はじめに

はじめに
 20世紀は愚かな戦争の繰り返しでした。しかし我が国は敗戦により「二度と再び過ちは繰り返さない。」という堅い決意の下、平和憲法を制定し、世界の平和をリードしてきました。21世紀こそは人権平和の世紀と思いこんでいました。もはや紛争の解決は武力ではなく人間の英知で持って解決できると信じて疑いませんでした。 

 しかし、見事に裏切られてしまいました。悲しい事に正義の戦いだのとうそぶいて世界を戦争の渦に巻き込みさらなる利権をむさぼろうとしている大国アメリカの言いなりになって、我が国は、自衛隊を海外に派兵し今や戦争の出来る国へと変貌しました。決して再びたどってはならないとした道に今また足を踏み入れてしまったのです。この道がどこに行き着くかは、火を見るよりも明らかです。何と言う愚かな事でしょうか。 それはかつての戦争体験者が高齢により数少なくなり愚かな戦争の実相を語る人が少なくなってしまったことと、開発、自然破壊、戦争の証拠隠しのために戦争遺跡が姿を消してしまったことによりその記憶が薄れてしまったことも一因と考えられます。

 「二度と再び」に期限は無いはずです。永遠に人権平和の保障される世の中を次の世代に引き継ぐこと。それが「戦争を知らない」世代の責務なのです。戦争を知らない世代が永遠につながらねばならないのです。 平和を維持していくと言うことはじっとしていてはなしえない事がはっきりしました。黙っていてはなしえないのです。しんどいけれど、厳しいけれど語りつなぎ続けていかねばならないのです。 戦争の歴史が風化され、今また再びいつか来た道をたどろうとしている時、ここに、その記録を残し、次の世代にかたりついでいく作業が急がれます。 幸いなことに、大久野島にはかつて陸軍が秘密裏に毒ガスを製造した工場の遺跡の一部が残されています。

 また、その製造に携わってきた証言者も健在です。

 このたび、14才で毒ガスを製造した陸軍造兵廠の養成工として毒ガス製造を学び、16才から20才まで工員として製造に関わり、晩年には毒ガス資料館の館長を勤められた、村上初一さんという貴重な証言者を得て、一つひとつの遺跡の前で語っていただきました。村上さんは長年にわたり、修学旅行生や社会見学の子どもたちを始めたくさんの人々に毒ガス製造の実相を証言してこられました。誰しも被害者にも加害者にもなってはならないという強い信念から自らの加害責任を明らかにして語ってこられました。このたびその証言をここに「伝言」として残して下さることになりました。

 これは、戦争によって、何も言えずに死んでいった人々の切なる想いの代弁であり、次の世代の人々への貴重な遺産であります。この「伝言」に込められた想いをしっかりと受けとめ遺産を継ぎにバトンタッチし、この「伝言」を不滅のものとしていくことを誓って、より多くの方々にこの「伝言」を贈ります。 表紙の写真は、病院跡です。この大きな木はかつてここに病院があった時植えられたもみの木です。当時は二メートルばかりの物でしたが、ここに立ち続け生き続けて、今や立派な巨木となり、海水浴に訪れる人々に憩いの陰を提供していますが、毒ガス製造に依って被害を受け苦しんでいた人々のうめき声を聞いてきた生き証人です。この木の前に小さな消火栓と説明版があります。この消火栓もかつて病院内にあり、ここに病院があったことを示す貴重な遺跡として海岸への階段近くにそのまま残っていましたが、2000年の海水浴場整備工事により海水浴客の邪魔になるという理由から撤去されてしまいました。そのことを知った私たちは「おおくのしま戦争遺跡の保存を進める会」と共に環境省に元の位置に復旧させることを要求しました。話し合いの結果、安全な場所としてこの位置を選び、環境省とともに復元し、説明版を立てました。 遺跡は物言わぬ証人ですが、証言を得ると何者にもまして雄弁に語り始めます。証言は遺跡の前に立つことにより、実証されます。遺跡は証言を裏付け証言は遺跡に命を与えます。小さな消火栓、ものいわぬもみの木ではありますが、大久野島の歴史を物語る貴重な遺跡としてこれからも大切に守られてほしいものです。

 撮影は村上初一さんです。折しも、島を訪れた人たちが看板に見入っていました。消し去られてしまった遺跡、わずかに残されている遺跡たちの想いと、すでに亡くなってしまわれた毒ガス被害者の方々の思いを込めて、このもみの木と消火栓に表紙を飾ってもらうことにしました。 その道は危なき道と諭す人少なくなりせば迷い込むかな。なればこそ遺跡は道しるべなり,証言は道案内なり。永久に語りつなげよ。永遠に守り続けよ。平和をと。

2004年6月山内静代(毒ガス島歴史研究所代表)  

 第二次世界大戦中、日本は化学兵器を作り、これを人道兵器だと教育しました。(巻末資料「化学兵器人道論」を一読ください。)そして、国内外において、この兵器で多くの人が苦しみ死んでいきました。いまもなお苦しんでいる人がいます。

 この歴史の流れの中には、人類の生存を脅かすような幾多の過ちがありました。このことを学びとることができるのは戦争遺跡です。しかし、その遺跡を保存する営みが十分でないため、殆どが自然消滅しています。竹原市にある大久野島も例外ではありません。大久野島の戦争遺跡が積極的に保存されてこなかったのは、化学兵器が人道兵器ではなかったからとも言えます。

 化学兵器は、大量殺戮兵器で、人類破滅をもたらす兵器です。しかも、当時、国際条約で、戦争では使用してならないと決められ、その製造行為は、国の極秘事項でした。そのため、化学兵器の一部は、敗戦直後、旧日本軍によって廃棄されました。その後、占領国軍が旧日本軍を武装解除するために、化学兵器製造工場、化学兵器の破壊・廃棄を行いましたが、日本国の環境上の安全を考慮されて行われたかどうかについては疑問が残ります。また、我が国も敗戦前、国防兵器として国内の軍事基地に再配備しておきながら、敗戦後その処理を十分に行ったとは思えません。このような戦後処理の不完全さが、現在神栖町で問題となっている有機ヒ素による水汚染につながっているのではないのでしょうか。

 今大久野島の戦後を振り返ってみても、毒ガスが発見されるたびに、毒物であり危険、早く取り除いて欲しいという要望があっても、徹底した対策はとられてきませんでした。それよりも、まずは観光地への変貌を遂げるために新しい施設が建設され、同時に毒ガスの記憶を消し去るかのように、毒ガス製造施設及び関連施設も次々と破壊されました。このため戦争遺跡は残り少なくなっています。また、元製造従事者は毒ガス後遺症の発病にかかる救済措置の実施を要望し、存命を図りましたが、元大久野島の従業員約六七〇〇人のうち現在生存者は三九一四人(大久野島毒ガス対策連絡協議会実施の慰霊式より)となり、毒ガス製造の実際を知る人も数少なくなっています。

 このように現在、日本の毒ガス製造の事実確認が難しくなっています。そこで、大久野島に残る戦争遺跡をめぐり、各々の場所で当時の状況を証言してガイドブックとしました。

 いま日本は、人道復興支援のために自衛隊をイラクへ出発させました。時代の流れが大きく変わろうとしています。二度と過ちを繰り返さないよう、戦争の被害加害を理解するために、この冊子を役立て、反戦の叫びの一助として欲しいと思います。 

2004年6月  村上初一(毒ガス島歴史研究所顧問)