「スタートは大久野島」 関信子

「スタートは大久野島」   今関信子

 私は、「あのとき」まで、広島といえば「原爆」で、大久野島のことについては、知識も関心もありませんでした。竹原市にお住まいの村上初一さんを訪ねる旅が、初めての大久野島行きでした。私は、『わたしたちのアジア・太平洋戦争』(童心社)の第二巻、「いのちが紙切れになった」に、村上初一さんの体験を聞き書きして、十枚ほどの原稿にまとめようとしていたのです。

 この本は、個人の体験を語る形でまとめられています。でも、単なる体験談にとどまっていません。それは、戦争中のある日、ある時の体験だけではなく、その体験の意味を問い返し、問い返しつつ、現在まで生きてきたもうひとつの体験をあわせて「体験」と考えた、という編集意図によるものでしょう。そして、編集委員の一人、古田足日氏は、前書きを「この本がみなさんの心にとどいて、戦争のことを知り、感じ、考え、平和の思想を自分がつくりあげていく材料、きっかけ、助けになることを願っています」と結んでいます。今、読んで、感動さえ覚える編集意図を、私は、そのとき、よく知らないままに、大久野島に向かったのでした。

 瀬戸内海はよく晴れて、点在する島は美しく、大久野島はのどかそのものでした。すでに資料には目を通してあったので、展示物を心して見て回りました。翌日、忠海港で村上初一さんに会い、ほぼ一日、お話を伺うことになりました。私は、話を聞きながら、(ええっ、ほんとですか? 知らなかった……)と、心の中でなんどもつぶやきました。

 正直言って、私は、戦争を描いた作品、戦争について書いた読み物が、好きではありませんでした。極限の中で、人はいかなる姿を示すのか、人間の本質が見えるはず、そうは思っても、進んで手を伸ばそうとは思いませんでした。どれも、戦争は悲惨だ、戦争をしてはいけない、と一本調子で書いてある気がしていました。

 体験を聞くのも、好きではありませんでした。対話の感じにならないからです。戦争を知らない私には、黙って聞く以外に、とるべき態度がないのです。被爆者の体験を聞いても、実戦を経験した人たちの話や身近な人々の戦争体験談などを聞いても、そう感じていました。語る人と聞く人の間に、ハンデがあるようにさえ思えました。ですから、私は、「戦争」には、あえて近づこうとしませんでした。

 今回、仕事がらみで、村上さんの話を聞いてから、〈私もやれる〉と、いう気が動いているのに、少なからず驚いています。

〈なぜそんな気になったのだろう。〉

 私は、私の内をのぞかずにはいられませんでした。どうやら、村上さんの話は、私の中の「戦争の常識」とは、異なるものに思えたようです。戦後の歴史の中で問われ、揺れた村上さんの心の様が、私には新鮮でした。

 第一次世界大戦の時、ドイツ軍は毒ガスを使用しました。それは、すさまじい悲劇を生みました。「毒ガスを戦争に使わない」と決めたジュネーブ議定書ができても、日本軍は、その約束を破りました。人間にはこのような約束が守れず、しかもなお平和を求めようとするとき、いかなる方法が可能なのか。それを見つけ出すには、人間というものの正体を見つめなければならないでしょう。

 私は、1942年生まれです。戦後の平和教育を受けて育ちました。自分の子どもにも、関わった子どもにも、戦争はよくない、と言ってきました。戦争をテーマとする絵本を見せ、本を薦め、話をしてきました。でも、それは、うわっすべりのものでしかなかったような気がします。ただ戦後の「常識」の中で、考え感じていたのではないかと、思えます。

 村上さんの話は、〈見なければ……、考えなければ……〉、と、私を揺さぶりました。私は、前のめりになりました。決意に似た何かが動き出す気配を、私は、感じていました。私は村上さんに、「日中戦争の時、使用した毒ガスに関連する旅があったら、私も連れて行ってほしいのですが……」と、電話をしました。

 そして、『日中友好平和学習の旅』に、参加することになったのでした。

 この旅で、強烈な印象となって残った、いくつかのシーンがあります。一つは、「侵華日軍南京屠殺遇難同胞紀念館」の職員で日本語通訳の常嫦さんとの出会いでした。彼女は、まだ、四十代ではないでしょうか。「私は、日本人が嫌いでした。でも、本多勝一さんたちが、南京の惨劇を掘り起こす調査に、通訳としてつきあって、日本人を嫌いと決めるのはよくないと思いました。私は、企業の通訳として、収入の多い仕事に就いていました。でも、今、ここで働くことが大切と思っています。」私は、彼女をもっと知りたいと思いました。戦争の体験者ではない彼女の話が、私に響いてきたからです。戦争の体験者ではない私にも、戦争を伝える役目があると考えているので、彼女に興味を持ったのです。

 もう一つは、旅の同行者で、少年の頃、大久野島で働いた藤本安馬さんの頭を下げる姿です。行く先々で、彼は、「自分は毒ガスを作りました」と、告白するのです。そして、深く礼をするのです。昨年の夏、胃を全摘したという彼は、娘の緑さんに付き添われ、中国への旅はこれが最後のチャンスと、リュックに薬をわんさか詰めて参加していました。七十八歳です。この旅の性質からか、それぞれの訪問先には、取材が入りました。そのインタビューを受けて、彼は、今の胸中を語るのです。私は、年老いた彼の頭を下げる姿に、ああ……と、胸を突かれる感じと、揺らぎない場所からする告白に、ある種の違和感を覚え、落ち着かない感じとを、併せ持っている自分を見つめていました。

 まだまだ、心に留まっているシーンが、あります。でも、もう、書くスペースがありません。いつの日か、この旅をきちんと書こうと思います。そして、私が捕らえた「戦争」を、一緒に考えてもらえたらと思っています。