の時、生徒も教師も泣いた。そして「行ってほしくない、今生の別れになるかもしれない」と上級生は列車を追った。
★教師の欠員で自習時間が増え、海蛍の選別、慰問袋作り、千人針(白い布に赤糸で武運長久と書いた兵士の弾除けのお守りで、1人1針縫って結びこぶをつくるというもので)是を身につける兵士の無事を祈った。
★勤労奉仕・・・農繁期には農村へ米を背負っていき、5~7日宿泊して、稲刈、麦刈り、田植えなどをした。造兵廠で火薬袋を作った学年もあった。学校での開墾作業、農作業もあった。
★行軍、手旗信号練習、被爆者の救護訓練、軍服にする野生ラミーの採取などがあった。

B 地域や家での状態及び私自身の状態
(1)家での状態
★共同生活・・・私の家は寺だったため、都会に住む親戚(しんせき)のほか、檀家(だんか)の人たちが疎開してきて、5世帯ほどの家族が寺で暮らし、檀家の荷物を観音堂や庫裏にびっしり預かっていた。
★食糧難・・・主食は母が作ったカボチャ、サツマイモ、ジャガイモ。弁当だけは麦飯、外米入りご飯。おかずには、サツマイモのつる(学校から帰ってつるをとりに行き皮をむいた)、野菜、イリコなどなど・・・塩は岩塩の配給も終(しま)いにはなくなり、海水を汲(く)んできて、一升瓶に入れて、天日干しして作った。油も砂糖もなく、父は葉タバコを紙に巻いて吸っていた。筍生活といって、着物を農家や醤油(しょうゆ)屋へ持って行って食料と換えて貰(もら)っていた。(筍は皮を脱ぐ)
★松脂(まつやに)採取・・・何処(どこ)の家でも強制的にやらされ、飛行機の燃料にするとのことだった。

★貴金属供出・・戦争末期には兵器にするため供出した。寺の釣鐘も赤襷(たすき)をかけて供出した。
★組織化・・・戦場に対して国内にいる国民は銃後として組織化され、大日本国防婦人会が出来、銃後の守りとして、消火訓練、竹槍訓練等が行われた。また隣組制度が出来、♪トントンとんからりっと隣組、回して頂戴(ちょうだい)回覧版・・・助けられたり助けたり♪という謳(うた)い文句であったが、非国民の摘発や諜報(ちょうほう)の監視機関としての役割を果たし、組織は戦争への協力体制であった。

(2)私自身の状態
★戦争中の私は常に学校で教えられることと、両親の言うことがあまりにかけ離れているので、いつも、どちらが正しいのだろうかと自分なりの判断をしていた。
母は、「天皇陛下は神さんなんかじゃない。ご飯も食べてじゃし、便所へも行ってじゃ」と言っていたし「神風が吹く?そりゃ嘘じゃ」といった。広島の病院へ米軍捕虜が収容され、それを見舞った婦人が問題になった時、学校では激怒し、敵愾心をあおったが、母は「傷ついた人に敵も身方もない」と。
★戦後、教育の指針は180度転換し、教師は戦中と戦後で正反対のことを言った。国状が変われば言うことが違う。少なくとも女学校では真理を教えてくれるものと思っていたので、学校に絶望した。私は卒業後、先生にいった「先生は戦争中、天皇を本当に神だと思っておられたのですか?なぜ私たちに神だと教えて下さったのですか?」と。先生は下を向いて「仕方がなかったんです。」といわれた。
 以上が私の学童期の体験である。戦争をくい止めるのが教育なら戦争を可能にするのもまた教育である。

3 大久野島への学徒動員(説明後、スライド・・・会報 3号に掲載)

4 現状に対する私の思い
 20世紀を終えようとする今また、戦前さながらの状態が作られてきている。言論の自由は、教育を始め、法曹、自衛隊、報道、などあらゆる面で封鎖され、国民は国家統制されて、国民主権原理が剥奪(はくだつ)されてきている。
A民主主義から国家主義へ
(1)教育
★「日の丸・君が代」問題については、法制化しても強制、強要はしないようなことを言いながら、結局、教育の中へ執拗(しつよう)な圧力で強制して、教育から自由を奪っている。
 「君が代」は既に1958年から、儀式で斉唱するようにと文部省告示をしているが、教育行政には、踏み込んではならない人間の精神の領域がある。それは国民一人一人の内奥の価値観や思想、良心の自由であるが、この領域に教育行政は踏み込んできて「君が代」という天皇の主権原理の永遠性を内容とした歌を強制してきて、これを拒否した教師を30年間に亘(わた)って処分し続けている。君が代は反動体制に対して、正論を通そうとする良心的な教師を排除する役割を果たし始めている。
★「教科書問題」も教育から自由と真理を奪っている。政治社会は日本を戦争する国にするために憲法を改悪しようとしているが、是(これ)に迎合する自由主義史観を主張する右派勢力は、国民を扇動している。自由主義史観研究会を代表する東大教授藤岡信勝の著書を読んでみたが、その限りでは、この史観は、史実に基づいたものではなく、「著者の考え方によって歴史を自由に見る」というもので、著者の都合のいいように史実を否定したり、歴史の過ちを正当化したりして、「自国の歴史に誇りをもって国際社会に対応すべきだ」と力説し、「加害の事実はなかった。南京大虐殺も従軍慰安婦問題もなかった。太平洋戦争はアジアを解放し、正しかった。原爆投下も歴史的に正しかった。冷戦終結後の国際紛争に対しては、憲法を改正して、武力制圧をすべきである。」と主張している。この考え方は、過去の戦争もこれからの戦争も肯定し、殺戮(さつりく)という絶対悪を肯定したものだと私は受けとめている。
 ※原爆投下正当論について、藤岡信勝は、「ソ連参戦のほうが原爆投下より早かったならば、日本列島は、ソ連側と米国側に分断されていただろう。日本は原爆投下によって、分断から救われ、北海道に生まれた藤岡は、ソ連側に属したであろう分断から救われて、ラッキーだった」といっている。
 この歴史観そのものは、論ずるに足りない人間性を喪失したものだが、恐ろしいのは、この、史実を無視した歴史観が謳(うた)っているところの「自国の歴史に誇りをもって国際社会に対応すべきだ」という主張でこれに基づいた小林よしのりの漫画によって、中・高生たちが洗脳されたり、戦争を知らない世代の人々、若い教師たちがこの歴史観を史実として、鵜呑みにしてしまうことである。事実、1996~1997年には、多くの自治体が、この歴史観を支持した。1996年には、岡山県議会は、教科書から加害面の削除を政府に陳情することを自治体決議した。このようにもう一つ恐ろしいのは教科書攻撃である。
 2002年から、中学の歴史教科書から加害の記述が削除されようとしている。その理由は、「子どもの人格が崩壊する。」ということである。これに対して、宝塚第1中学校3年生の作文では、「歴史の事実は知るべきである。削除しようとする大人の人こそ、人格が崩壊している。」と書いている。
 既に東京では、教師が加害面をプリントで教えたところ、父母から教育委員会へ告げ口され、教育委員会から職務命令が出された。それで裁判になり、東京裁判では一審で教師が勝ったが、結果的にその教師は現場復帰させられず教育研究所へ回され、処分されてしまった。
★「教師を評価」今また、教師を評価する動きがあり、真理と正論を貫く教師が排除されることになるのではなかろうか。
「日の丸・君が代・教科書問題・評価」などを、公権力による圧力で強制することは、国民主権原理の侵害で、これを許すと、やがて、物言えぬ国民が作り上げられ、またもや戦争へ向けて有無をいわされず、国家統制されていくのではなかろうか。国民は今、民主主義から国家主義へと精神構造が作り変えられてきている。
(2)自衛隊
 自衛隊の現状には、戦争中さながらの実態がある。私は、湾岸戦争後-1999年9月まで平和憲法を守る裁判をしたが、その間に、海田所属の若い自衛隊員が、弁護士の所へ相談に来られ、私たちも、そのお話を聞くことが出来た。その内容は、
 「自衛隊を辞めたくても辞めさせてくれない。除隊が許されないんだ。思想や本音が出せない自由のない組織で、日常的に愛国心が植え付けられ、お国のために個人の意思を出してはいけないということで、隊員たちは個人の意見は持たないようにしている。凹凸を無くされ、平坦にされる。人権て何か?・・・」と憤慨しておられた。「海外への出兵に付いては、長男は行かせないことになっており、希望者が行くのだが、安全ではないことを知りながら、みんなが希望するようになる。」ということであった。
 国民を戦争へと誘導することは、現在でも弾圧とマインド・コントロールによって実に簡単なんだということを痛感した。15年戦争の天皇神さんの愚民化政策に乗ってしまった当時の国民を笑うことは出来ないし、オウムのマインド・コントロールを笑うことも出来ない。人間はいつの時代も実に弱いものである。

(3)司法の没主体性
 現行憲法施行後まもなく昭和天皇が沖縄を1947年に、日本全土を1950年に米軍基地として提案し、発布3年後に朝鮮戦争で再軍備へと向かい、湾岸戦争では経済参戦を正当化し、カンボジアPKOでは、自衛隊合憲の解釈改憲により、海外派兵強行をし、その後、国連軍として、PKO五原則も破って、ゴラン高原PKFに歴然とした軍隊として派兵・・・となし崩しに空洞化されてきた平和憲法。私は湾岸戦争後、「平和憲法を守るヒロシマ訴訟団」の原告として、平和的生存権、及び、納税者基本権の侵害という不法行為を問う訴訟をした。{湾岸戦費、カンボジアPKO違憲確認訴訟}。第1審判決は、現在の裁判制度では本件は未知法であるということで憲法判断が行なわれず、「却下」「棄却」とされた。原告団はさらに控訴したが、おりしも第145国会で、戦争法案が成立し、「戦争をしない国」から「戦争をする国」になった国状の中で審理されないまま「却下」「棄却」とされた。この判決は日本各地で行なわれていた同じ裁判で、統一されたものであった。判決は最高裁によって統一されていたのである。この判決の意味するものは、国民主権原理の否定、戦争権の肯定、憲法9条の蹂躙(じゅうりん)である。
 司法は立法府と一体化しており、最高裁の人事権は内閣が握っており、最高裁は下級裁の人事を支配し、裁判官は市民的自由が封じられ、統制されていて、立法府の意のままに動いているのである。司法は反動化への歯止めにはならないのが実状である。司法は堕落するものであり、法律や規定というものは、常に破られ、空洞化されるものである。
★以上のようにあらゆる面で、戦争へと向かう状態が作られてきている。

B 2000年の私の訴え
 憲法を守り、平和を築くのは、私たち民衆、民衆の良心と英知と連帯を心から願う。
★戦後、半世紀余り経った今、戦争の悲惨さが受け止めにくくなり、また、現状把握の感覚も鈍くなり、またしても戦争の方向へと進む。戦争は人間の本能ではなかろうかという気がする。第145国会では、国民不在の戦争法案が一気に成立してしまった。戦後15年目の60年安保の時には、戦争の凄惨(せいさん)な傷跡が未(いま)だ癒えていなかったこともあり、全国民の問題となり、東京では数10万人のデモが国会を取り巻き、安保反対闘争が繰り広げられた。京都では、四条通の市電を止めて、労組、学生、市民、知識人がスクラムを組んで、道いっぱいにジグザグデモをし、胸の奥が焼けるような闘いだった。
★今日本では、いつでも戦争ができるように着々と臨戦体制が整えられてきた。戦争へ向けて軍備は既に備えられており、国民は誘導され統制されてきており、法的にも第145国会で戦争法案が成立してしまい、残るは憲法改悪だけとなった。
 日本の政治社会は、日本の国をアメリカの属国として、アメリカのする戦争に責任を持って参戦することにしているから、今後のアメリカの動向次第では、日本はやがて堂々と戦争をすることになるのではないかと、とても危惧(きぐ)している。
★日米新ガイドライン法案で、戦争法案が成立し、日本は戦争をしない国から戦争をする国になってしまったが、今は未だ、言論の自由が保障されている。実際には、その言論の自由が教育行政など、公権力の圧力によって封じられてきているけれど、私たち民衆は、何としてもこの言論の自由を守り通して、既に決まってしまったこの戦争法案の発動阻止、憲法調査会での憲法改悪阻止、反動的教科書採択の拒否、などなど、民衆が主権国家の主権者として、英知と力を結集し、大きく連帯して、平和構築の歴史を作り上げなくてはならない。
★どんな弾圧にもひるむことなく、国民主権原理を貫き、守り抜かねばならない。
 最後に、尾崎陞さんのメッセージをおくる。
 大阪ピース訴訟をすすめる会の弁護士、尾崎さんが、亡くなられる直前に訴訟団
 に送られたメッセージは私の魂を揺さぶりつづける。


今私は降りしきる花吹雪のもと 皆様とお別れしなければ
ならない悔しさで胸が張り裂ける思いでございます。
私は願います 私の命に奇跡がおきますことを。
ヒロシマ・ナガサキ原水爆禁止世界大会に今年も参加できますことを。
日本国憲法九条戦争放棄の理念を世界のものにする努力を
続けられますことを。
命あるなら車椅子でも行きたい。這ってでも行きたい。
世界の平和を実現する仕事を続けたいと願います。
無念でございます。心残りでございます。
生涯いつも素人。精一杯働き未完のライフワークをどうぞ
皆様が豊かな地球平和の交響曲に完成させて下さることを
心から願います。
皆様への切なる願いと共に今、私の心は貴方にお会いできた
人生の歓びで一杯でございます。
掛け替えのない人生を重ね合い、結び合えた歓びで一杯
でございます。
八十九年の苦難を越え 歓びと希望の人生を送らせて下さった
皆様おひとりお一人に心からお礼を申しあげさせて下さい。
ありがとうございました。
                  一九九四年 四月八日


「九条遵守こそ、最高の国際貢献、最大の安全保障」
尾崎さんの心を心として生きたいと思う。(2000年10月)