劉振起  1974.10.20被毒

劉 振起の証言

黒龍江省航道局勤務

劉振起さん

私は劉振起といいます。その当時、私はまだ22歳でした。22歳というと人生ですばらしい時期ではないですか。その時、私はまだ結婚していませんでした。私はその影響で、30歳まで結婚ができませんでした。そのために3回、結婚に失敗しました。結婚をしたとき、花嫁さんは私が中毒ということは知りませんでした。だから、結婚できたと思っています。

 そのような病気にかかってから2年位仕事を休んでいました。仕事をしなければ、給料がないし、お金がないから花嫁さん探すのは無理です。しようがないから、身体がとても悪くてもがまんして同じ会社(黒龍江省航道局)にもどって、仕事を始めました。

 しかし、身体がすごく弱くなっていて、重い仕事はできず軽い仕事をしか出来なくなりました。身体がよくないから仕事の方面では、例えば私と同じ位の年齢で、その当時会社に入った人たちはみな私より上になっています。今でも、私は地位もそのままですし、給料も低くいです。今も手はそんなによく使えないし、よく麻痺したりします。喉の方もよくかわくし、脇の下によくできものができたりします。それで、精神的にも影響がでています。

 周りからの差別やいじめは李さんと同じようにあります。周りから軽蔑されます。毒ガス被害を受けていることを知ったり、わかったりするとみんなすぐ逃げてしまいます。

 妻に私が毒ガスの中毒だとわかったのは、1994年のことです。記者のインタビューを受けるとき、家族も一緒に連れて行きました。その時、初めて妻は知ったんです。妻は病気にかかっていることはわかっていたが、何の病気かは知らなかったんです。先に知っていたら結婚してくれなかったでしょう。今は、もう10数年一緒に生活しているし、子どもがもう14歳になっています。しようがないので、そのまま一緒に生活しています。妻や子どもには影響はでていません。中毒になったのは22歳の時、30歳で結婚したので8年もたっていたからだと思います。

 ようするに、私は毒ガス弾被害者になり、自分の一生の生活・未来は全部なくなりました。長い間の病気で痛みや生活が苦しいから、日本を恨んでいます。ぜひ、李さんの日本政府へのお願いが早く実現することを祈っています。