加害者としての日本ーそして広島・村上初一

演題 「加害者としての日本ーそして広島」

大久野島毒ガス資料館長 村 上 初 一

講演 広島創価学会青年部平和講座 1995年6月4日 竹原会場にて

皆さん、初めてお目にかかります。竹原会場だけに、おそらく、顔なじみの方もおられるんじゃないかと思います。私は、大久野島でこのような話を時々するんです。その時に、皆さん期待してくれまして、「村上館長が来られます。」と紹介してくれて、私が現われますと、「ありゃ、村上だったのか。」と言うようなことです。やはり郷土であればこそ、このようなことがあるんです。皆さんにお断わりしておきますが、話というものは1時間も聞こうとすると、大変につらいです。話すより、聞くほうがつらかろうと思います。私もその様なことを経験しております。勝手なようですが、話上手より聞き上手という言葉があります。今日は、皆さんの聞き上手に助けられて、私の持ち時間を過ごさせていただきます。

 50年後に繰り返された毒ガス製造

私は、今日は平和講座ということで招かれましたが、竹原をはじめ、呉、広島会場で平和講座が開かれているようです。さて、私がここで話したいのは、日本の戦争の加害性を理解していただこうということです。前もって言っておきたいのですが、日本は戦後50年、顧みますと、戦争は本当にしていません。けれども皆さんご存じのように、サリン問題が新聞、テレビを賑わしていると言うと、被害者の方には、非常に申し訳ないのですが、戦争こそしなかったが、50年前の毒ガス製造がまたもや繰り返されたということは、我々当時の毒ガス製造体験者として、あるいはまた、毒ガスの犠牲になっておられる人から考えますと、本当に慚愧に耐えない思いがします。
日本は昭和20年(1945年)8月6日と9日に、原子爆弾を落とされました。それ以来、日本は世界に呼びかけてきましたが、それにも関わらず、原子爆弾はどこかの国で実験されている。化学兵器すなわち毒ガスというものは、日本に非常に縁遠いものとして皆さんに理解されてきた。ところが、縁遠いものじゃなかった。50年間を経ると、一番皆さんに身近な物になったんです。あのサリンという物は、大久野島で造っておった毒ガスの中で一番恐ろしいものに青酸ガスがありましたが、そのガスよりも30倍くらい毒性が高いんだそうです。従って、大久野島ではサリンを造るノウハウは、その頃はありませんでした。けれどもいろいろ本を見てみますと、すでにドイツ、ロシアあたりでは、サリンを造っていた記事がありました。
現在、我々の一番身近なところから毒ガスが起こったという問題は、あの横浜で起こった刺激臭の強い事件ですね。これも私たちが体験上考えれば、塩素ガスのような気がするんです。塩素ガスというものは、ボンベに入っているときは液体なんです。それが大気中に放出されると、気体になるんです。これは呼吸器系を刺激します。これも毒なんです。けれども、この塩素ガスという物は、我々と本当に密接な関係があるんです。何かと言えば、毎日皆さんは上水道の水を安心して飲みますが、あの上水道のなかにも雑菌がおる場合があるんです。ですから、竹原市の水道局も液体塩素をある一定量決めて、水の中に落とすんです。それは、皆さんに言いますと、「あれか」と言われる「カルキ」という物です。あれは塩素なんです。その塩素によって、雑菌が殺されていくんです。そして安全な水が飲めるんです。ですから、毒であり、また薬でもあるんです。また、この塩素という物は、我々の環境にはその原料がいっぱいある。スプレーを見てください。「混ぜるな危険」と書いてあるスプレーがあります。これは、例えばトイレの便器が赤くなったとき、それを掃除するスプレー、あるいは、風呂場のタイルにカビがついたからそのカビをとろう、これのスプレーと性質が違うんです。これは事実あった話ですが、ある日おかみさんが風呂場のタイルのカビを取るのにスプレーをやったんですが、なかなか取れない。この薬は買ってからかなり経つから、効果がなくなったのではと思った。こんどは、他のスプレーを持ってきてパッとやったんです。ところが、始めやったのと、今度やったのと性質が違うんです。漂白用のと酸性用のと性質が違う。その2剤を一緒にやったもんですから、必然的に塩素ガスが発生します。風呂場はわりと風通しがよくないんです。そこで、そのおかみさんは知らず知らずの間に、塩素ガスを自分でつくって自分で吸って亡くなった。これは四国でもありましたし、長野でもあったんです。それからというものは、「混ぜるな危険」と赤い字で書いたラベルが張ってあるスプレーがあると思います。

□ 忘れてはならない「生物・化学兵器」の廃絶も

そのように、毒ガスというものは非常に簡単にできるんです。ですから、小国では貧乏人の核兵器といって、「毒ガス兵器くらい持っておかないと攻撃されたときに防ぎようがない。逆に攻めようもない。」けれども、毒ガス兵器という物は攻めていく武器ではないですね。うっかりこの毒ガスをやたらに敵にと思っておると、風向きが変わったら自分の方へ全部かかってきますから。そのような毒ガスなんですけど、それはずっと昔のことで、今頃の毒ガス兵器はバイナリー兵器と言いまして、大砲の弾に2剤を別々に詰めるんです。そして、ドンと弾が炸裂したときに、初めて2剤が化合して猛毒になる。このやり方が、新宿駅のトイレで袋が2つあって、1つにはシアンソーダが入っていて、1つには希硫酸が入っていた。その内の1つはすでに燃えていた。あれを放っておいたら、両方の薬品が化合するんです。これが化合してできたのが青酸ガスです。その時、このガスが発生しておったら、1万人の命は十分に亡くなるくらいの量があったそうです。
毒ガスという物は、我々の生活環境で造ろうと思えば誰でも造れるんです。ですから、余程この毒ガスを無くしていこう、化学兵器を無くしていこう、ということを皆さんが理解していくことが大事になるんです。原子爆弾はあってはならないと何度も何度も学習してきて、何度も叫ばれてきましたが、毒ガス兵器を地球上から抹殺しなくてはならないという叫びは皆さんあんまり聞いたことことがないでしょう。ここにそもそも誤りがあった。何故、その叫びがなかったか。戦後、東京裁判がありました。その裁判の結果、日本が毒ガスを使用した化学戦争については、その時裁きなしだった。免責されたんです。罪にならなかったんです。日本が化学戦争を実施した資料は全部アメリカに渡っておった。そして、知らぬ存ぜぬということで日本政府も否定し続けてきたんです。だから、毒ガスのことは語られません。

□ 国民を騙して進められた「毒ガス製造」

ところが、この歴史の裏に悲しい出来事があるんです。大久野島で毒ガスを造った人たちは昭和4年(1929年)から20年(1945年)までの16年間、大久野島の毒ガス製造工場で働きました。その間に、約6700人の人が働きました。その中には、本当にうら若い学生もいました。青年もおりました。女の人もおりました。昭和15年(1940年)でしたが、満14歳で高等小学校を卒業して私は大久野島で働くことになった。もうこの時代はすでに、日本は日中戦争を起して、その真っ最中でした。おそらく、大久野島の毒ガス製造量が一番多かったのは昭和15年・16年です。その頃はすでに工員の数も千人おりました。だんだんと戦争が厳しくなるにしたがって、今でいうボランティア活動、その当時の勤労奉仕の人、あるいは、学徒動員と言って中学校の生徒や高等女学校の生徒が来る。こういう人たちが、遠慮なしに日本のためだと教育を放棄させられて大久野島に毒ガス製造の手助けにきた。だから、一番ピークのころには、大久野島で働いていた人の数は3000人は下らなかった。その人たちが、次から次から毒ガスに蝕まれていく。私が大久野島に入った時には、非常に立派なキャッチフレーズがありました。「ここは陸軍の工場であるし、ここで働くと、君たちは高等小学校しか出られなかったが、ここで高等教育も3年間受けられる。しかも3年間の学習の間は給料もくれるんだ。そして、3年間の成績次第では中堅工員になって、普通工員より給料が高い。」というものです。まあいいことずくめでしたので、私も勢い大久野島を受験しましたら合格しました。それで大久野島に行きましたら、この近郊の高等小学校を卒業した人たちが60人ほどがおりました。大久野島の陸軍養成所の制度ができまして、1期生でした。陸軍の工場だけにうまくしておりました。入ったその日に、大きな誓約をさせるんです。「今日から20年間は、自分の理由で辞めるようなことはしません。」20年間ですよ。もう1つは軍規保護法により大久野島は絶対の秘密工場であったので、「軍規保護法を絶対に守ります。」というものでした。大きな誓約書を、入ったその日に書かされるんです。その時はまだ、大久野島が毒ガスを製造する島とは思いませんでした。ただ日本国民として日本のために兵器をつくるんだ、産業戦士だという1つの愛国心に燃えて行ったんです。ところが、だんだんと教育が進むにつれて毒ガスということがはっきりと分かりました。いろいろな教科がありました。やはり、毒ガス製造が中心でした。その教科が進むにつれて、ますます毒ガスへの恐怖がつのってくるのです。
その頃の教育のなかに、このようなのがありました。「化学兵器は人道兵器である。」大久野島には中学生がよく見学にきますが、私はこれをいつも子どもたちに話すんです。化学兵器は人道的な兵器だとは、よく分からない話ですね。それは、私たちも分からなかった。「なぜ化学兵器が人道兵器かと言えば、化学兵器は人を殺すために造るのではない。広範囲に渡って、一時的に中毒を起させるんだ。中毒を起させることによって、戦闘能力を低下させるんだ。」という論法です。「その人たちは、後には回復してくる。回復するまでに捕虜にすればよい。捕虜として回復してきたら、我が戦力として使うこともできる。敵だからといって、殺す必要はない。そして、戦闘も早く終わる。戦争を早く打ち切りたい。ところが、大砲とか機関銃は、命中するとたいてい流血の惨事がおきる。まあほとんどは死ぬだろう。かつての世界大戦のときには、こうした銃器戦闘での戦死の数と、化学兵器での戦死者の数は、何10パーセントと何パーセントの違いなんだ。」こういう比較をして教えました。何度も何度も教えて、そのことがわかるまでテストをするんです。これが陸軍の教育なんです。徹底して叩き込むんです。これが戦争教育でありました。それを何度もやるうちに、我々も洗脳というんですか、化学兵器が恐ろしいものとは思わなくなるんです。
養成所で2年生が過ぎて3年生になると、大久野島で造っておる毒ガス工場に、一通り全部実習に入るんです。実際に工員と一緒に、毒ガス製造の技術を習得するんです。この時にはっきりと分かりましたが、おおかたの工員は、毒ガスに接触して負傷した経験は2度や3度ではないようなんです。その顔の色はどうしたんですか、聞いたことがあるんです。「これか。これはガス焼けよ。」と密かな声で言ってくれました。その時に、そのおじさんが言ってくれたことが心に残ります。「あんたら若いもんが、こんな所へ来るもんじゃない。長生きはせんよ。」こんなことを言われた時には、それこそ迷いました。教育の上ではそうあるし、現場にきてその様なことを垣間見た時には、どうすればいいのかと悩みました。その時になにを思ったかというと、担任の先生が大久野島のキャッチフレーズをいちいち述べて勧めてくれた、その先生に裏切られた、だまされたという気持ちが働きました。今度クラス会でもあったら、その先生に是非言ってやろう。けれども言えないんです。ちゃんと初めに、軍規保護法により云々というやつを誓約していますから。親にも兄弟にも言えんのです。今考えますと、何故そんなことを守らなければならなかったのかと言いますが、軍罰というのがありました。へたをすると、殺されてしまいます。この恐怖があるために、めったなことでそんなことを言うことができない。泣き寝入りの状態です。戦争の最中に「これは騙されたわい。化学兵器も人道兵器ではないではないか。」これに気づいたが、これを正すことはできなかった。そういうことがあって、私たちは養成所を3年で卒業するときには、大久野島を「大苦の島」と書いて「おおくのしま」と呼びました。辞めようにも辞められんし。

□恐怖心と相互不信を煽ることで守る「毒ガス工場の秘密」

私がこういう話をするとたいてい、「そんな秘密の工場のことがよく守られたものだ。地図から消された大久野島というが、あの島を消した地図は故意に消したように白抜きになっているが、このような地図だと却って疑われるんじゃないだろうか。」というようなことを言ったりするんです。私も秘密がよくまあ徹底して守られたものだと思いましたが、守られるのがあたりまえです。忠海に憲兵隊がありまして、忠海の町全体に密かに地域ごとに、ある連絡をする人を決めていたんです。その人が報告するから、その人の近所の様子がはっきりとわかります。忠海あたりでも竹原でもそうですが、風景写真を1メートルより高い所で撮っては絶対にいけない。カメラを持って歩いているものはたいていスパイだと言われていました。その頃、ある6年生の女の子が、よそのおじさんがカメラを持って歩いていると、走っていって憲兵隊に通報した。なんと褒美をくれたそうです。だから、その子どもは学校から帰ったら海岸のほうから誰かカメラを持って写しにいっていないか、探しにいくんです。褒美をくれるからです。そういうこともやっていました。ですから、徹底的に秘密に厳守させた。そういうことをして、大久野島ではせっせと毒ガスを造っていく。
毒ガス工場は陰湿で問答無用の軍隊式ですから、まず上官に敬礼することばかり教えるんです。年寄りは、「仕事のつらさより、この訓練の方がつろうございます。」と言っていました。「私らは上官に欠礼して、いつ重営倉に放り込まれるかわからん。それを思うと、大久野島へ来て罪なことをして、戸籍が汚れるじゃろう思うたら、安心して働くこともできんのよ。」と言う人もいました。何も大久野島で上官に欠礼して重営倉に入れられても、戸籍まで汚れることはない。けれども、年寄りはその様なことを言っていました。 また、現場の様子を見て一番思ったのは、医療機関が島には1つありましたが、毎日のように100人以上の受診者がおるんです。ほとんどが外科治療。内科は慢性または急性の気管支炎です。この治療の人が多くて、その人たちは首切りになることが多いんです。病気になっても、一般のお医者には行かれんのです。絶対に行ってはいけない。全部大久野島の医療機関で診てもらう。秘密の漏洩を防ぐためです。通常の医者に行くと、「あなたは何処で働いて、何の仕事をしていますか。こういう病気になるのは。」となります。自分の体の弱いときですから、「実は先生、大久野島でこういう仕事をやりまして、・・・」と一部始終みな語ります。だから、病気になった人は、大久野島で全部治療しなさいということなんです。治療するなかで、内部障害でもいったんは治るんです。ところがまた、風邪をひいた様な状態になる。それを繰り返していくと、慢性化します。それをまた繰り返していくと、「あなたは、大久野島での就労に耐えんから、やめさい。」という解雇命令が出るんです。軍隊式というものは、なんでも命令です。どうしてもこういう人はやめなければいけんのです。退職してからが問題です。自分で退職したということになっていますから。その人が退職してから何処に勤めるか、憲兵隊がちゃんとチェックしています。追跡調査をやっています。ところが、その人の体までは追跡調査していないんです。残念ながら、医療解雇の命令がでるようでしたら、その人はたいていやめた後に死んでいるようです。ところが、大久野島はやめていますから、死んだことにはならないんです。ですから、大久野島では死亡事故がゼロという証言をするお医者さんもおりました。私は5年半おりましたから、「そんなバカなことはなかろう。私らが知っとるだけでも、3人や4人は死んだのを知っとります。」と言いたい。
昨年(1994年)の3月に、次のようなことがあったんです。大久保という私たちの化学の教官がおりました。この人は非常に真面目な人だったんですが、毒ガスに接触して顔の色が黒くなっておりました。この人が亡くなったということは聞いていたんですが、定かでなかったんです。ところが、去年の3月に突然、その人の奥さんが大久野島に来ました。82歳と言っていました。「私の主人は、実は大久野島で亡くなったんです。死亡届けは所長の名においてしてくれました。」ちゃんと戸籍謄本も見せてくれました。「だけども、死んでから私物はもちろんのこと、なんにもくれなかった。」と。「ああそうですか。私たちの教官でした。」と言うと、奥さんが懐かしがって、いっぺんにその場で泣きまして、私ももらい泣きしました。その人の名簿がちゃんと資料館に展示してあるんです。「見て下さい。これがガス班の名簿です。」とお見せしたら、奥さんはその時に、「本当に主人に会ったきがします。」と言っていました。そういうふうに、亡くなった事実も消したようなことがあるんです。まさかと思いましたが、ありました。

□ 国際社会を欺いて進められた日本の毒ガス製造

 この様に、秘密・内緒にしなければならないのは何故か。実は、大正14年(1925年)のジュネーブ協定によって、日本軍は毒ガスを戦争に使ってはいけないことになっていた。戦争に突入する前に協定に調印しましたが、今聞いてみると、このジュネーブ協定は日本が呼び掛けたんだそうです。その当時、フランスもドイツもロシアも化学兵器を持っていましたから、あまり賛成しなかったそうです。日本は「こういう化学兵器をもって戦争をするということは世界の人類の滅亡につながる。」と言って、執拗に呼び掛けたそうです。この前、神奈川大学の常石教授がテレビで言っておりました。「その当時、日本は化学兵器を持っていなかった。1925年(大正14年)です。だから、世界に呼び掛けた。もし日本が持っていたら、呼びかけるどころではない。」ということを聞いて、本当にがっかりした思いです。大久野島の資料館に来てもわかるんですが、日本が化学戦争を実施した内容がはっきりと今は文献として資料が発見されています。当時は日本が毒ガスを持っていなかったから、遠慮なく世界に呼び掛けた。調印もした。調印はしたけれども、フランスもアメリカもイギリスも批准をしていないんです。ですから、その条約はあっても効力を発しないんです。ですから、日本も遠慮なく、「これから毒ガスを造ろう。一応、世界にこのように呼び掛けたぞ。」ということで、毒ガスを造りだす。
大久野島で昭和4年(1929年)から毒ガスを製造したとは言うけれども、昭和8年(1933年)までは毒ガスらしいものはできなかった。失敗ばかりしていた。その頃の日本政府は、大久野島で毒ガスを造る前に東京の新宿で一生懸命世界各国の毒ガスのノウハウを集めて研究させていた。小規模ながら、毒ガス生産工場も新宿の百人町につくり、そこに陸軍化学研究所を置いたんです。ところが、大正12年(1923年)の関東大震災でひっくりかえった。それにも懲りずに、大正13年・14年と予算がついて一応復元した。そして、研究に研究を重ねてもまだ足りないので、ドイツからメッツナーという博士を呼び入れた。そのドイツの指導者の月給が2000円だった。昭和2年(1927年)頃です。1000円というと目のくらむような金額ですが、月給2000円でドイツからその博士を雇って毒ガスの造り方の指導を受けたということです。大久野島で毒ガスが大量生産されるようになったのは昭和8年(1933年)からです。

□ 「平和産業の仮面」の下には

 生産される毒ガスの中にサイロウムという物がありました。これは何かというと、殺虫剤またはネズミ取りなんです。その材料は青酸ガスです。大久野島で液体青酸を造って、顆粒状にした珪藻土に青酸を吸着させて、それを缶詰に詰める。1番小さいので100グラムか150グラムです。これを瀬戸内海の島々のミカン農家に売るんです。ミカンにつく虫を薫蒸するために青酸が使われたわけです。陸軍はこれをパテントにして、大久野島でどんどん造って売り、利潤を上げたという話があるんです。サイロウムは昭和15・16年頃までずっと造りつづけました。このように、うわべは平和産業的に見えるわけです。その反面、その液体青酸を殺虫剤にせずに400ccくらいの瓶につめて敵の戦車攻撃用にもしたんです。「敵の戦車に8メートルまで接近しなさい。その場でぶつけなさい。」と、このような訓練を大東亜戦争が始まった頃からどんどんやらせました。敵の戦車に8メートルまで接近したら、殺されてしまうんですから捨て身の戦法です。そういうことをやらせて、終いにはそれに「ちび」という名前をつけるんです。「ちび」でも、人を殺す威力がすごいということです。日本本土に敵が上陸してきたら、「ちび」で応戦しよう。こういう考え方であったのですから、大久野島では「ちび」の生産がどんどん行われた。ところが、国民に配る前に敗戦になったんです。

□ 多くの青春を奪った軍国主義

私は昭和18年(1943年)に養成所を卒業して現場へ出たんですが、その頃は毒ガスの生産量が横這い状態になりました。昭和12年(1937年)に日中戦争が始まり、昭和16年(1941年)には太平洋戦争が始まる。みんなは「いよいよこれからは、大久野島も猫の手も借りたいくらい忙しくなるぞ。」と思った。ところが、17年も18年も生産量は横這いらしいです。あまり忙しくないんです。それなのに、人がいっぱいくるんです。その頃の陸軍の指導で、高等小学校を卒業した男女は強制的に軍需教場に就職させられた。高等女学校を卒業した人は半強制的に嫁入り前まで工場で働かされた。それを拒む者は反社会的で非国民と見なされた。だから、女学生・中学生は学業を放棄して、大久野島にどんどんと来ました。その数たるや、1200人くらいでした。私たちは喜んだです。私たちは18歳・19歳です。その頃になんと、どっちを見ても殺風景な毒ガス工場だらけの中に、あの制服に白い鉢巻きをした女学生がくるんですから。胸がわくわくしました。本当にこの時初めて笑いが出ました。「がんばるぞ」というような。ところが、その女学生たちが何をやっているのか、守衛がいて近寄れないのでわからなかったんです。見てはいけないと言われるとよけいに見たい。ある日、所長に聞いたんです。すると、「風船爆弾を作っている。」と言うのです。「そんなばかなことをしていたら、日本は戦争に勝てないだろう。風船爆弾もなかろう。」と言いました。いや、ところがさにあらず。これはものすごい発明なんだと説明してくれた。その風船の規模は直径が10メートルの気球で、その中に水素ガスを入れてちょうど頭の堅さと同じくらいにする。それだけ水素ガスを入れるとすごい浮力を持ちます。その下に15キロの破壊爆弾をつり下げて、成層圏に飛ばすんです。偏西風にのせて、アメリカへ飛ばそうというわけです。これを日本のいたるところで作って、九〇〇〇個も揚げたんだそうです。私が知っているのは、茨城県のあるところで作っているのを聞きました。それが大久野島に伝わってくるのが、6月頃だったんです。女学生が一生懸命に作っていたのは、あれだったのかと思いました。5月にはドイツがもう降服してたんです。日独伊の三国協定のうち、イタリアもだめドイツもだめで、日本だけが世界を相手にしている。これは勝ち目はないと思っているころに風船爆弾の話でした。風船は3日3晩成層圏を流れて、3日目にアメリカの上空にさしかかるそうです。ちょうどその頃、時限爆弾が破裂して風船が裂ける。そうすると、15キロの爆弾がどんどんアメリカ本土に落ちる。これを聞いた時は拍手喝采みたいな気持ちでした。今に見ておれ、アメリカのやつお手上げになるぞと期待しているうちに7月がきました。ところが、いっこうに風船爆弾の情報が入らない。どうしたんだろうかと言っているうちに、8月6日に広島に大型爆弾が落ちたんです。8月15日に敗戦になりました。
敗戦になった日、私は大久野島におったんです。11時頃に回報が出まして、「今日の12時正午に天皇陛下の話があるから聞くように。その話が終わってから食事だ。」というんです。「やっぱり天皇陛下の話だから、ありがたい。天皇陛下はどんな声をしているのか。」と言っていました。そして、天皇陛下の声がラジオから流れてきました。しかし、雑音がひどくて、何を言っているのか分からないんです。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、なんとかかんとか」と言うのがやっと分かった。私たちは、「これはいよいよ本土決戦じゃわい。天皇陛下も覚悟したんじゃのう。そうなると、青酸ガスの『ちび』の出番だ。」と思ったものです。さて、その放送を聞いた後、2時頃に「日本は無条件降伏をした。」と聞いたんです。一瞬本当に、ものを言うものがおらなんだ。シーンとして。ただ聞こえてくるのは蝉の声だけでした。工場の運転部門は全部止まりました。その時に女子工員は泣いていました。「悔しい。」と異口同音にみな言っていました。「何じゃ、無条件降伏か。なんで毒ガスを使わんかったんじゃろうか。わしらが造った毒ガスは間にあわんかったのか。」と皆が叫んだ。毒ガスを造ることの罪意識もなにもあったもんじゃない。毒ガスをもっと使えば勝てたんじゃなかったのかと、皆が思ったのです。しかし、日本がジュネーブ協定に反して、中国で本当に毒ガスをやったということを、皆は知らなかったんです。本当にその日は、皆で敗戦の悲しみを受けたんです。やっぱり、自分たちが造った毒ガスは毒であっても、「なぜ使わなかったのか。」と忘れがたいんです。

□ 毒ガス工場の戦後処理

一夜あけましたら、「私らはどうなるんじゃろうか。働く所がなくなれば、食っていかりゃせんが。」と、男も女もそうじゃった。私はその頃、工務係といって毒ガス工場の機械を整備する仕事をしておったんです。その工務係は機械工も含めて150人くらいいたらしいんです。それを大久野島のある偉い人が集めたんですが、全部は集まりませんでした。40人か50人くらい集まりましたか。そして、「この工場が大久野島で一番の秘密工場だから、ここを解体しろ。」と命令するんです。「日本が無条件降伏して陸軍も無くなろうかというのに、今更命令でもあるまいに。」と反発しました。そうしたら、その偉い人はこう言ったんですね。「この工場で毒ガスを造った。ところが、毒ガスを造ったなかでも、君たちは工務係・機械係だから工場の設備をしたのは君たちだ。そして、他の工員たちに毒ガスを造らせた罪がある。造った方も罪があるが、造らせた方が罪は重いんだ。まあ、最悪の事態を考えてみると、駐留軍に拘束されアメリカへ引っ張っていかれるかも知れない。」というようなことを言うんです。連合軍に拘束される方の恐怖の方が強いんです。そのことが、その日のうちに大久野島の工場全体に広がりました。皆畏れましたよ。それを機に工員バッジを捨てて、「大久野島で働いた証拠になるものは、皆捨てようで。焼こうで。」ということになりました。私たちは大久野島の養成所を卒業していましたから、5・6人で徒党を組んで養成所へ行きました。「私らの名簿から何から、全部焼いてくれ。」と言いましたら、「心配するな。もう1週間もすれば命令がでるから、全部焼く。」とのことであった。実際、大久野島でもそれから1週間したら焼きました。そして、おおかたの工員は9月11日で解雇になりました。代表者だけは残って連合軍を迎えたんです。そして、翌年の5月からその次の5月までの1年間にわたって、大久野島の主な毒ガスは船に積んで四国の土佐沖へ船と一緒に捨てて処理したんです。その後、火炎放射器で工場の毒性をなくして解体していったんです。転用できる建物は地方の学校などに転用したようです。そして、昭和25年(1950年)を迎えるわけです。大久野島がやっと日本の政府に還ったと思ったら、またもやアメリカが摂取しました。昭和31年(1956年)までアメリカが弾薬庫として使いました。昭和35年(1960年)大久野島は国民休暇村の指定を受けまして、昭和38年(1963年)に施設ができて国民休暇村が発足したんです。そこで初めて、島に自由に出入りでき遊べる様になったんです。そのようにして喜んだ時には、100人も150人もの元工員は亡くなってしまっていたんです。その頃に、元工員たちは組織を創って政府へ呼び掛けた。「いったん、参議院の法務局で法政化して、議員立法でもいいから援護法を制定しよう。」としたそうです。しかし、いかんせん、日本はあのジュネーブ協定に違反して秘密で毒ガスを造って中国で化学戦争を展開しているということがありますから、日本政府としてもできることではない。いっぺんに、本会議で否決されたんです。それがために、救済はまた延びました。とうとう敗戦九年目に「治療だけはしてやろう」ということになった。その頃に、なぜ社会問題として社会に訴えなかったのか。疑問に思われるでしょう。やっぱり、政府は賢いですね。我々よりも賢かった。政府の言うことはこうです。「あまり大きい声で言うな。君たちは陸軍の工員であって、陸軍の共済組合の会員であった。だから、それを国家公務員共済組合に継承させて、大蔵省から予算を出させて治療だけはしよう。これをも拒むならば、いつのことになるかわからんぞ。」ということなんです。我々のほうとしては、「それでいいから治療してくれ。」と受け入れてしまった。次から次へと重病で亡くなっていく人々。そのほとんどが世帯主ですから、一家の生計がまるっきり立たんのです。そしたら、生活保護に依存するしかないんです。そういうことで、大変な問題が起きたんですが、昭和29年(1954年)に救済されるようになった。

□ 「被害者としての平和運動」を乗り越えよう

それからというもの、1つの組織の中からだんだんと分裂するようになってきました。何故かというと、その時は工員だけが救済を受けることになった。ところが、大久野島には非工員もいたんです。女学生、中学生あるいは婦人の勤労奉仕の人々など、工員でなかった人は一切援護を受けることができなかったんです。そういう状態が昭和44年(1969年)まで続きました。そこで、組織が分裂していくんです。だから今、大久野島の組織は10団体に分かれてしまった。その10団体が、毎年春と秋に中央へ陳情に行く。この陳情の様子を見て、また救済の現状を見て、行政も手をこまねいて見ているわけにはいかなくなった。そこで、行政的には広島県内の8市13町にあるこの様な組織を支援するために、対策連絡協議会というものを作った。その対策連絡協議会の会長が地元竹原市長なんです。この会は何をするかというと、元の工員や大久野島の障害者たちが中央へ陳情に行く、その費用を助成してしてくれるに過ぎないんです。それと、亡くなった方々の慰霊式を1年にいっぺん挙行するだけなんです。この協議会の目的としては、毒ガス製造に従事した工員とその遺族または家族の、毒ガス障害の援護に関することを協議するということで動いているんです。ところが、平成3年(1991年)でしたか、あの湾岸戦争が起こりました。その際に、フセイン大統領並びにブッシュ大統領に対して、「絶対に生物・化学兵器を使わないようにして下さい。」と、協議会からメッセージを送ったんです。ところが、協議会のほうもよくよく考えてみたらそういう平和運動をやるような団体ではなかったんです。会の目的が、ただ救済の援護をしていくということだったわけですから。それで、その後これでは具合が悪いだろうということになったんでしょうか、規約改正をしまして、その目的として「援護並びに生物・化学兵器全廃啓発活動をおこなう。」ということに変えていったんです。それで、なんとか平和運動もできるようになったんですけど、その平和運動は何処にあるのかというと一切ありません。元工員たち、今の障害者たち曰く「平和運動とは、我々が春と秋に救済の呼び掛けをしている。これが平和運動ではないか。」と言うんです。「我々は被害者である。毒ガスを造らされた。」ということなんです。このことについて、皆さんはどうお考えでありますか。「毒ガスを造らされた。」と言うならば、じゃその人たちの中で戦争中に、「こういう非人道的な毒ガスは絶対に造りません。」と言って叫んだ人は誰もいないじゃないですか。「大久野島へ行こうで。国のためだ。毒ガス造るのも、国のためだ。大いに働こうで。」と一生懸命に働いたのではないか。学徒動員だってそうです。ただ、強制的に好むと好まざるに関わらず、大久野島に来たのは徴用工員だけです。徴用工員はあの青紙が1枚きたら県知事の名において、命令された所へ働きに行かねばならない。これが徴用です。その徴用工員たちは東京第二陸軍忠海兵器製造所と書いてあったから、「これは東京へいけるぞ。」と喜んだそうです。東京ではなく、呉線の忠海で降りた。明日は東京へ行けるのかと思ったら、東京へはいけない。それから1週間教育されて、そして毒ガス工場へ入れられて、毒ガス製造に専念するような仕事に従事する。そういう人もおるんです。

□ 日本の加害責任「毒ガス戦争」

私は今日、初めから大久野島のことばかり話ましたけど、大久野島の問題は大きく分けて3つあるんです。1つは毒ガス障害者の救済の問題。2つ目は大久野島の毒ガスをもって中国で展開した化学戦争の実態の究明。そして、3つ目は毒ガス製造の実態。この3つが大きな柱になるんです。昭和58年(1983年)でしたか、立教大学の粟谷教授や中央大学の吉見教授は「日本の化学戦争が東京裁判で免責にされて、お咎めなしになったが、これはいったい何故だろう。」ということで、ずっと研究してきた結果、アメリカの公文書保管所で、日本の化学戦争の実態が文献として残っていることを発見した。この文献をひもといて見ると、日本陸軍がその時の参謀の名において、何月何日にどこで毒ガス戦争をして、どうなったかが、びっしりと書いてある。しかも、昭和12年(1937年)に日中戦争が始まって、その翌年の8月に毒ガスを使いなさいという命令を出している。その時の参謀総長は皇族の1人なんです。また、大久野島で昭和8年(1933年)頃からまともな毒ガスが造れるようになったと言いましたが、その昭和8年(1933年)には高松の宮殿下が視察にきています。昭和9年(1934年)には、秩父の宮殿下がやはり視察にきています。こういったことは、毒ガス資料館でも展示しています。それなのに、昭和58年(1983年)に大学の先生たちがそれを発見して新聞報道するまでは、政府は化学戦争はなかったと否定し続けてきた。昭和58年以降は否定も肯定もできなくなった。しかし、化学戦争は認めていないと政府は言うのです。そして、現在に至っているわけです。
ここ3年くらい前から、こんどは中国側から発表がありました。「日本の化学戦は、昭和12年(1937年)から17年の間に、2100回以上行われた。その間に8万人以上の死傷者をだした。」さらには、元満州、今の中国東北部では、200万発の毒ガス遺棄弾が埋蔵されている。これは日本政府のもとで、調査するようにといっている。そして、ここ2年くらいは調査したんでしょう。今年になって、その毒ガス遺棄弾の中には日本のものがあることを確認したそうです。うまくいけば、来年にはそれらの処理に入っていく。一方、一昨年の1月だったと思いますが、パリで昔のジュネーブ協定よりまだ厳しい生物・化学兵器全廃条約が締結されました。そして、日本はその条約に調印しました。ところが、調印しても調印国が批准して自国での法律を成立させなければ、条約そのものが効力を発することができない。だから、調印国全部が批准したら、生物・化学兵器を持っている国は、その国の責任において処分しなければならないわけです。当然、日本は中国に埋まっている毒ガス弾を処理しなくてはならない。早々と、その処理の金額を算出しています。1発が10数万円かかります。200万発といいますと、相当な金額になるでしょう。そういう問題が今クローズアップされている。その時に現在のサリン問題が起こりました。それで急遽、日本は条約を批准することにしたそうです。そして、毒ガス・サリン法を整備しました。毒ガスの問題ですから、あまり新聞にも大きくできないんです。ここらが、今日の演題「加害者としての日本ーそして広島」に関連してくるものにおそらくなってくるんだと、私は考えます。

□ 生命を破壊する戦争を廃絶しよう-平和運動の主体者として

大久野島には、現在1年に52000人の人が見学に来ます。その中の24000人は学生なんです。その中の70パーセントが修学旅行生です。京都、大阪、奈良、愛知県、埼玉県、東京などから中学生、高校生が来ます。今年あたりは例年より多いようです。サリン事件のせいで、最近は一般の人もかなり来ます。私は修学旅行生には、サリン問題にからめて、先ほど言いましたように戦争こそしなかったが、残念ながら毒ガスをまた造るようになったということ、そして身近になった毒ガスのことを考えていこうということを訴えています。広島では原爆を落とされて、被爆者の方がそれを話してくれます。もう1つ、なぜ原爆が落とされたのかを話してくれる人はあまりいないようです。私が毒ガスの恐ろしさを話したら、「おじさん、そんな恐ろしい毒ガスをなぜつくったんですか。」と修学旅行生は言います。それに対して、私は「日本はかつて、毒ガスを戦争に使う武器として造った。そして使った。そのために中国では大勢の人が亡くなった。非常に痛ましいことです。日本でその毒ガスを造った人も痛ましい被害を受けた。だから、戦争をしたらいけんのよ。」と訴えています。
大久野島には非常にウサギが多いんです。毒ガスを造っている頃には、ウサギをたくさん飼って、そのウサギを1匹づつボックスに入れて毒液をぬりつけて毒ガスの実験をやったんです。そのウサギがほとんど死んでいくんです。ウサギが皆さんに呼び掛けるとしたら、「どうぞ、大久野島で私たちが平和に住めるようにして下さい。」と呼び掛けているかも知れません。しかし、戦争というものは、そのウサギと同様に人間の命まで粗末にしたんです。ウサギも毒ガス実験の犠牲になったが、人々も戦争へ戦争へと駆り立てられ、ウサギ同様に死んだんです。これが戦争なんです。
原爆の恐ろしさは皆さん知っておられると思います。毒ガスも、今回のサリン事件から、恐ろしさが分かっただろうし、核兵器とあわせて毒ガス兵器もなくしていこうと考えてほしい。おじさんたちは、過去の歴史を正直に皆さんに伝える義務がある。そして、皆さんはそれを聞いてはっきり良いか悪いか区別する義務がある。そして、平和であることの尊さをしっかりとかみしめて下さい。かみしめるためには、この様な平和学習が大切なんです。しかし、平和学習をしただけでは平和にはならないのです。平和学習をして、平和運動を始めてこそ平和が訪れるのです。そのためには、今日の話を、また次の人にも、今度は皆さんが先生になって伝えてほしいのです。そのことが、平和への第一歩だと思いますので、よろしくお願いします。今日はこれで、話を終わらせていただきたいと思います。大変どうも長いこと、ありがとうございました。

(村上初一)