化学兵器人道論

 陸軍技術本部長(陸軍中将)久村種樹 序 工学博士(陸軍大佐)中村隆寿 著 昭和11年12月15日発行「化学兵器の理論と実際」(毒ガス資料館所蔵)より抜粋。(原文を口語体にしてある)
 
 毒ガスの戦争使用を初めて禁止したのは1890年の第一次ヘーグ条約であって、1907年第二次ヘーグ条約により禁止条約が確立した。
 しかし、本条約は、かの第一次世界大戦において無残にも蹂躙され、現在なんら効力をもたなくなっている。
 大戦後、このような条約の再生をはかったものに、1922年ワシントン協約及び1925年のゼネバ条約がある。これらの条約は、あたかも禁止が可能だと一般には考えられたか?これを詳しく調査してみるとワシントン協約はフランスが未批准、日本不加入という状況であり、一つとして未だ効力が発生したものは無いのである。
 そもそも、このような禁止論が起こってきた背景には、化学兵器に関する明確な知識を持たず、常識的に効力の過信があり、毒ガス吸入者即死、汚染者はすべて惨憺たる症状に陥り、激しい苦痛をうけるものと考え、あたかも、かのダムダム弾の使用や細菌の散布、猛毒物の上水投入等と同様なものとして誤診したものである。
 ダムダム弾の傷害は残忍であって、終生の障害者になることが少なくない。また、細菌の散布は悪疫を流行させ、国内は勿論隣接国に対しても大きな脅威を与えることもある。さらに、上水の汚毒は、飲料水の供給を絶ち罪のない人民の生存権を奪うものである。
 このようなやり方は正に非人道的な戦闘手段と言わなければならない。火器性能の向上に対して、防御者は、より強固な防壁を構築することにより比較的容易に防御の目的を達することができるもので、その手段方法は、きわめて、明瞭である。しかし、ガスの霊は広く拡散し、しかも低迷して死角に侵入し掩蔽内の人馬を殺傷するので、これに対する防御は煩雑であり完全を期し難い。今や、戦場は次第に複雑多岐になろうとしている時に当たり、さらに化学的戦闘手段に晒されるのは、彼らともに、ひとしく苦悩は大きいものがある。このような戦場心理の反映と徒らな効力の過信、正体の認識不足による大きな恐怖心が遂にはこの種戦闘資材の使用禁止を提唱するに至ったのであろう。
 もしも、古今の史実を考えると斬新で有効な新兵器が一度その価値を認められると、より優秀な新兵器が現れない限り放棄されたことはない。化学兵器の研究は、実験室の一隅で行われ他の化学実験となんら異なるものではなく又現代の化学工業の中には化学兵器に関係あるものが少なくない。ホスゲンは合成化学では極めて重要な化学物であって、染料、医薬品、工業薬品の原料として現在製造販売されている。
 化学兵器の重要な原料である塩素は、現代の主要工業製品であって、年度量米国で20万トンを超え、我が国でも一〇万トンに近い。これら有用な化学工業が化学兵器に関係あるというだけの理由で到底禁止できないことは明らかであって、これを禁止することは即ち現代化学工業の成立を否定するものと言わなければならない。化学工業が禁止されない限り、その進歩発達に従い化学戦準備が整備されるのは自然の勢いであって、これを禁止しようとしても不可能なことである。
 爆薬の爆裂によって生ずる一酸化炭素、過酸化窒素、青酸は、一八九九年のヘーグ会議において禁止された有毒ガスの一種であって、過去の戦役でこの有毒ガスは要塞及び海戦において最も猛威をふるい、このため倒れた兵士も多いと言われている。この事実から、現用爆薬は決して化学兵器と無関係でないことがわかる。将来発達が予想される大口径榴弾、飛行機用投下弾、あるいは水雷は暫次炸薬量を増すので発生有毒ガスの効力は決して看過できなくなり従って毒ガスの使用を禁止しようとする場合は勢い、現用の爆薬使用禁止も考えざるを得なくなる。
 将来戦において煙幕は重要必須のもので、使用すべき発煙剤が化学物質である以上若干の刺激作用を伴うのは当然である。又、催涙剤は有毒物でないとすればこれの発煙剤への混用は毒ガスの使用とは言えない。このように発煙剤と毒ガスの境界は極めて不明瞭であり殊に、散在的に煙幕に混用される化学兵器の確認は実際上極めて困難であろう。この点からも化学兵器の有効な使用禁止を企画することが如何に困難であるかがわかる。
 化学兵器は非人道的な兵器であるという。試みに問いたい。他の兵器は果たして人道的であるのか。銃丸は骨を貫き、砲弾の破片は肉をそそぎ、時に手足を奪いあるいは不治の重い障害を残す。刀剣の瘡傷といえども決して小さいものではない。水雷の一撃は数百数千の生命を一瞬にして海底に没するではないか。このように考えてみたとき、なおかつ、一般兵器は、とにかく人道的であるということができるであろうか。その傷害はガスに比べて決して軽いとは言えないのである。ガスは流血の惨事を伴わずその回復は比較的早い点から、肉体的苦痛は却って少ないと言える。このように、一般兵器が化学兵器に比べ遥かに人道的であると言う実証を見だすのは極めて困難である。化学知識の発達していない時代のつかみどころのない認識から常識的に化学兵器を排撃しようとするのは誠に理由の乏しいことである。
 兵器の目的は、敵の戦闘能力を減殺することである。このためには強いて敵兵を殺す必要がなく、むしろ多くの障害者を出し、なるべく第一線の参加兵員を減らすことがよいのである。何となれば一人の死者は敵戦闘員一名を失うに過ぎないが一名の傷者は、これを看護するため数名の敵兵が必要だからである。以上に述べた目的は、化学兵器では他の火器あるいは白兵の場合に比べはるかに有効に達せられるものであり、ガスは拡散して広い範囲に多数の負傷者を出す特性をもっている。そして、その傷害は致死的でないという点で戦闘に有効でもあり、人道的である一つの根拠である。更に、化学兵器が他の兵器に比べ人道的であるとする著名な事実としては、ガス中毒の死者の割合は、他の一般の負傷者の割合に比べ、甚だ小さく一二分の一に過ぎないという点である。この事実を第一次大戦について数字的に示すと第六表の通りである。
 又、先年の、満州及び上海事変についてこの関係を見ると、昭和七年三月現在で第七表の統計がある。以上の結果と過去における主要戦役の統計を比較すると第一図(各戦役における一般兵器及びガスによる損傷者死亡率比較図)のように、従来の戦役における負傷者対死亡者の百分率は、28~36.9%である。
 これに対しガス中毒者に対する死亡率は、2.0~3.3%であり極めて少ないのであって、これらの事実は明らかに非人道性を立証するものである。
 1929年の米国軍医師の報告によれば第一次世界大戦の結果永久の障害者となった数は第八表の通り、ガスの場合、両腕又は両脚を失った兵士はなく又四肢の内二脚を失ったものはない。これに反し、一般兵器の場合、腿から両脚を切断した者11名膝付近から両脚を切断したもの10名片腕あるいは片脚を失った者3名である。思うに、兵器の人道性は傷害時の苦痛度、人体損傷の永久性及び負傷の死亡率に懸かっている。