1大久野島1927~1947

忠海兵器製造所建設

明治時代の大久野島の状況がわかるのは、「大久野島地質図」(「毒ガス島の歴史─大久野島」村上初一編集参照)です。一八七七年(明治一〇年)に忠海町が行政で使った物ですが、この地図によりますと、大江谷付近に田地、田畑と民有地があって、ため池(現在の貯水池)もありました。
大久野島が軍事的にクローズアップしたのは、一九〇〇年(明治三四年)、日清戦争当時です。芸予要塞として、島の三カ所に大砲が据えられました。

 一九二七年(昭和二年)、大久野島に化学兵器製造機関を設けることが決まります。その当時の写真(「毒ガス島の歴史─大久野島」参照)を見ると、地鎮祭があって、土地造成、工場建設と進んだことがわかります。そして、一九二九年(昭和四年)に東京第二陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所が開設され、毒ガス製造が始まりました。開所式の写真も記念すべきもので、今は亡くなった岡山の服部さんが提供してくれたものです。服部さんは、工場開設の日の祝賀会に参加しています。広島県知事、あるいは広島第五師団長もおられたようです。

サイローム 毒ガス製造のはじまり

サイロームという木箱があります。サイロームこそ、大久野島の毒ガス製造のはじめと受けとめております。また勤めていたころにも聞いています。サイロームというのは、意味があります。瀬戸内海は島と名が付くのは三〇〇〇あるそうです。その中の約八〇〇は、人が住んでいる島だそうです。その八〇〇島で、島民は柑橘の栽培をして生計を立てています。要するにみかん、ネーブル、ハッサクを作っています。ところが、柑橘類に一番付着しやすいのがヤノネカイガラムシです。これが付くとみかんの木が全滅になりかねないそうで、何とかしてこの特効薬はないものだろうかとみかんの生産者も悩ましておるころに、みかんの木の害虫を退治する特効薬として、研究してつくり出したのが、大久野島の始まりであると聞いています。サイロームの原料は、青酸です。ここにサイローム缶という小さいものがありますが、この中に液体青酸を「珪藻土」に吸着させて、缶詰にしています。これをみかんの木をごっそり包んでその中で缶を開けると、青酸ガスが気化します。その青酸ガスによって貝がら虫が死ぬ、殺虫剤として最高のもんじゃったそうです。また、大きな船などの倉庫で使われ、ネズミ退治の特効薬だったそうです。
 サイロームの箱の中に小さい缶が九〇缶ぐらい詰まっています。このサイロームの箱は、資料館が始まって二年目ぐらいだったと思いますが、ある人が重たそうにこの箱を運んできました。「何ですか。」と聞いたら「こういうものはうちの畑の納屋にあった。祖父さんの時代からあったんで、まあ、なかみは開けてない。」ということで、「造兵廠と書いてあるから、これは大久野島に関係があるんじゃないかと思って、資料館ができたから、持っていったら処理してくれるんじゃないかと思って、持ってきた。」その人は名前も住所も告げずに「とにかくこれをとってください。」と 置いて帰ったような状況でした。私はこのサイロームという読んだら、すぐに昔の大久野島の問題がありましたから、すぐに、資料館の裏山で開けたんです。まさしくあれが出てきましてね。これは大変なことだということで。県の方へ電話で連絡しまして、県の方がこれを処理してくれました。記念に箱と缶だけは置いてもらいました。こういうことが大久野島の歴史の始まりを示すもの、毒ガス製造の歴史を示すものであるとみなさんに伝えてきました。

大久野島で製造された毒ガス

大久野島では、どんな毒ガスを製造したのでしょうか。陸軍は、黄色、茶色、赤色、緑色という色で種類を示しております。皮膚障害をおもに与えて、ゆくゆくは内部傷害を起こすものは、イペリット、ルイサイト、これは液体の毒ガスです。黄一号、黄二号と呼ばれていました。イペリット・ルイサイトというものがどのように戦争に使われたのかは、ここでは工員たちも知りませんでした。これを詰め込むのは、九州の曽根でやっています。だからここでは、内容物の毒ガスをつくっていたような状況です。
サイロームというのははじめは殺虫剤だったんですが、これが変じて即戦用毒ガスとなりました。それが茶一号です。いわゆる青酸です。四〇〇㏄のガラス瓶に詰めて、ガラス瓶を敵になげる。私が養成工としてここで働いておるころに、「ちび」といいましたが、青酸ガスを瓶に詰めたものを、投げつける練習をやらされた思い出があります。 
緑は、クロロアセトフェノンで催涙ガスです。忠海製造所の開所当時から生産されていたもので、茶一号工室の手前に緑一号工室がありました。これは、暴動鎮圧に現在でも使われているものです。
毒ガス資料館に、九七式単煙発煙と書かれた木箱があります。これは発煙筒の箱です。その隣の木箱(運搬箱)には、何かわかりませんが英語でどうも記号のようなもの、ILD(2)と書かれてあります。これは、赤筒を入れていたものです。赤筒というものは毒ガスという秘密兵器ですから、記号だけつけたのでしょう。そういうところもうかがえます。       
大赤筒の箱も展示してあります。外筒があってその中に内筒があって、この中にくしゃみ剤を入れて、中で燃やして気化ガスを発生させて、その気化ガスを吸い込みますと、狂い死にします。
くしゃみ剤は、ジフェニール・シアン・アルシン、赤一号と呼ばれていました。中間原料、ジフェニールヒ酸は、林茂氏が製造に成功したので、秘匿名はシモリンでした。ふりがなを反対から読んでみてください。赤筒というのは燃焼しないと毒性はありません。だから筒の中で燃焼させて、気化ガスを出して吸わせます。それを吸いますと、狂い死にします。服部氏によると、これほど悲惨な毒物はないんだということです。けれども、赤筒は毒ガスではない、毒ガスの中に入らないといいます。けれども、わたしらは、この赤筒は猛毒である、恐ろしいものだと思います。

A3工室(ルイサイト・黄2号)

イペリット・ルイサイトの工場内部の写真を見るに、白いタンクのようなものがあります。瀬戸物です。この工場にはたくさん瀬戸物が使われています。なぜ、毒ガスをつくるのに瀬戸物が使われるかといいますと、色々考える人がいますね。「工場では瀬戸物を機械に使ったんです。」というと、「それはそうでしょう。戦争中だから、金属が不足しとるから、みな瀬戸物でやったんでしょう。」という言葉が先に返ってきます。そうだったのかもしれませんが、やっぱり毒ガスというものは、いろんな物質が化合してできるものであって、化学反応を促進する、あるいは、化学反応を妨害するものは、使えません。金属類は妨害することがあるので、反応を有効にさせるために瀬戸物が使われた、と聞いています。その証拠に、とぐろを巻いたような冷却器も瀬戸物です。これは、イペリット・ルイサイトをつくる最終段階で使うものです。毒ガスを蒸留したときには、気体で出てきます。摂氏二三〇度ぐらいの気体でガスが発生しているのを、冷却器の管に通して、全体を冷やします。高熱のガスを冷却すと、液体になる。その液体がいわゆるイペリット・ルイサイトというものです。これは液体ですから、毒ガス資料館の入り口にある鋼鉄の容器、黄剤の容器に入れて運ぶようになっています。この毒液を九州の曽根というところに持っていって、そこで大砲の弾、あるいは爆弾、戦後処理の写真にあるように、この弾に詰め込んで、専用兵器として使われるんです。これが、化学兵器です。大久野島でつくったときには毒ガス。これは毒ガス兵器ともいいましたけど、その毒ガスを弾に詰め込んで使えるようにしたのが化学兵器と我々は聞きました。毒ガスを九州の曽根に送って化学兵器としてつくって、中国に密かに運びました。戦争中のことでもあるのでそういう内容にふれる教育はいっさい受けていません。

技能者養成所卒業式

これは、陸軍技能者養成所の卒業式の写真です。この中に、私も加わっていますが、一九四〇年(昭和一五年)、満一四歳で毒ガス工場の養成工として就職しました。あの集合写真は一枚しかないんですが、私が卒業式のときに写してもらった写真です。第一期生だったんですが、六〇名ほどが養成工として入ってきて、その年から一九四五年(昭和二〇年)年まで毎年、四〇名くらいの養成工がつぎからつぎから来たわけなんです。
さて、私がこういう風に語りながら思うことがあります。満一四歳、高等小学校を卒業するとき、大久野島で働いた人は、一〇〇人以上いました。地元の人もいたにもかかわらず、大久野島でどのようなことが行われているのか、何を製造しているのかということは全くと言っていいほどわかりませんでした。それは大久野島で、秘密で毒ガスをつくっている、それから、秘密漏洩したとき罰則の規則が非常にきびしかったからでしょう。工員もずっと話すでもなく、日時が経過していったのです。私がここに就職するときに、学校に斡旋すると同時に説明しに来た人によると、「日本は、化学工場が進歩してきたんだ。だから、日本はすべてに、化学を利用するものが多くなってくる。従って今大久野島では。化学兵器をつくっておる。」ということなんです。私が、昨日集まった小学生のみなさんに「あんたら毒ガスというのと、化学兵器とどっちが恐ろしいと思うか。」と聞いてみました。すると「それは毒ガスの方が恐ろしいよ。」と言います。私らも全くそういう考えでした。大久野島で、毒ガスをつくりょうるんじゃいうたら、たぶん来てなかったと思います。けれども、大久野島は化学兵器をつくっている、日本は、化学工場が進歩している、その化学を応用した兵器をつくっている、いうところに魅力を感じました。さらに、この化学兵器は、皇軍兵器といわれるもんだ。(皇軍兵器については、巻末資料「陸軍造兵廠技能者養成所教育綱領」第五」参照)いわゆる天皇陛下の兵器なんだ。こういうことを言われたことが、非常に胸を打ちました、「やろうで。大久野島で」という気持ちが育っていったことは確かです。それがこの陸軍養成所の卒業式の写真の中でうかがえるわけです。

戦後処理 敗戦の日から9月11日までにあったこと

今度は戦後処理についてふれてみたいと思います。ここで毒ガスをたくさんつくり、化学兵器として戦争に使った時代は一九四五年(昭和二〇年)の八月一五日で終わったわけです。さて敗戦で、いったいこの大久野島はどうなったのだろうかということです。
一九四五年(昭和二〇年)の八月一五日、ちょうどその日も天気のいい日で、平生と変わらない状況で出勤しました。午前一〇時ごろだったと思うのですが、「食堂へ、きょうは一二時ごろに集まってこい。」と言われました。そこで天皇陛下の話があるんだ。そういう会報が流れていました。ですから、半信半疑で聞いたんですが、わたしらの考えでは、いよいよ本土決戦だなともうこれで日本は最後だと思いました。待ちに待った正午が来ました。私はこの前の食堂で、ラジオで聞きましたけど、まあはっきり日本は戦争に負けたということが、聞き取れる状況じゃなかったです。そういう中で半信半疑で天皇陛下の話も聞きましたが、昼食が終わって現場へ帰ってから、通常午後一時から作業が始まるんですが、どうしたことかいっさい作業が開始になりませんし、作業の知らせもありませんでした。一体これはどうなっておるんじゃろう、あの天皇陛下の言葉は、戦争に負けたというものがおる、いや、最後の本土決戦なんじゃろう、そのために、「忍び難きを忍べ。」いうとるじゃないか。「忍びながら、最後まで頑張れ。」いうとるという人もいました。ちょうど、中尉ぐらいの軍人が、自転車で来ました。その中尉が顔色がもう変わっておりました。日本は負けたといういうことを聞いて「それみい。日本は負けたんじゃ。」そのときに「いったい村上さんあんたどうように思うたんか。」と聞かれました。正直言って私はそのときに、助かった、良いも悪いも口にはしませんでしたが、これは助かったと思いました。私はそのとき一九歳ですから、軍隊に出ていくのが当然ことでした。大久野島に働いていたので、一年の入隊延期があったのです。それで、軍隊に入らずにここで終わったのです。「明日からどうするんか。」とみな心配していましたが、この日の四時ごろになって、「通常通りに出勤してください。」と会報が流れました。それで、九月一一日まで出勤しました。その間に、何をすることもありませんでした。私は機械工だったのですが、長浦にあるサイロームの新装置がありましたが、「このあたりの工員の手であれを解体しろ。」という命令が出ました。そのときは「戦争に負けて命令もくそもあるもんかい。」と、わらわれは聞きませんでした。そしたら、えらい人がいいました。「みなさん日本人なら堂々としてください。我々はここで化学兵器をつくっていた。すなわち、毒ガス(その時初めて毒ガスと言いました)。これは国際上の問題になる。日本は戦争に負けたんだから、どこの国が日本に進駐してくるかわからない。が、こういうことはないとは思うけど、その毒ガス製造について、拘束されるんじゃないといううわさがある。」これを聞いたときに、びっくりしました。アメリカに引っぱられるか、ソ連に引っぱられるか。いいことは考えられない。そのあけの日から、「もう大久野島にいかんぞ。」という人がおったんだそうです。わしらは平気で行きました。九月一一日まで行きました。この話を聞いたときには不安になって、「危険手当も一〇割つけましょう。」といいますので、「わしは、サイローム新装置をこわすんなら、やろうじゃないか。」と装置を解体しました。まだ、完全に解体しないころに、作業にかかって一週間したころに、「一切、手をつけたらいけんのじゃ。」と中止になりました。今考えれば、ちょうどそのころが、東京でマッカーサーが日本の化学兵器についていろんなことを聞き取りされた日と合うような気がします。だから、その日から大久野島の物件に、いっさい手をつけたらいけんということになりました。だから、一一日までここへ来ても何も仕事をせずにぶらりぶらりして、これぐらい長い時間を経過したのは、初めてでした。そうようなことも敗戦のときの思い出としてあります。
敗戦になって、ここの毒ガスが約三〇〇〇トンあまりあることがわかりました。一つには海洋投棄、一つには焼却、もう一つは、赤筒類あたりは、島の防空壕に埋没するという処理をしました。。焼却処理は燃えていますから、この写真です。よくこの写真を見たとき、毒ガスを製造したときに煙が出ていたのですかと聞かれますが、工場を焼却している写真です。
ある記録を読んでみますと、大久野島で毒ガスを六六一六トンつくった。それが本当なら、駐留軍が調査した量、三〇〇〇トンあまりと比較したら、六六〇〇トンのうちの三〇〇〇トンがここにあったということは、後の三〇〇〇トンが、中国へ化学兵器として送られたのではないかと推測するわけです。中国側が訴えた中国本土で二〇〇万発の化学兵器があるというのは、ほぼあうような気もします。そういう記録がはっきりしていないだけに、日本の加害性を語ってはいけないというようなことがずっといわれていたのではないかと思います。私も自分自ら加害性を言うのではなくて、ここへ来たら苦労しながら毒ガスをつくったよのうと思いが浮かんできます。しかし、毒ガスを何のためにつくったのかと考える、自分を責めていったら、戦争の加害の面しかないことをここで、語ってきました。けれども、加害性の部分は語るべきでないという風潮があります。とにかく、この資料館では、日本の戦争の歴史、そういう時代の背景を知ることもできます。それによって平和の尊さもわかります。このぐらい大切な資料館ですから、みんなで、大事にしないといけないと思います。

毒ガス資料館建設のいきさつ

毒ガス資料館
昭和四年から昭和二〇年終戦までこの島は秘密の島として地図から抹消されていました。最盛期には従業員約五〇〇〇人、年間一二〇〇トンの各種毒ガスが製造されていました。そして、戦中戦後の製造作業、処理作業のよって、もとで多くの人が被毒がもとで亡くなりました。また後遺症に悩まされています。毒ガス戦争の実態を一人でも多くの人々に知っていただき、忌まわしい歴史を二度と繰り返すことのないよう祈りを込めて、毒ガスに関する資料を展示しています。(毒ガス資料館前に設置されていた案内板より)

  こういう趣旨のもとに資料館が開設されました。これを熟読吟味したら、戦争の被害加害の両面がある、一方的に被害だけを語るんじゃない、こういう加害性もあったんだということが書いてあります。この趣意書がある限り、戦争の加害被害を本当に語るべきです。
一九八三年(昭和五八年)、日本の化学戦争が明らかになったころに地元の行政の中から、議会活動から、日本の戦争責任を明確にすることをどう考えるべき。実は、大久野島で毒ガスをつくったということは事実である。そのことについては、樋口健二というカメラマンが二〇年来の毒ガス障害者の救済活動を中心に撮った写真を市役所のロビーで展示したじゃないかと。こういうところから、明らかに日本は化学戦争を展開した。その資料も入手することができて、大学の先生たちがこれを報道しました。一応竹原市として、大久野島に毒ガス製造の事実をみなさんに知ってもらおう、そして戦争の悲惨さを伝えていくために資料館をつくったら、どうかということが出されました。
行政はこれを受けて、日本の戦争責任を明確にすることも大切なんだが、行政側としては、傷害者の救済活動の助成これを考えていくべきだろう。そのためにも毒ガス製造の実態をみなさんに知ってもらおうということから、資料館をつくるということは、賛成だという意志表示がされました。このときから毒ガス資料館の建設が始まったと考えています。そのころから、資料館建設の趣旨を明らかにしていこうという動きがありました。この動きは傷害者団体が示した、というようにもなったり、行政姿勢がすばらしいということで、県下の行政からも竹原を賞賛する声がありました。実際に資料館へ詰めるようになって、二、三県内の行政の方が資料館へ来て、ことさらに竹原をほめて帰りました。革新行政であると。気分が、ようなりました。
それから四年ぐらいたったころに、建設は本決まりになりました。資料館を建設しようとしますと、当然島の中に建設しようということになります。一人行政がここに建てようというわけにいきません。国有地だから。これは一つ国にお伺いを立てよう。国の担当ということになると環境庁だ。それから環境庁へ、日参することになりました。環境庁としてもその趣旨に反対はしない。けれども、毒ガス資料館を建てるなら、この島の北の端っこの人目に付かんとこに立ったらどうかと持ちかけてきました。そこで、「なぜ資料館が、北に端っこの人目につかんとこに立たんといけんのか。」と傷害者は腹を立てました。そういう文言は別として、前から毒ガス資料館を建てる必要はあるが、その場所は今の貯蔵庫のわきに資料館をつくったらどうかと、これは竹原市の中で、地元でも地区労の念願としての叫びでした。だけどその叫びはなかなか実現しませんでしたが、先ほど言ったような議会活動があって、資料館の建設が、実現したことは確かです。もっとも時代がそういう時代になり、建設されましたが、私自身は腹が立ったままです。以前から、毒ガス問題を隠したいという行政だったんだということを。
もうひとつそれより前に、おこったのは、慰霊碑の建設です。資料館ができる前にできましたが、慰霊碑の建設のときも、聞いて腹の立つようなことがありました。ここは国立公園だから、おじぞうさんみたいなのをたてては困る。記念碑のようなものならいいでしょう。それでああいうふうになったのです。そうでなくても、慰霊碑ですから、あのようなものになっただろうと思います。その時も国立公園のお地蔵さんをたててはいけないという規則があるのかと腹を立てました。
資料の収集は、一番骨の折れることでした。建設の趣旨とか建設計画は、机上でできますが、資料がないと資料館になりません。まず資料収集だと地元の議員さんから提案があって、市役所にいくらかの資料がある。その中に下着類のふんどしまであると聞いていました。こういうことで、行政側が資料収集に向かうべきではないかということもありました。それから行政が、資料収集に奔走しました。そしたら何十点かそろったものが、倉敷のコレクターのところにありました。金額にしたら、毒ガス製造の書類とか毒ガス戦争の実態を写した写真とか防毒服とか、このようなものぜんぶ合わせて、二七万ぐらいかかりました。一応これでいこうということになりました。竹原市の担当課の中に、毒ガスの戦後処理のときに写した写真が四〇枚ぐらい、サービス版で複製の複製でありました。それを頼りに私がこうて出ました。材料だけでいい、技術料はいらない。そして写真をつくり出したのです。七〇枚ぐらいつくりました。それを資料のバックに資料館に展示して、資料館の展示が格好が付いたわけです。
地鎮祭は一九八七年の七月に行われました。そして一九八八年の四月一六日にオープンしました。その時館長に就任しました。はじめは、管理人でしたが、どの方も来る人が館長さん館長さんといわれるものですから、勢いづいて、館長ということにしてくれんかと頼みました。それはいいことだということで、別に館長になったからといって、管理手当をあげるということはありませんでしたが、館長になったのが一年後でした。それから本格的にやり始めました。主に化学戦争の写真などは、呉の在住の人が寄付してくれたスクラップブックの中にありました。資料館には全体で四〇〇点の資料があります。一枚の書類が一点になります。展示しているのは、整理してありますが、かなりが、お蔵入りしている、考え方が違うということでお蔵入りした資料もあります。例えば、以前は赤筒を使用する資料を展示していたのですが。考え方の違いで展示しないのは、好ましいことではないように思います。