大久野島の語りをもう少し続けていきたい・大川淳三

<時期について>
(1)生年月日;1925年8月7日 現在(71歳)
(2)期  間 
・1940年(昭和15年)4月1日;14歳
    陸軍造兵廠技能者養成所忠海分所(第1期生)
    養成工として入所、軍属となる。
・1943年3月27日;技能者養成所卒業
・1943年4月1日~1945年9月1日;工務係の溶接工

<入所前の当時の状況>
 忠海には郡役所があり、当時豊田郡の中心だった。不況の最中に大久野島の下請け仕事が入ってきて活気がで、好景気にわいた。
 これが毒ガスの工場であるということがわかったのは、1929(昭和4)年である。昭和の初年くらいから、護岸工事で忠海の方が下請けをして設けている。北部は難工事だった。
 大正の不況を大久野島によって乗り切り、忠海町はうるおった。ありがたい島であった。忠海は旅館、飲食、飲み屋、映画館、遊郭など活気があった。製品を搬入したり、搬出したりするころになると(1930年以降)運輸業が発展する。忠海の郡所に物を持っていくため、日本通運が下請けをした。私の父が洗濯をする仕事をしていたので、色町あたりは活気があったことを覚えている。

 大正時代は、他の地方が不況のときだから特に忠海が目立った。近郷の人びとが忠海をめがけてきた。そういう余韻を残したときに工場ができたので、大久野島に工場があるから行こうということになった。大久野島に行ったらたくさんの給料が貰える。毒ガスとかいう意識はなかった。

<入所までの経緯>
 工場長が学校に来て、教室で説明を受けた。「給料もらいながら勉強ができますよ。将来は幹部工員ですよ。職員にも道が開けていますよ。」と言った。毒ガスを製造するという言葉はなかった。尋常高等小学校2年生のときの成績の良いものは、ほとんど養成工を受験した。
 1940年4月1日、忠海尋常高等小学校高等科2年生を卒業後、すぐに入所した。忠海に住んでいたということもあるが、家庭環境が軍隊に志願して出られる状況ではなかった。父親を小学6年生のときに亡くしていた。しかも、男ばかりの5人兄弟であった。5才違いの兄が兵隊にでており、弟が3人いたから経済的に生活を助けるため働かなければならなかった。兄は満州鉄道に入って、その後兵隊に行った。
 入所の理由は、母親が大久野島で生まれていたので、自分の母の故郷に行かれる。なんといっても忠海から通勤ができる場所であること。お金をもらいながら学校に行けて、勉強をさせてもらう。これらのことから志願した。また、忠海に生まれたら、大久野島で働くものという思いを母親は持っていた。多くの忠海の人も同様に思っていた。
 我々は戦時教育を受けている。兵隊になり勇ましく戦うことが美徳であると教えられた。また、日本にとって都合の悪いことは教えられなかった。まして働く人は一番近い場所でしかも給料をたくさんいただけて、国際法に違反していることは知らない。何も考えず給料の高い方に来た。悪いという意識はない。ただ戦争に勝つためにはどんなことにも辛抱して働けばよいということだった。
 初めて給料を貰ったときは、うれしかった。将来は職員になる資格があるので喜んだ。
 敗戦の言葉も大久野島で聞いた。同級生60名の中で、敗戦まで大久野島で働いていた数少ない養成工出身の一人である。

<養成所について>
 大久野島に入所するとき、「大久野島でおきる一切のことは、家庭に帰っても話しません」と誓約書を書いた。誰が入所するときにもすべての人が書いた。秘密を保つべき性格の工場だった。
 1年間は全員宿舎(駅の前)に入った。徴用工が1941年11月20日に360人宿舎に入ってきたので、家から通うことになった。家から通えない人は下宿をしたり、本郷の人は自転車で通った。
 工員の勤務時間は朝8時から夜5時までが定時である。船はそれに間に合うようにでていた。当時昼夜3交代制を引いていたので、残業手当が工員にはあった。わたしたち養成工が島に通うのは工員を送った後、その船が引き返して通った。
 入学当初(1940年4月)は庶務係の裏の部屋で勉強していた。その後(1940年7月)、養成所の建物ができたので移った。情けなかったのは出席番号が1番で教練や剣道、実務訓練、防火訓練、銃剣術など最初にするので損をした記憶がある。養成所の成績を、指導員が家に来られて母親に伝えてくれたことがある。
 養成工での学習内容は、1年の間は大久野島にある各現場でどんなものをどのように製造しているかを、午前中教育を受けた後に、午後実習課程でその工場の作業工程,製造工程,材料等を見て回る。実習のほとんどは工員が作業しているのを見に行くだけである。しかし、実際は危険な工場は見学だけだが、赤筒とか発煙筒という危険でないところは作業もしている。

 大久野島で製造された毒ガス兵器は「人道上許されるべき通常兵器」と教えられていた。
 養成工は実習課程で見ているのでどこで何が作られているか分かっているが、現場の工員は自分の部所しか知らない人が多い。若いのに現場に行ってないから大久野島のことは分からないじゃないかと言われるが、各現場に出向いていっている。
 養成工の中で、1学期の成績が良いものは見習工となった。見習工(60人中16人)は、午前・午後とも勉強し、幹部工員を養成することを目的にしていた。養成工(44人)は、午前中勉強で、午後実習をした。養成工と見習工では教室も違っていた。仕事の中身は、養成工の方が勉強をしながら実習をしているので腕が確かだった。見習工は技術はないが給料は高かった。私は見習工で給料や待遇で恵まれた環境であったから、最後まで働くことができた。
 2年から技能試験や適性検査によって、化学・電気・機械の専門に分けられた。私は機械科の溶接班に編入された。化学方程式通り製造していくことは化学工が習得する。
 3年間の教育で現場に出たときは、見習工が職長待遇でバッチの色が空色、養成工は伍長待遇で腕章の色が緑であった。給料も違っていた。養成工が1円80銭、見習工は2円であった。給料の違いは他人には分からないが、バッチの色は目立つので、自分たちも気まずい思いをした。

<現場に出て>
 技能者養成所を卒業(1943年)後、私は4月から工務係の溶接班に入った。溶接工の仕事にはカッティング(溶断)・溶接・補修がある。工務係の中には溶接・鉛工・製缶・仕上げ・旋盤・理財・鋳物・営造・製図などがある。
 私は見習工で卒業したので、職長待遇の立場にいた。バッチの色が普通の工員は赤色、伍長クラスは緑色、職長クラスは空色、職員は黒色であった。わたしは職長クラスの空色のバッチをもらっていた。卒業した当時は将来が嘱望されていたと自分でも思った。また、被毒のため身体に慢性的な皮膚病があり、軍隊の検査でそのことが追及されることが怖かった。そして、軍隊に行くことが家族構成のことで難しかったこともあり、ここで生計を立てようという思いがあった。
 朝、島に渡ると工務係事務所で出勤簿に判を押した。そして、8時から朝礼で安全教育をした。そして各班に帰って、その日の仕事の配置が決まった。現場にでたときは段取りの良いときに休憩を取った。昼休みは12時から40分間である。うどんなどを食べるときは、食券を買うので会食所だが、弁当を持っていったときはどこでもよかった。帰るときには、定時の5時にみんなが並んで点呼を受け、ときには持っている弁当箱まで広げて見られた。なぜなら、物(くぎ・マッチなど)を持ち帰る人がいたからだ。工務係は事務所前の広場で点呼を受けた。
 昼夜3交代制で残業手当が入って、深夜手当てや危険手当(6割加給はA2工室ドイツ式イペリット・A4工室フランス式イペリット・A3工室ルイサイト・茶1工室青酸、4割加給は緑工室催涙性ガス・赤1工室くしゃみ性ガス、2割加給は女性でも緑工室催涙性ガスの充填作業)をもらった。倉庫係も加給があった。事務所(庶務・会計)にいたら危険手当てはない。また,守衛・消防・医務・養成工は加給はなかった。現場の人はたくさんもらったが、戦後多くの人が死んでいった。工務係は、その日の仕事場により加給があった。給料日のときには加給がいくらあるか先に考えていた。
 賞与が出たときは国債を給料天引きで買わされた。その国債は証書があり資料館の中にもある。それは敗戦により無効になった。

 昼夜3交代制は、全部の工員ではない。イペリットA2・A4は7時間、ルイサイト11時間の製造工程が必要である。前の人が仕込んで加熱をして、次の人が行って何時間かして、製品にして収缶作業し搬出し、次の材料を持ってきて仕込んで熱をかけて、次の人が来るので3交代制が必要であった。
 赤1工室では半製品のシモリンに青化ソーダを混ぜて攪拌することによりジフェニールシアンアルシンを製造した。攪拌釜といった。同じ製造釜でもA3にいくと化成釜、A2・A4が熟成釜という。
 イペリットやルイサイトは、製造するあいだ熱をかけて熟成させるが、機械は止めずに、毒ガスが発生する状態の中で補修作業をする。A2は上の山の緑を枯らすくらいの異臭のするガスを出すが、風管(鉄でできており,A2は原料のほとんどが塩酸であるからすごく鉄がいたむ)が痛んだものにパテをあて修理をする。修理だから身体は痛んでいないはずだと言う人もいるが、そんなことはない。

 職場によると1960年までにほとんど亡くなったところもある。配管(パイプを加工)・製缶(しあげ)・溶接・鉛工・営繕(大工)などが体がやられることが多かった。防毒面をつけているが、朝行って帰るだけで体が痛んでいる。
 製缶士は化成ガマの上にある排風管を加工して一カ所に集めて煙道で有害ガスを廃棄する。排風管は毒ガス製造中での作業であった。製品を作っているのだから、機械を止めるわけには行かない。鉄が腐食する。イペリットは原料が塩酸で鉄を腐食しやすい性質があるので、作業をしながら補修をする。パテあてと言って、パテをあてて悪い空気がでているなかで作業をする。朝出るときは普通の色の顔であるが、夜帰ると黒くなる。有毒なガスがまともに体に受けたためである。ほとんどの溶接工がなくなっている。年配の熟練工は被毒のためにほとんど死んでいる。
 鉛工も危険であった。パイプ屋,仕上げ屋なども同じであった。鋳物工場も悪い場所で大変だったと思う。鉛の工員は360度で溶融する。さん水素鉛温度の高いもので鉄を溶かしたが,鉛を使う人は水素炎だけで鉛を溶かした。鉛を使うところは全部悪いところでまともの個所はない。そういう職場の人はほとんど死んでいる。
 技術者の工務係は操業中に仕事をし、操業をストップして補修をするわけではないので、工場で勤めている以上に傷んでいる。

 防毒面の仕組みは、下に活性炭を詰めた箱を入れているだけである。息は首のところの弁からぷっぷっぷっぷっと呼気がでる。補修作業のときは、どんな危険な個所にも行った。
 資料館に防毒着があるが、あれはこの島で使われたものと違う。実際はゴムズボンの下のふくらはぎのところで長靴にいれ、あまったズボンを長靴の上にかぶせた。防毒面をかぶり、ひじより少し長いゴム手袋をつけ、頭のふうどを含んだ手首までの防毒着を着た。 作業がすむと休憩室の前にさらし粉を水でといたものの中にはいって、ゴム長の毒性のものを刷毛で退けてきれいにする。長靴をひっくりかえすと汗が出てくる。ゴムだから汗はどこにもにげられない。歩くとたまった汗がピチャピチャ音がした。しかし、ガスはズボンと長靴の間や、手袋と上着の間から入ってくることがあるので股間やわきの下をやられていた。顔は黒くなることもあった。
 イペリットの工場に行くときは食塩をもっていった。休憩時間に飲んで塩分の補給をしないと脱水症状が起こる。釜の中は熱いし、火を使うのでたまらなかった。
 皮膚病にもかなりなった。夏は休憩で外に出ると裸になれたが、冬はまだ悪い。下着が濡れたら防毒着を脱いで、交換の下着と交換しなければならない。今でも雨降りのとき合羽を着たらべとっとするがそれと同じである。下着を変えて部屋の中をぬくめて、休憩室に入るときは除毒して初めて休憩室に入ることができる。休憩室はさらし粉の臭いにおいがただよっていた。同じ工場の中に休憩室があった。
 仕事は休憩の時間もあるからきついことはなかった。一服の時間が長くないとからだがもたなかったのである。
 日の長い夏場は残業もあるので家に帰ったらすぐに寝ていた。休みは一週間に一度で夏休みはなかったように記憶している。卒業してからは時代が休んむという時代ではなかったので休まなかった。大久野島で働いている人でも軍隊にどんどんとられていった。だから「私は大久野島にいました」と言われても、実質的に6年も大久野島におられた方はほとんどいない。工場へ入って体がじょじょに痛んでくる。体がかなり痛んだ時点で,当時召集が行われ,予備役はほとんど軍にでていった。だからそれを埋めるために徴用制度を設け、1941(昭和16)年11月、360人の徴用工が広島県内から集められて来た。だから徴用工は2年間しかいなかったが危険なところ(A2・A4・A3)などに行かされたので、100%認定になっていると思う。
 徴用工は本来危ないところに入れようということで連れて来ている。股間をやられ、てんかふが必要の状態になり、色が黒くなると発煙筒工場に行かせて作業をさせてみたり、医務室の用務係をさせてみたり、物を運んだり、連絡員をしたりした。しかし、直るだろうと思った体はもとにもどらなかった。今、現存している方は少ない。

 大久野島の毒ガス製造が忙しかったのは、1931(昭和6)年に満州事変が始まって、日中戦争が始まったのが1937(昭和11)年、その間と、日中戦争のため中国大陸に持っていく時期の1942(昭和17)年ころまでが一番忙しい時期だった。1943(昭和18)年12月8日からは材料がなくなって、敗戦前後は大久野島も静かになった。
 徴兵検査は、1944年に受けて甲種合格だった。忠海の同級生の中で3人しかいなかった。大久野島は軍属で軍人に準ずる。だから、入隊日が遅れたのではないかと思う。
 大久野島に勤めたら軍属と言われた。軍人に準ずるといわれ、特別体格のよい人は召集で兵隊に行ったが、普通の人は大久野島にいれば兵隊にとられることはなかった。自分から求めていったら別だが。養成所で学んでいる人で、卒業して大久野島で働くと体が痛んで死んでいくと思い、兵隊に行った人がいた。
 しかし、養成工の一期生が卒業した1943(昭和18)年ころから、海上封鎖のため材料が入らなくなり、毒ガス製造は下向きになっていった。それは硝酸・硫酸・塩酸などが主成分なので大東亜戦争からは外国から材料が入ってこなかった。また、もう一つの理由として、1942年7月、アメリカが「中国で国際法を違反して使っている。これはすなわちアメリカを相手に使っていると見なす。」と警告してきた。中国で使ったことをアメリカが指摘し、報復をすると言う警告から作らなくなったのであろう。しかし、備蓄のできあがった毒ガス(糜爛性ガス)は3000トンあった。
 風船爆弾を作ったときは毒ガス製造の下火の状態であった。忠海製造所は東京第2陸軍造兵所の配下であり、火薬工場なのでほかのところに転属になっている。

 毒ガス製造が下火になってから技術を持った者は、1945(昭和20)年までいてもよその工場に手伝いに行っている。熊本の荒尾製造所(火薬の製造工場建設)や東京の板橋(板橋製造所)・京都宇治(宇治製造所)・群馬(岩鼻製造所)大分(坂の市製造所)には増設工事応援出張など、それぞれが出張している。わたしは荒尾製造所に火薬製造装置を設置しに2・3カ月出張した。毒ガス製造が下火になった時点で、宇治の製造所へ出張ではなく転属になった人もいる。養成所の2期生や3期生は転属している。
 戦時中の1944年秋、赤1号工室を火薬工場に改装した。戦後、その火薬工場を改装し、帝人の農薬の製造工場を作る工事をした。約2カ月間あった。火薬工場は外の建物は生かしたが、中だけ改装した。戦後の毒ガス処理はしていない。一部のサイローム工場(遊休施設)も火薬の工場に代わった。
 また、敗戦後、製氷工場解体が2カ月あった。製氷装置をばらして船に積んだ。わたしは溶接の仕事で、カッティングをして装置を船に積めるくらいの大きさ(2?くらい)に切った。長浦の桟橋の船まで持って行き処分した。退所後も、約半年働いた。職歴は6年になる。

<危険な出来事>

 赤1工室の工場内を改装するときは防毒面をしていたが、外なので安心をして防毒面をしていなかった。私は溶接工なので、鉄を加熱してカッティングする。その切った熱い鉄板を下に落とし、土に染み込んでいたジフェニールシアンアルシン(亜ヒ酸)が気化し、それを吸って被毒している。ジフェニールシアンアルシンは加熱しないと気化しない。少し吸っただけだが、もとにかえるには3時間くらいかかった。 
 私は溶接の仕事をA2工室でしていたときに被毒をし、おしりに障害の跡が残っている。化成ガマをチェンブロックでもちあげ加熱缶の鉄のパイプがよく破れるので、破れた個所を補修していた。パイプが腐食して蒸気が漏れる。そのときには化成ガマを持ち上げガスバーナーで破れた個所を補修していた。防毒面をつけ防毒着を着るのでガスバーナーでの補修は脱水症状等で命取りの作業であった。夏に釜の中に入り脱水症状の怖さを初めて知った。作業が終わり見える範囲は除毒したが、後ろの見えないところは除毒ができなかった。あとから、おしりを被毒していることに気がついた。左のおしりに20?くらいの水泡ができ、現在でも傷が残っている。水泡の中の水は、医務室で注射器により少しずつ抜いていく。少しずつ抜かなければ中に皮がはっていないからである。毎日抜いて1週間くらいかかった。2日くらいは医療免除になり仕事が休まれた。

 顔の色の黒い(ガス焼け)おじさんが股間をただれさせたり、わきの下をやられたりしていた。ガス焼けもあるが、防毒面をつけているので、汗のため皮膚病になりやすかった。防毒面をつけ防毒着をつけ長靴を履く。ただ立っているだけでなく作業をするから大変な仕事である。
 被毒し身体を痛めたら、新しい人に代わるので被害が広がっていった。そういう方はほとんどなくなっている。職場は変われなかったが、体が痛んだら比較的楽なところに配置転換していた。

 当時、一般工員は金の方が大事だった。「隣のおじさんが今月何ぼ持って帰ったよ」という感じで、つれあいから給料が高い危険な場所にいかせるくらいだった。また、工員の中には危険手当てをもらいたいために、自分から危険な場所に入れてもらうように上司にお願いをした人もいた。それくらい家族にも本人にも毒ガスに関する知識がなかったし、お金が欲しかった。工場勤めをやめて,きれいな空気を吸ったならば,もとの元気な体にもどるんだと思っていた。毒ガスについての教育を受けていないので、今工場に勤めているから痛んでいると思っていた。危険だから死ぬというような考えはなかった。
 工務係りは3年間の教育課程で何を作っているか認識していたので、作業がすんだら外に出てきれいな空気の中で休憩した。悪い環境で作業したが、防毒面の形が顔についていたのできれいな空気を吸っていたのであろう。顔の色の黒い人は肺に空気を入れていた。防毒面の形が顔に付いていたのは時間はすこしたつが治り、だから内蔵が痛んでいなかった。また,皮膚をやられている人は治るが、内蔵が悪い人は死んでいる。当時,金に釣られて作業をしたが、環境の悪い個所に出向いていったのは月に5回か6回である。今月は6割加給がなんぼあるぞと数えて楽しかった。毎日加給が付いていた人はもうこの世にほとんどいない。
 製造中に大久野島で亡くなったのは3名だが、ほかは戦後に死んでいる。しかし,毒ガスにやられ医務解雇になった人たちのその後は不明である。

<毒ガスや戦争に対する認識>

 中国大陸での毒ガス使用について、次のようなことを教官の口から聞いた。日本軍は防毒面をして、中国軍は防毒面をしていない。だから赤筒を発射した、煙幕をはった「今進んでいったらくるしんでいるので絶対勝てる」と言っても、毒ガスということを知っているので怖がって日本の兵隊は進めなかったと教官から聞いた。しかし、当時、毒ガスに対する教育は「ここで作るものは通常兵器である。」と教えられてきていたので、どういう感じもしなかった。
 日本は中国大陸に進行した時点から経済制裁を受けている。油や鉄がはいらない。物を作るにも鉄がなかったらできない。苦しまぎれにインドネシアにある油とかスクラップなどがほしかった。真珠湾のことを勉強した。日本はやむにやむをえず戦争をした。だから日本が正しい、アメリカは汚いと勉強した。満州は家の土地を長男に与えるので,次男は満州で土地を増やせと言う次男対策というのは後から聞いた。
 満州事変、大東亜共栄圏すべて聖戦と教えられた。日露戦争・日清戦争すべて勝っている。日本は戦争をしたら必ず勝つんだ。実際にシンガポールは陥落する。プリンスは沈没する。真珠湾の奇襲は成功すて軍艦はたくさん沈めた。こりゃまたやったわいという感じだった。
 しかし、私は敗戦になり嬉しかった。当時は軍事教育で軍隊に入ってお国のために尽くすというのが普通だった。私は仕事で皮膚の弱いところに皮膚病ができていたが、敗戦で仕事をしなければ、もうこんな症状は出なくなるから嬉しいと思った。また、敗戦になる頃は周囲の状況から日本の戦況は悪かった。大久野島の上空はB29の編隊がどうどうと飛んでいたので日本は負けると思っていた。しかし、負けて悔しいとの思いはあった。
 戦後、毒ガス障害の症状が出てきた人はその時期が非常に悪かった。収入がない、病院がない、医者がいない、薬がない、食料がない。自分の着ているものを売ってヤミ米を買って一日一日を生きてきた。そのとき、一家を支えていた働きがしらをなくしていく。
 となりのおじさんはA2に勤めていた。毎晩せいてせいて(せきこんで)今日は静かだなと思ったら、死んでいた。「お父さんはやっと楽になった。せくこともない、苦しい呼吸もしなくていい。」そのようにつれあいはいってその時は泣かなかった。すわったまま死んでいく。すわってたんがつまったら背中をたたいてたんをだす。そして死んでいく。

 中国で毒ガスでやられた人がいかにくるしかったかが,わかる体験をした。仕事をしていたとき赤1がもれてきた。赤1はくしゃみ製のガスでのどがえぐられるようなすごい衝撃で、「海の方で休んでいろ、砂糖水を持っていってあげるから。」と言われたことがある。その状態を中国の人は受けている。中国で使われたのはほとんどが赤1で、衝撃を受け呼吸ができなくなる。糜爛製のガスは日本が進行するときに邪魔になる。山の中に敵が入ったときに使用したと習志野学校で言っている。日本の調査団を調べに言った人はさらし粉があったが何を使っていたのかと聞かれたが、糜爛製ガスの中和剤である。日本は進軍するときに糜爛製のガスを使ったら中和して進行していく。
 中国大陸には毒ガス遺棄弾が200万発残っているといわれるが、たくさん残っている可能性があるものは、糜爛製のガスであろう。戦時中に使ったのは赤筒だから。しかも,糜爛製のガスの先には起爆剤がつまっている。イペリットやルイサイトは成分が塩酸がほとんどだから、内部からも腐食がおきる、外部からも腐食がおきるだろう。砲弾の厚みは10から15mmといわれるが非常に危険な状態であると思う。よく原形を保っているなと思う。早く処理してほしい。持って帰っても処理できない。当時は海に捨てることは通用したが、今は環境破壊である。化学物質を燃焼してどれだけ影響がおきるか。核兵器と同じで作るには作ったがあとしまつと治療が問題である。また、頭にある起爆剤はどのようにするのか。また、まだ残っているであろう赤弾は現在問題になっているが,原料にヒ素を使っているので、それが漏れて、ヒ素中毒が問題である。
 核兵器も人類を破滅させる量があるが、これをどのように処理していくか、これと同じで化学兵器もこれからの人たちがどのようにこれを処理していくのだろうか心配である。

<毒ガス障害者の認定について>
 私は呼吸器に障害があったので、1978年に認定になった。ずいぶん早い認定である。当時、呼吸障害(喘息)で呼吸をしたら「ヒイヒイ」と音がした。医師から「おたくは寝るときに寝にくいことはないですか。」と言われるくらいのどが痛たんでいた。また、心臓の疾患、肺のレントゲンではたくさんチェックを入れられた。糖尿病も患い、糖尿病からきた腎臓病は透析一歩前まできていた。
 当時の認定資格は呼吸器に重い障害があった人、または消化器系統(胃腸)に重い障害があった人である。申請書を本人が国に提出し、国は調査委員会に調査を依頼する。調査委員会(6人;大久野島に詳しい人)では申請書の内容を確認し、国に返す。次に、国から審査委員会(医師)に依頼し、大久野島に起因する疾病であることが認められて、国ははじめて認定をする。

<大久野島の語りをもう少し続けていきたい>

 現在は70才で、もうすぐ71才になる。体の状態はよくはない。だけどまだもっている。好きな酒やたばこをやめ夕方歩いている。10年続いている。体は自分で体調の維持に努めている。
 70才ということでこの前「毒ガス資料館」を退職になった。「ずいぶん長く生きたな。ひょっとして70才まで生きるかな。」と60才過ぎて思っていたが、早くなくなった方には申し訳ない思いである。体調が悪い悪いといわれながら、ここまで生きて幸せだった。大久野島の語りをもう少し続けていきたい。
 大久野島の毒ガス遺跡は、二度と毒ガスの過ちを起こさないためにも、残していかなければならない。そしてそれをみんなに見てもらい、それを基礎にして平和を求めていこうと言うのが道筋だと思う。
 これからの若い人に、願うことは「我々の時代は終わる。次の時代を担う人は過去の過ちをきちんと謝って、これからの世の中を作ってほしい。」と思う。
 また、わたしは子どもに、平和の大切さを説いていかなければならない。だまされて作っただけでなく、加害をしたと訴えなければならないのではないかと思う。これが現在の考え方である。


(大川淳三)