旅の記録

第3回日中友好平和学習の旅(2004.8.17~22)
 ~毒ガスによって多数の村民が虐殺された村を訪ねて~
・旅の記録 (南京~北京~河北省北坦村~上海)

8月17日(火)
 8月17日午前11時 広島空港集合、今回の旅の参加者が初めて全員で顔を合わせる。お互いに簡単な自己紹介のあと、諸連絡と打ち合わせを急いで済ませ、搭乗手続きへ。その前に、見送りにきていただいた中村さん夫妻と藤本安馬さんのご家族と一緒に記念撮影。写真は中国新聞社の広田さんが撮ってくれた。なんと頼もしいカメラマン。12時50分少し遅れて広島空港を出発。
 8月17日上海の浦東空港で侵華日軍大屠殺遇難同胞紀念館の通訳、常嫦さんの出迎を受ける。6年前、南京を訪れた時も案内してくれたのが彼女だ。その後、3度ほど彼女は南京大虐殺の幸存者などと一緒に広島を訪れている。その度に会うことができていて親交を深めていたのでなんの不安もなく空港に降り立った。上海~南京までは高速道路もあり、かなり近くはなっているそうだが、丁度、高速道路が工事中とのことで4時間あまりかかって南京へ到着。南京到着後、侵華日軍大屠殺遇難同胞記念館館長の朱成山館長に夕食歓迎会に招いていただき大変ご馳走になった。朱成山館長にも6年前、南京でお会いし、その後も何度も広島でお会いしたことがあり、温厚な人柄の館長の招待に感謝、感謝の歓迎会であった。食事後、南京の名所、孔子廟を案内していただいた。

8月18日(水)
 午前8時10分出発の予定が、帰りの飛行機のリコンファームに手間取り、約30分遅れての出発。まず侵華日軍大屠殺遇難同胞紀念館を訪問、朱成山館長はすでに門のところで待っておられて、到着した私たちを案内してくださった。紀念館に入ったすぐの広場に大きな平和の鐘が作られ、庭に幸存者の足跡を彫刻するなど、6年前よりも見学する中身も増え、紀念館が充実していることがすぐに解った。合わせて、たくさんの中国人が訪れているのには驚いた。入場料が無料になったことは知っていたが、6年前とは違った光景だった。
 朱成山館長の親切丁寧な説明で広場を案内していただき、追悼式をおこなう場所に到着。用意されていた花輪を献花後、南京大虐殺の犠牲者の追悼式をおこなった。黙祷・追悼の言葉・歌という追悼式だったが、遺棄毒ガスによる中国の被害者への謝罪を歌った歌(「大久野島の歌パート2」)を歌う頃には紀念館見学に来ていた、たくさんの中国の人に取り囲まれていた。みんな私たちが追悼式をおこない、歌を歌っていることに興味を示して集まって来たのだった。皆、好意的なまなざしで見守ってくれた。私たちが紀念館を訪れて追悼式をおこなっていることを知り、後から新聞記者も駆けつけインタビューも受けた。

南京大虐殺紀念館での追悼式
 追悼式の後、私たちは幸存者から証言を聞いた。常志強さん、1928年生まれ、76歳の男性である。彼の話に私は冒頭から衝撃を受けた。彼は自分の南京大虐殺で受けた残虐な出来事は思い出したくもないし、人に説明するのもいやでずっと話さなかったそうだ。彼は、南京大虐殺で日本軍に家族をほとんど殺され、生き残っていた姉も死に、1人ぼっちになり、よく人から何故一人ぼっちになったか聞かれたそうだ。しかし、彼はいやなことを思い出すので、あまり詳しくは話さなかったそうだ。しかし、彼が話す気になったのは、いや、話さなければならないと思ったのは日本で「南京大虐殺はなかったのだ」ということを言う者がいると知ってからだった。歴史の真実を歪めようとする日本の動きは許せなかった。それ以来、証言するようになったと話された。一部の日本人とはいえ、歴史の真実を歪曲しようとする言動が南京大虐殺の幸存者をさらに苦しみのどん底に陥れていることを改めて知り大変申し分けないと思った。常志強さんの涙を流しながらの証言は、聞く私たちも涙なしには聞けなかった。証言の内容は別のところに記すのでぜひ、読んでいただきたい。証言を聞いた後、紀念館の中を参観した。大虐殺の現場に建てられた紀念館には掘り出された万人杭がそのまま保存されてあった。紀念館の広場の壁に刻まれた日本軍の残虐行為の様子の彫刻がその残酷さを私たちに伝えている。

 私たちが訪れた時、紀念館の特別展として毒ガス展が開かれていた。4月に南京を訪れた人から、毒ガス展が開催されているとは聞いていたが、8月にはもう特別展は終わっているかと思ったが、丁度、間に合った。特別展の会場は広い会場にさまざまな毒ガス問題の情報が展示されていた。実物の毒ガス弾も展示され、大久野島の毒ガス工場の写真も展示してあった。毒ガス島歴史研究所が提供した資料も展示されていた。南京にも戦争中、毒ガスが運ばれていたことも解っており、近くで毒ガスも見つかっている。南京大虐殺と毒ガスが無関係でないことを物語っているともいえる。南京大虐殺と日本軍の毒ガス使用をもっと掘り下げて調べる必要がある。


毒ガス展の会場にて
 紀念館の内部の展示も6年前来たときとは展示方法が違っており、内容もより充実していた。何度、見ても日本軍による残酷な虐殺現場の写真は目を背けたくなるような残虐なものである。しかし、目を背けてはならない。歴史の真実を直視しなくてはと一生懸命見て回った。
紀念館を出て南京市内の虐殺現場を一ヶ所訪れ黙祷し学習した。南京市内にはあちこちに虐殺現場があり犠牲者を追悼する記念碑が建てられている。
 その後、南京唯一の観光であった中華門を見学した。古代中国の合戦の歴史を残す有名な門だが、しかし、ここも南京大虐殺の時日本軍が侵攻し、大虐殺がおこなわれた場所でもあった。
 17時55分発の飛行機で南京をはなれ北京へ向かった。19時50分無事、北京到着。北京では陳俊英教授が出迎えてくださった。6年前、毒ガス事件幸存者の李徳祥さんと一緒に三原で証言集会をした時、通訳で来られていた。陳俊英教授には会いしたことはあるが、話したことはなかった。私たちのことが解ればいいがと思っていたが、案ずることもなくすぐに陳教授と会うことができた。北京空港からすぐに車で河北省保定市へ向かった。保定市のホテルについた時は21時を回っていた。

8月19日(木)
 今日は、今回の旅の第一の目的である北坦村に向かう日だ。北坦村に向かう前に、北坦村の近くで今も地下道戦の遺跡の残っている冉荘地下道戦遺跡を見学に行った。このあたりの華中平原は山がほとんどない平原地帯である。日本侵略軍が村を襲った時、中国の人々は家に隠れる以外、隠れ場所がなかった。日本侵略軍はこの地で三光作戦(殺光・略光・焼光)を展開した。すなわち、殺しつくす、奪いつくす、焼き尽くす、作戦である。光とは「~し尽くす」という意味がある。将来日本に敵対する可能性のある中国人は、子どもも含めて、全て抹殺してしまう作戦であった。なんと、残虐非道なことをおこなったことか。私たち日本人はこの歴史的事実を忘れてはならない。その日本侵略軍の攻撃に対抗して生まれたのが地下道戦である。この地方は平原地帯で隠れる山や谷はなかった。そこで、この地方の中国の人達が考えたのが地下に逃げることであった。最初は芋穴のような既成の地下室に逃げ込んでいた人々が、やがて日本侵略軍への抵抗の手段として地下道を利用するようになったのである。ただ逃げるだけでなく日本侵略軍と戦う巧妙に造られた地下道も出現した。
 村の中は縦横無尽に地下道が造られ、至る所に銃口を作って、あらゆる角度から、侵入してきた日本軍を狙い撃ちできるように地下道が作られていた。やがて村と村をつなぐ大規模な地下道もでき、日本侵略軍に対する大規模なゲリラ戦が展開されたのである。それは日本軍に大きな打撃を与える戦いとなった。実際、日本軍を相手にこの地方の中国遊撃隊はよく戦ったことが評価されている。北京の中国人民抗日戦争紀念館の展示室にも、その功績をたたえ、冉荘地下道戦遺跡の模型が再現されている。
 北坦村はその河北の人民戦線の中でも地下道戦によって強固に日本軍に抵抗し、大きな日本軍に損害を与えた軍として評価されている。そのことは今でも、北坦村の人達の誇りになっている。北坦村は日本軍の毒ガス攻撃によってたくさんの遇難同胞を出した村だが、それは、日本軍と果敢に戦った歴史でもあった。
 6年ぶりに訪れた冉荘地下道戦遺跡は賑わっていた。愛国教育の場としての重要性がより高まった印象を受けた。6年前は訪れる人もあまりなくひっそりとした感じの遺跡だったが、今回は新しい大きな駐車場もでき、たくさんの人が訪れていた。小学生の子ども達から大学生あるいは大人まで多くの人が訪れていた。
 人民の知恵が駆使された地下道戦遺跡は何度見ても感心させられることが多くありました。今回、資料館の見学の中で、日本軍の三光作戦で破壊された村は、北坦村以外にも多数の村が毒ガス攻撃によって壊滅させられたことを知った。これは、当然あり得ることでしょう。日本軍が北坦村だけで毒ガスを使うはずはありません。これからもっと学習していく必要があると思いました。

北坦村陵園での追悼式
 次に向かったのが定州市の市庁でした。そこで、北坦村の修復の計画を進めている北坦村の毒ガス事件研究会の人達に会い、修復のための募金に協力するためのカンパ金を手渡すことになっていました。李徳祥さんの息子さん達の温かい歓迎を受け、そこで陵園修復の計画の説明を聞きました。計画は三期で考えている、一期で今、傷みの激しい陵園の修復をおこなう。これは今年の9月から修復工事にかかって、12月には完成させ、来年4月の抗日戦争勝利60周年の清明節は修復された陵園で大規模に式典をおこないたい。二期工事は毒ガス事件の資料館建設、河北省から建設補助金が出ることになったが、それだけではとても足りない、これからも募金活動を活発におこない建設資金を集めて実現したい。三期は地下道を掘り起こし、保存したい。これは募金がどのくらい集まりるかで検討していきたいとのことだった。ぜひ地下道の跡も掘り起こし日本軍のおこなった毒ガス戦の歴史を保存して欲しいと強く思った。

 北坦村を訪れたのは午後15時頃であった。予定よりかなり遅れての到着であった。陵園前ではすでに早くから村長さんや村の世話役さんが待っていてくれた。陵園はひっそりと静まりかえっていた。2~3人くらいの村の子どもたちの姿以外人影はなかった。その静かな陵園で、まず私たちは献花と黙祷と追悼式をおこなった。「かって日本侵略軍がこの村で毒ガス攻撃をおこない、残虐非道な行為をおこなったことを深く謝罪します。・・・」静かな庭園に追悼の言葉が響いた。追悼式をおこないながらその日本軍の行為を謝罪するとともに二度と毒ガス戦争を起こさせないことを決意した。

証言 李慶祥さん
 私は中国に来て中国の人から、何度、「悪いのはあなた達日本国民ではない。あなた達を憎む気持ちはない、憎むべきは侵略戦争を起こした為政者達だ。」という慰めの言葉を聞いたことか。しかし、その為政者に間違った政治をやらせたのは私たち日本国民であったことを深く自覚しなければならない。今の小泉内閣の戦争への暴走をとめられない私たちは他人ごとでは済まされない。戦争をくい止めるための国民一人一人の強い意志と決意が求められていると思った。
 証言を聞いた後、同行の大久野島毒ガス工場の元工員の藤本安馬さんが、自分が毒ガスを作ったこと、何故、毒ガスを造り中国の人をその毒ガスで殺すことを当たり前に思う人間に自分がなったのか、深い謝罪の気持ちを込めて語られた。そして、これからも命を懸けて自分の体験を語り、二度と為政者が国民をだまして戦争に向かわないように自分のできることは何でもするという決意を述べられた。そして証言者の李慶祥さんと藤本さんは堅い握手をした。北坦村で使われた毒ガスを造った加害者と大久野島で作られた毒ガスによって攻撃された被害者とが戦後59年たった今、やっと握手できたのであった。
 結局は両者とも日本の侵略戦争の犠牲者である。日本人をずっと恨んできた被害者の李慶祥さんが毒ガス加害者の藤本安馬さんと握手をすることの意味は大きい。毒ガスの被害者、加害者が共に手おむすび、二度と毒ガスによる犠牲者を出さない。二度と戦争による犠牲者を出してはならないと誓った瞬間でもあった。北坦村の村長さんは「藤本さんの話に感激した。自分が加害者であることを自覚し、わざわざ遠い中国まで来て、被害者に謝罪する勇気は素晴らしい。今後、日本と中国の国民が協力して戦争を起こさせないようにしなくてはならない。」という決意を述べられた。毒ガス戦による悲惨な歴史を二度と繰り返さないためも北坦村で学んだ日本軍の毒ガス戦の事実を一人でも多くの日本人に伝えることが私達、旅行団の使命であると思った。

8月20日(金)
 保定市から車で約2時間で北京へ到着。1937年日本が中国に対し全面的な侵略戦争を始めるきっかけとなった廬溝橋事件の現場を見学。そして、そのすぐ側にある中国人民抗日戦争紀念館を訪問した。ここには2年前に紀念館の館長さんと一緒に大久野島に来た段暁微さんがいた。館長は新しく王新化館長に変わっていたが私たちを温かく迎えてくれた。日本語のできる若い案内人の説明で紀念館内をつぶさに学習した後、昼食の招待を受けた。
 王館長は私たちとは初対面にかかわらず昼食に招待してくれた。中国人民抗日戦争紀念館には中国人民がいかに日本侵略軍と戦ったかが解りやすく展示してある。日本軍の毒ガス戦や大久野島の写真も展示してある。大久野島に段暁微さん達が来て以来メールで連絡を取り合って来た。こちらから大久野島の資料を送ったこともある。王館長は今、中国と日本の関係は「経済は熱く、政治は寒い」と述べて経済的には日中の関係は密になり交流も活発になって来ているのに、日本政府と中国政府の関係は冷え切ったままだ。日本の首相が今でも中国を訪問することができないことは悲しいことだ。それは、日本政府の歴史認識に問題がある。小泉総理が中国の忠告を無視して靖国神社参拝を続ける限り日本政府に対する中国の信頼は得られない。日本政府はもっと歴史の真実を見つめ、日本の侵略戦争の事実を正しく認識すべきであると述べた。全く同感である。小泉総理の歴史を歪曲する行動が日中友好いかに阻害し、日本の国益を損なっていることか。何時までもアメリカのブッシュ大統領に追従し、アジア諸国との信頼関係を損ない続けるなら将来日本は大変なことになってしまう。来年の抗日戦争勝利60周年に向けてこの中国人民戦争紀念館もさらに充実させていく計画だとのことであった。
 午後は中国の歴史を代表する故宮(紫禁城)の見学をした。私は故宮は三度目の訪問であったが、とにかく広い。三度とも真ん中を一直線に通り抜けただけで、まだまだ横の方の建物に見るべきものがたくさんあるそうだ。ここでもかなり改修工事がおこなわれていた。天安門広場に面した建物の中のレストランで夕食を済ませてホテルへ。ホテルではすでに歩平先生が待っていてくださった。その夜は歩平先生の話を聞いた。中国社会科学院近代史研究所の所長として赴任したばかりの歩平先生が私たちのために時間を割いてくださった。遺棄毒ガス問題などの話を聞いた。歩平先生は今、中国・日本・韓国の三国の研究家が共同で歴史学習の副読本を作成する準備をしているとのことで、日本や韓国を行き来してお忙しい毎日だとことでした。

上海淞戸抗戦紀念館にて
8月21日(土)
 午前中は万里の長城見学をした。今まで私が行ったことのない登城口へ向かう。長城が最もきれいに見られるところだそうだ。北京市内から約1時間くらいで到着。登り口には熊の動物園もあって、大変な人で賑わっていた。運転手さんの上手なハンドルさばきで一番長城の登り口に近い所に車をつけてもらいそこから長城を登る。年齢の若い人はずっと上の方まで、高年齢の人は無理のないところまで各自の体調に合わせて登った。少し離れたところには長城に登るジェットコースターもあった。歓声が上がり、思い思いに万里の長城を楽しんでいた。
 1983年に初めて登った時はもちろん自力で登るしかなかった。人民服を着た人が多かったがそんなに大勢の人で賑わってはいなかった。1998年に登った時は観光客も増え、スカイウエイで上り、降りる時だけ歩いて降りた思い出がある。万里の長城の観光だけでも大きく変わりゆく中国を感じる。
 中国は、今、大きく変わりつつあることを日本人はもっと知るべきだと思う。若者の中にも、中国は日本より大きく遅れた後進国的イメージを描いている人が多いように思う。一度、早く中国に行って大国中国を自分の肌で感じる必要がある。これからの日本にとって隣国、中国は政治的にも経済的にも重要な国である。アメリカ追従の外交は将来に不安を残すばかりである。
 午後は北京で一番にぎやかな王府井で買い物。露天がずらっと並んだ通りや、車の乗り入れを禁止した歩行者天国もあり、和やかな雰囲気が漂っていた。夜は歩平先生と再会、この旅、最後の中国の夜を北京で過ごした。

8月22日(日)
 朝早くホテルを出て午前8:00発の飛行機で上海へ。上海では中国では日本軍慰安婦問題研究の第一人者蘇智良先生が出迎えてくださった。上海淞戸抗戦紀念館は私も初めて訪れる場所だ。上海郊外へ車で約1時間、揚子江のすぐ近く、1937年8月第二次上海事変で日本軍が上陸した地点であり、姚子青率いる部隊が日本侵略軍相手に二昼夜にわたって抗戦した場所に上海淞戸抗戦紀念館が建てられていた。紀念館には日本軍の侵略戦争の歴史と日本軍と勇敢に闘った中国人民を紹介する展示がされていた。
 日本軍は上海上陸時点でもあちこちで虐殺行為をしている。今、大阪の人達が幸存者から聞き取り調査を行っているそうだ。毒ガスの防毒面を着けて上海市内を行進する日本軍の写真はよく見る写真だが、上海事変の時から日本侵略軍は毒ガス戦の準備をしていたのである。紀念館に付属した展望台があった。展望台からは雄大な揚子江(長江)の河口が一望できる素晴らしい眺めであった。揚子江と言えば南京で見たことがあるが、考えてみれば上海も揚子江に面しているだ。
旅を終えて
 今回の旅を通じて気がついたことはかって日本のおこなった侵略戦争の歴史を学ぶために、抗日戦争紀念館や日本軍により虐殺された南京大屠殺遇難同胞紀念館を訪れる中国人が圧倒的に増えていることである。一部の日本の御用学者やマスコミが中国では反日教育をやっていると、ヒステリックに叫んでいるが、それは明らかに間違っている。中国でおこなわれている愛国教育は歴史の真実を学び、二度と中国が他国に侵略されることのない国にするための教育である。中国や韓国で愛国教育が盛んになって来たのは、一部の日本人が日本の侵略の歴史を否定し、日本のやった侵略戦争の歴史的事実を歪曲しようとする動きが出始めてからである。自分たちの苦難の歴史を否定し、歪曲しようとする動きを放置できない。歴史の真実は謙虚に学ばなければならない。その思いが中国の愛国教育をより強めているといえる。日本の総理大臣自らが日本の侵略戦争の責任と謝罪を忘れて、靖国神社へ参拝し、日本が侵略したアジアの人々の辛い気持ちを踏みにじっている限り、日本は信頼できる国ではないのです。いつまた日本が侵略戦争を起こすかわからないという危機感を持たざるを得ないのです。
 日本国憲法が否定され、憲法第9条が廃止されれば日本は再びアメリカと一緒に、侵略戦争に向かう危険性が高まります。今のイラク戦争を見ればわかります。アメリカの大義なき侵略戦争に荷担し、国連からもその行為を批判されながらも居直り続け、自分の行為を正当化するブッシュ大統領に追従し続ける日本の政府を見ればかって日本が侵略したアジア諸国の人々は不信感を持つのは自然です。
 中国ではますます愛国教育が盛んになり、日本が侵略の歴史を消そうとすればするほど日本に対する不信感は高まるのは必然です。そうなると、ますます、日中関係はうまくいかなくなる。日本と中国の経済的結びつきはますます密になってくる今日、日本政府が早くその誤りに気づき日中友好を促進していく努力をしていかなければならないことは明らかです。私達は日本政府の侵略戦争の責任を追及しながら、民間での日中友好交流をもっと深めていかなくてはならない。