6長浦地区工場群周辺

A二工室(イペリット:独黄一号)・真空蒸留工室

戦争中、ここはA二工場があったところです。イペリットの製造とフランス式イペリットの再蒸留工室がありました。かなり大きな規模でした。当初はA二工室と並んで、茶一工室もここにあったんですが、茶一工室は一九四一年(昭和一六年)に長浦毒ガス貯蔵庫の手前に移りました。残ったのはA二工室、黄一号、ドイツ式の沸騰性のイペリットも作っていましたが、その装置を壊して、フランス式イペリットの再蒸留にしました。
このA二工室を建てる前の一九三九年(昭和一四年)頃は、ここで、くしゃみガスを作っていました。そのガスを作る時には、近郷の大三島、瀬戸田、向かいの大崎上島の方から勤労奉仕でここにくる人が多かったです。その毒性が低いことから採用するにいたらなかったのですが、その後、ジフェニールシアンアルシン、砒素とソーダを使って再び作るようになりました。そのころに、沈殿槽がありました。その跡で今回砒素の調査をサンプリングしたら、環境基準の二二〇〇倍(調査地点は地上から四メートルの地下)でした。この沈殿槽があった状況は環境省からもらった地図を見てわかったことです。沈殿層の跡ですから、その当時のくしゃみ性ガスの砒素の成分が残っとったんじゃなかろうかと思います。 
この写真を見てもわかるように煙突があります。この煙突を見て別に驚くことはありませんでした。工場ですから、煙が出るじゃろうと思われるかもしれませんが、この煙突は一切煙が出ません。この工場の中のよごれた空気を出す排気塔です。排気塔ですから、その中には、毒ガスも混ざっています。この辺だけじゃなく病院の方や、養成所の方へも匂いがたびたびしました。「こりゃあ今日臭いのお。」いうことが多かったです。「臭いのお。」いうことは、毒ガス成分も吸い込んどたということを考えないけんです。だから戦後の健康調査の時、ほとんどの人がなんらかの呼吸器障害をもっとったということと合うような気がするんですね。それから考えると一応、これは、国がおこした大気汚染で公害でしょう。それなのにそれを整理していないことはどういうことでしょうか、ということが言えるんじゃないかと思います。一九七三年(昭和四八年)頃、大気汚染にかかわる健康調査をやって、その結果大気汚染の影響である呼吸器患者は、これを公害環境部で補償するようになりました。男女年令別で違いますが、一四万円ぐらい。ところが、そのころ大久野島の毒ガス工員は認定患者で三八八〇〇円。こうも違うんです。大久野島の障害をいったい何なんかといったら、国が出した公害現象ですよ。それを国が処理するのはあたりまえのことですね。そこらを障害者のみなさんがどのように考えておられるのでしょうか、一考する必要があると思います。国家で補償すべきです。

野ざらしの毒物タンク台座

私は、今まで、ここのタンクを一〇〇トンタンクと説明してきました。(一〇八ページ写真参照)台座を四個使います。しかし、直径を推測すると大きは一〇〇トンタンクに相当するものかわかりません。この直径からして、一基が何トンくらいかという疑問が出てきます。長浦貯蔵庫のタンクは一〇〇トンタンクです。あれは毒ガス兵器廃棄報告書(オーストラリア戦争記念館所蔵)のなかにあります。
この島では常に三〇〇〇トンの製品の確保をしなさいとの指示があったようです。それに即応して、島の各所に小規模の貯蔵庫を造っていきました。その計画が戦争中からはっきりしていたのが、長浦の貯蔵庫で、そこには縦型であって各部屋に一基ずつあったのが、今でもわかりますし、その容積もだいたい一〇〇トンということがわかります。ところが、長浦以外で、状況がはっきりわかるのが、この場所です。下の広場はA二工場といって、ドイツ式の不凍性イペリットを主に造っていました。造ったのは敗戦に近いころで、そのころドイツ式の毒ガスを造ることになったんですけども、毒ガスの製造期のピークが過ぎていたころでした。イペリット工場を設けると同時に、貯蔵庫が必要なので長浦の貯蔵庫が出来る前にここに造ったのです。ここにはタンクを受けるコンクリート台座がたくさんあります。私は台座四つで、一つのタンクを置いていたのではないか、と自分で想像しました。そうすると、三二個の台座があるので、八基のタンクがおけます。そうすると、数百トンの毒ガスがおける可能性があります。ただ、私がここを見た記憶ではこんなに雑木林ではありませんでした。タンクの上に簀の子をふいた茅葺きの日よけがしてあったのを確認しています。そういう記憶をたどってここに来たら、これがあったのでなるほどここにも貯蔵庫があるのかと思ったわけです。島内に常に三〇〇〇トンの毒ガスを確保しなさいという国策での対策ではなかったのではないだろうかと思いますから、そのことをみなさんに証言してきました。
その当時を物語るのに、古びたコンクリートの階段があります。あれから上がってきたというのは覚えています。これから山越えに向こうへ道がついて、この奥にも敵の爆撃をおそれて、機銃照射を逃れるための待避壕らしきものが奥にあります。ということになりますと、ここは、A二工場のタンクとして活躍していたような時代がしのばれるような気がします。そういうところです。タンクは外から見えていました。そのころ、アンペラといっていた、今でいう、日よけがしてあった程度で、素朴なものでした。ここにもパイプラインがありました。鉛パイプでした。直接ここに入れるようにしていました。長浦の貯蔵庫が一九四一年(昭和一六年)に出来て、一九三九年(昭和一四年)の地図では計画だけだったからありませんが、それまでに、ここにあったんではないかと思います。ここのを分散した形で、長浦へ六〇〇トンのをつくったのでしょう。
この奥に工員の待避壕であったところがあるので案内します。これはA二工室の待避壕であったと思います。しゃがんで、機銃掃射から逃れるためのものでしたから、そんなに深いものではありません。

海水タンク 風呂にも使った

雑排水、工場の洗浄、ふろの湯、冷却用水などに海水を利用しましたので、島内にはこのような海水タンクはたくさんありました。北部の貯蔵庫の上にもありますし、この上の峠にもあります。向こうの国民宿舎の上にもあります。当時、はっきり確認したわけではありませんが、工場体系からこれはおそらく海水タンクで、淡水タンクではないと思います。水道は浄水タンクから加圧して水道水として使ってましたので、これは海水タンクで間違いないと思います。
このタンクの向こう側には、貯蔵量がわかるようにメジャーが壁に付いています。一メートル、二メートルと表示してあります。中央の穴からフロートが降りるようになっていて、中で、フロートで水量を表示するようになっていたと思います。それから、上に向かって、はしごがついていて、上から、一〇、二〇、三〇と数字がついていて、下が一一〇、一二〇まであります。この数字はどんな意味かわかりません。
海水はふろの湯にも使っていました。ふろに入る前に、まずカメレオンといってピンクがかった液で除毒していました。そして、重曹水で体を流して、それから海水のふろへ入っていました。上がって、最後に真水のシャワーで体を流していました。真水は上がるときに使うだけです。ボイラーがあり、海水も温めていました。スチームは工場全体を通していましので、加熱する場合でもほとんどが蒸気加熱です。火は使いません。引火の恐れがありますから。冷却水には海水を使う、加熱するのも海水を利用していました。加熱するときにはヒラシメンといって食用油で加熱する場合もありました。

ここで紹介した海水タンクの他、島内三カ所に現在も原型をとどめているものがある。

茶一号(青酸)工室

長浦貯蔵庫の隣に茶一工室がありました。茶一号は直接ここから持ち出したのかどうか、わかりません。一九三〇年(昭和一五年)に養成所に入った時には、三軒家の方に茶工場があって、休止しとったですよね。そのころ、ここは工事中でした。サイロームの新装置じゃいうて、ここにできました。サイロームという名前で、すぐに茶瓶に名前が変わりました。四〇〇シーシーくらいのガラス瓶ですから、ちょうどこのぐらいで、その中に詰める作業をここでやりましたね。だいたい茶製品は鋼鉄のボンベ、長い塩素ボンベのようなボンベであちこちに、ありました。茶瓶を原液のままに送っているのは服部さんの時代です。一九三九年(昭和一四年)春と一九四二年(昭和一七年)に原液で送ってますよね。このことははっきりしてますが、後は専用ガスとしてだしてますよね。一番始め製造所が始まった時は、サイローム殺虫剤でだしました。大中小とありましたけど、缶にいれてね。一番きめの細かい、ほこりみたいなものです。粒状にしたものに液体を吸わして、缶詰にしてそれが殺虫剤になります。これは燻蒸剤ですね。みかんの薬で、青酸ガスが気化して、カイガラムシを殺します。そういうことにして陸軍の専売特許にして売りました。だから、大久野島では最初農薬をつくっています。そのころに瀬戸内海のこのあたりにみかん農家がたくさんおったようですね。その殺虫剤をつくるかたわら、フランス式のイペリットをつくる。これが、始まりなんです。一九三四年(昭和九年)になって、イペリットはイペリット、ルイサイトはルイサイトとはっきりしたころに、製造設備がそろうたということで、本格的になったそうです。  

中部砲台跡(製品置場)

中部砲台にあがる道の途中にゲートがあって、守衛が立しょうしており、無用の者は立ち入れませんでした。私は、しばしばここを越えて、毒ガスを貯蔵していた中部砲台の倉庫へ行っていました。そこで、毒ガスをサンプリングして、分析室に持っていって、毒性検査をやって、どのくらいの保存が可能なのかを調べたりしてました。このゲートで守衛に何係の何のだれべえ、何の用件で来たか言っていました。
中部砲台の入り口のゲートのこちら側にたて屋があって、その中に監視員、毒ガス工場の担当者がおりました。出る時には、何リッター持って出るか確認してもらいました。この作業は抜き取りですから、何月の何日分と表示しています。
フランス式のイペリットは一年に二回以上ガス抜きをする必要がありました。ドラム缶の中のイペリットを出してそれを再蒸留するんですが、不純物を取りのぞいてまたやります。これがフランス式イペリットの問題点で、製法は簡単なんじゃけど保存に問題があります。そのガス抜きの作業をしないと保存中に爆発します。このガス抜き作業で、私の同期生の一人は間違ってけがをして、戦後すぐ早いうちに認定患者になりました。
これは、余談ですが、守衛で新しく入ってきたら必ず、度肝を抜くんじゃていうんです。山の中を巡回しますよね。ここに、あがってくると、昼間、ドラム缶が膨張してふくれとるんです。それに消防や守衛が度肝を抜かれるんです。巡回は、横着はできんよね。どうしても、ここを通らんにゃいけんのです。けいら盤があって、番号を合わしたら、鍵が開くようになっとって、その中の用紙に、判を押すようになっとる。あとでチェックされるんです。