大久野島の歴史(環境)

大久野島の歴史(戦後・環境問題編)

1945年 8月15日大久野島の全工場の機能を停止。陸軍造兵廠は秘密を守るため、毒ガス患者カルテや写真、関係書類など一切の機密文書をことごとく焼却した。

1946年 毒ガス処理と毒ガス工場・施設の解体を帝国人絹三原工場が請け負う。英連邦軍(オ-ストラリア軍)が大久野島の毒物と施設の処理の担当であったが、化学兵器専門の将校が配属されていなかった。
  
1946年 8月28日クシャミ剤のような有毒姻剤が大量に残存していたものを島内の壕内に埋没し、コンクリ-トで堰堤を造って密閉し、海水と晒粉の混合物を注入して9月18日その作業を終わった。
      
1947年 発電場・貯蔵庫の一部を残して除毒処理作業終了。連合軍司令部から大久野島を日本政府に返還。

1947年 6月に県立広島医科大学(現広島大医学部)生物学教室の松本邦夫教授が大久野島の生物生態系を調査。島の西側海岸には生物が生息していないことが解った。

1951年 1950年の朝鮮戦争勃発にともない、日米安保条約により、再び大久野島は米軍の弾薬庫として接収された。

1952年 広島大学の松本邦夫教授が大久野島の生物生態を調査、戦後7年経った今でも毒ガス工場のあった西側海岸には貝類が棲まないことが解った。

1953年 朝鮮戦争は終ったが、弾薬解体処理場として米軍が管理。

1958年 三原市内のスクラップ業者が大久野島沖で引き揚げたボンベイの解体中、青酸ガスにより、作業員と付近の住民が死亡、27名が傷害を受ける事故発生。

1963年 大久野島は国民休暇村としてオ-プン、人々の憩いの島となり観光客が訪れるようになる。

1969年  キャンプ場の近くの防空壕で赤筒を発見、厚生省が陸上自衛隊の協力の下に調査した結果、いくつかの防空壕から毒ガスを発見、壕内にあった毒ガスを検査した結果、毒ガスとしての効力は無いと判断、再び壕内に入れ密閉。

1970年 厚生省は陸上自衛隊の協力のもとに1970年1月13日から3日間、大久野島の島内防空壕内の調査を行った。7カ所の壕内を調査した結果、大赤筒22個、中小赤筒630個、発煙筒1000個が見つかった。
            
1970年 厚生省は1970年3月5日より、見つかった毒ガス(赤筒)は毒ガスの効力は無いとして、再び埋没し、見つかった壕などの密封工事を行った。

1970年 大久野島南沖でエビ漁をしていた漁民が毒ガスボンベを 網にかけ、中毒症状になった。このころから、度々、漁業の網に毒ガス容器がかかるようになった。

1971年 陸上自衛隊が島内に残存する旧施設爆破。作業は40日間で、自衛隊の演習も兼ねて行われた。

1972年 北部海水浴場建設工事中に毒ガス容器(腐食)二個発見。 竹原市議会が「毒ガス完全防除と毒ガス障害者援護対策の充実」を決議。市議会代表が政府に島内一斉点検と安全宣言を出すように要請。

1973年 環境庁、防衛庁など七省で「大久野島毒ガス問題関係各省庁連絡会議」を設置, 全国の毒ガス処理状況調査、埋没18カ所、海洋投棄8カ所を調査した。

1984年 市会議員が資料館設立を竹原市議会で提案

1985年 大久野島毒ガス障害者慰霊碑建立

1988年 大久野島毒ガス資料館竣工

1990年 遺跡保存のための署名運動により発電場が保存されることになった。

1995年 広島市南区の出島東公園でかって 広島県が埋設した旧陸軍の毒ガス原料による土壌汚染が明るみに出た。これは、広島県が1973年に埋没していたもので18年経って、土壌汚染を引き起こしていることが明らかになった。広島県の責任で処理された。処理費用は実に36億5千万円、残る低濃度の汚染9千5百トンの処理方法は決まらなかった。

1995年3月 環境庁による大久野島の砒素濃度調査始まる。

1996年7月 環境庁が大久野島の砒素濃度調査の結果を公表。土壌は島内30カ所を調査し10カ所あまりで環境基準を上回る砒素を確認した。
         
1997年4月 大久野島の北部海岸で、毒ガス兵器の一種の「発射赤筒」と発煙筒の燃え残りとみられる35個の筒状のものが見つかった。環境庁山陽四国地区国立公園・野生生物事務所が分析した1個からは環境基準の36倍の砒素が検出された。

1998年10月 環境庁の高濃度砒素汚染土壌の掘削、撤去工事始まる。

1999年3月 砒素除去工事中、国民宿舎前の防空壕跡で9個の大赤筒発見される。

1999年4月 環境庁は砒素汚染土壌の島外搬出工事の概要を説明したパンフレット「瀬戸内海国立公園大久野島感興保全対策」を作製し国民休暇村で配布を始めた。

1999年8月 北部の砂浜で市民が3個の中赤筒を発見。検査してみると、高濃度の砒素がその中に含まれているのが解った。

1999年10月 検査結果が明らかになり、毒ガス島歴史研究所は市・県・国(環境庁)に対して、島内の防空壕の徹底調査と島内の毒ガスの完全処理を求める。