今、なぜ毒ガスか・藤本安馬

 私が大久野島へ行ったのは、1941年、毒ガスを学問的に、専門的に作る人間を作ろうという養成所に入ったからです。実は満蒙開拓青少年義勇軍として、満州へ行くことになっていたのですが、父親が満州には行くなと反対したので、やめて大久野島に行くことになったのです。 技能者養成所第2期生です。どうして入ったかというと、先生から勧められて、家庭も経済的に苦しかったので、給料をもらいながら勉強できるということで大久野島に行ったわけです。毒ガスを製造しているとは全然知りませんでした。毒ガスを作るんだから来いということで行ったわけではありません。当時、わずか15歳ですから、まだ子どもの年齢です。そういう年齢であるからこそ、鍛えようと、頭のやわらかいうちに鍛えようというねらいではなかったかと思います。本質的なねらいは毒ガスを作らせようということにあったのです。したがって、騙されて入ったようなものです。当時は、騙されてあたりまえの時代ではなかったかと思います。養成所に入って、いろいろ、勉強や実習をするうちに毒ガスをつくっていることが解りました。毒ガスをつくっていることが解っても、特別、怖いとも、大変なことだという気もしませんでした。まだ、子どもだったので、ことの重大さが、あまりよくわかっていなかったのかもしれません。
 第1期生は自宅から通った人もいますが、私たち第2期生からは全員、寮生活でした。入学する前は、家の仕事の手伝いなどで勉強はあまりできませんでしたが、養成所に入ってからは、授業についていくために猛烈に勉強しました。午前中は教室で授業を受け、午後は毒ガス工場に実習に出るという生活でした。
 本来、大久野島の養成所は3年間学習して、卒業することになっていました。第1期生は3年で卒業になりましたが、第2期生以降は2年半で卒業となりました。戦況が厳しくなり、毒ガス製造の量も増えてきたため、早く毒ガス工場の現場に配置したいためだったからだと思います。私はA3工室(ルイサイトなどを製造する工場)に配置され、そこで1年間働きました。やがて原料が不足したりして、毒ガス製造が難しくなって大久野島でも火薬を製造するようになりました。私は京都の宇治の火薬工場に配置換えになり、終戦は宇治で迎えました。
 毒ガスの歴史は、侵略の歴史と重なります。侵略をするために毒ガスを作りました。第一次世界大戦のときドイツは毒ガスを作って、使用し、実証しています。その効力を日本も見習ったということであったわけです。日本で初めて毒ガスを作ったのは、1927年です。それは、日本での研究段階でした。毒ガス製造可能のめどがつき、1929年に大久野島で毒ガス製造が始まりました。以来、毒ガス製造は年々研究がすすめられ、製造トン数も多くなっていきました。毒ガス生産のピークは、1940年代、いわゆる中国への侵略が進められた時です。当時の大久野島の従業員は、5000人から6000人と言われています。
 大久野島に渡ると、みんな事務職であろうが工員であろうが、なんであろうと、毒ガスの影響を受けました。工場から排出される毒ガスは風に乗って何処へでも飛んでいきます。比較的安全と思われる、事務所地帯にも、そちらの方に向かって風が吹けば、毒ガスは風にのって運ばれ、事務職員の人にも害を与えました。島全体が毒ガスで覆われているからです。それが当時の状況でした。
 次に、私が直接、毒ガスを作った話をします。私は、ルイサイトの原料である三塩化砒素(白1)を主に作ってきました。食塩に亜砒酸を混合して、それを蒸留釜に入れて濃硫酸をいれて温度をかけてかき回したら、三塩化砒素、いわゆる「白1」ができる。ルイサイトの主原料ができます。
 この工程に問題がありました。毒物である亜砒酸は化学式では、As2O3と簡単でありますが、亜砒酸は大変に毒性が強い、0.5g飲めば死んでしまうという毒物です。その亜砒酸を食塩と混合する仕事です。混合するといっても、何か機械で混合するのではなく、手で、木で大きな板(90cm×200cm)の箱を作って、その中に食塩と亜砒酸を入れてコンクリートを混ぜる仕事に使用する小さいスコップを使って二人で混ぜるのです。
 この亜砒酸は1cm角に50の目がある、また、それよりも小さな網の目で濾した粉末なんです。小さい粒子なので混ぜる時に粉末が飛散する。作業中、それを吸ってしまう。だから防毒面をしなくては危険なので、防毒面を被って作業することになっています。しかし、防毒面をしたままでは、暑くて作業はできないんです。ガーゼのマスクと頭巾だけ被って作業をする。マスクをして作業するけど、マスクを通り越して亜砒酸が身体内に入ってくる。その証拠に作業をしているうちに白いマスクの内側が赤くなってきます。これは亜砒酸の粒子がついているから変色する、それでも仕事を続ける、作業中、少量ではあるがずっと、ガスを吸っていることになります。少量でも積もれば山となる。その作業を何回もやっていると、中枢神経を冒される。平衡感覚が失われ、立っていても静止できない状態になります。後ろから見ると、絶えず体が動いている、耐えずユラユラ動いている、それが、中枢神経を冒されている状態になります。そのような危険を伴う作業で亜砒酸を食塩と混合したものを、バーナーで火をたいてぐつぐつ煮て蒸発させ、それを蛇管を通して冷却したら三塩化砒素ができるのです。蒸留するために、釜に入れてバーナーで焚くとき、手動なので、いつも就いて温度を見ながら焚くけれど、炊きすぎてしまうことがよくある。炊きすぎると圧力が上がって、爆発する危険性がある、爆発を防ぐために安全弁が開くようになっている。安全弁が開くとガスが出るのですが、そのガスが危険なんです。
 そのガスをもろに吸ったら大変な被害を受けることになる。安全弁が開いてガスが吹き出すとみんな逃げ出していました。白いガスがおさまると、また、現場に戻って作業するという状態でした。「白1」ガスは温度調節がなかなか難しくて、よく安全弁が開らいていました。
 亜砒酸 と食塩を混ぜる作業は2人でおこなっていました。混合して炊くところまで搬入すれば、その日の作業は終わりで、午後は休憩になっていました。あまり、長時間はできない作業でした。
 A3工室のルイサイト(黄2号)の主原料である「白1」ガス製造が大変な危険がありました。「白1」ガスは比重が重い、2.17。比重が重いので吹き出ると下をはって長時間とどまる。人間が立っていると、もろにそのガスを吸うことになる。ガスは完全に消えてなくなるというわけではありません。地面をはうといえば、物に付着してそこへとどまるということなので、この毒ガスは大変、扱いにくい。多くの付着した砒素は永久に残留するので大変危険です。大久野島で造った毒ガスの種類がありますが、広範な作業工程の中で。「白1」ガスに、一番、工員は悩まされました。
 三塩化砒素ができるとき、冷却槽で不純物と三塩化砒素が重いものから層になって分離する。不純物を入れないということで三塩化砒素は硫酸ナトリウムにくいこんで分液をする。酸は中和するが、しかし三塩化砒素というのは完全に処理ができないので流してしまうことになる。三塩化砒素は水に溶けないので玉になって水の中をころころ転がっている。低いほうへ水といっしょに流れていっていく。下水溝へ流れていって、そのまま海に流れ出る。今もどこかにその原液はたまっている可能性があるといえます。完全に溶けませんからね。海の一番深いところに溜まっている可能性があると言ってもよい。そして、長年の酸を排出し続けたから下水溝のコンクリートがぼろぼろになっている。排水溝が酸で腐食してぼろぼろになっている。修理していない排水溝にしみこんで付着すれば長年、地下に浸透していると言えると思います。現在は建物が存在するので、除毒はできませんが、腐食したコンクリートから三塩化砒素が地下に浸透していると考えられます。
三塩化砒素を作ったところは、国民宿舎本館の前の広場の通りにあった。通りから2メートル離れたところに、「白1」工場があり、その中の4メートル入った所に排水溝があった。だから、その排水溝から浸透しているとすればその位置を土壌検査すれば砒素が残留しているかどうか解ります。国民休暇村を作るときに土の入れ替えをしたというが、どの程度したかよく分からない。汚染されていると思われる位置の土壌をとって砒素はないという調査結果ならいいのですが、そうでないなら問題があります。
 5年くらい前、大久野島から基準の何十倍・何百倍の砒素が検出されたということで大騒ぎになり、宿泊客も減少したということがあった。その汚名を取り除くため調査をしたと聞いている。どのように調査したのか分からないが、環境庁が安全であると言っているという報道が1999年に出された。しかし、その安全基準もまた問題だと思う。安全だとする根拠が不明確である。
 これからの大きな課題は、毒ガス製造当時に現場で働いた人、いわゆる、毒ガスがどの位置に残っている可能性があるか証言できる人間が、ここの土壌を調査したほうがいいという位置を調査しないと、安全と言う根拠にならない。今までの調査では、当事者抜きで行なわれていることが問題である。もし、環境省の方で危険な場所の土壌調査に立ち会って欲しいと言われれば私は調査に立ち合い、汚染されている可能性のある場所を案内することはできます。
 「今、なぜ毒ガスか」ということになるわけでありますが。私自身1941年から養成工として入って、3年間のところを繰り上げ卒業で2年半で卒業してA3工室に配属されました。いわゆるルイサイト工室に入りました。A3工室では毒ガス製造は、アセチレン、「白1」、ルイサイトの3つを造っていました。A3工室で働くことになったのは自分から希望したわけではなく。上からの命令で配属された分けですが、A3工室で働いた、私自身、も毒ガスの製造に従事する事により自分も被害を受け、毒ガス障害者です。
 京都の宇治の工場で終戦を迎え、その後も、しばらくは、大久野島との関わりはありませんでした。大久野島の戦後処理のことも、大久野島に大量の赤筒が埋設されていることも知りませんでした。埋設されていることを知ったのは最近のことです。しかし、毒ガス工場で働いた時の後遺症で、咳や疸にはずっと悩まされていました。私は、比較的元気な方なのであまり病院に行かなかったですが、気管支炎で、年中咳やや疸は出ています。毒ガス障害の申請をしたのも遅かったので、認定されたのも5年前くらいです。今は、毎週、病院に行って薬をもらって飲んでいます。大久野島についての関わりが再び始まったのも、毒ガス障害の認定手続きを始めてからです。
 しかし私は、毒ガス被害者である前に、加害者であることをしっかり自覚しなければならないと思っています。したがって、「今、なぜ毒ガス」ということのポイントは、今の日本は、新憲法の下で平和といわれているが本来の平和にはなっていないということです。被害者である前に加害者であるという自覚なしに平和は語れないと思います。現在、われわれは、とかく、侵略戦争を仕掛けたのは、当時の為政者であり、当時の為政者が、加害者であり、現在の私たちには関係ないという考え方になりがちです。今さら、わたしたちは知らない、という受けとめ方をするようになっているのではなでしょうか。そうではないと思います。時の流れの中に今日があるのであり、過去があって今がある。特に、過去の為政者が犯した罪の責任、加害を責任というのは、その加害を犯した為政者の延長線上に、今の為政者があり、今日の権力がある、といううけとめが必要です。今日の権力者は過去の延長線上にあることを、われわれはしっかり抑えておかないと、平和を追求することは大変難しいことになる。
 今、世界のどこかで何が起きているか、それは、なんのために起きているのかに注目しなければならないのではないでしょうか。「今、なぜ毒ガスか」と言えば、戦争のために毒ガスを作った、毒ガスを作らなければならなかった時代の背景を考える時、今の世情はどういう世情になっているかを考えることが必要です。毒ガスを作らされた時代と似かよった状況が生まれつつありはしないか、考えなくてはならない。
 毒ガスの加害の責任をどのように背負っていくのか、私にできることは、「このように毒ガスを作った、今も毒ガスは残っている。」ということを証言し、証言をもとに、これからの調査に生かしていくという大きな使命がある。そして、過去のことは絶対に忘れてはならない。自分たちが作った毒ガスの体験を言い続け、語り継ぐことが毒ガスを作った私にできる責任の償い方ではないかと考えています。

 (2002年2月27日)