三輪明神大神神社
(御本社)
(御本社)
現在の出雲大社に鎮まります大国主命は少彦名命という神様と協力し、我が国の開拓に励んでおられました。
ところがある日、少彦名命は「私はこれから海外の国々の開拓に向かわなくてはならない」と大国主命の元を去ってしまわれました。
固い絆に結ばれた同志を失った大国主命は悲しみの余り浜辺に打ちひしがれておいででしたが、その時海の彼方からまばゆい光と共に一柱の貴き神がおいでになりました。
神は「我が名は大物主命。汝が命の和魂なり」と名乗られ、少彦名命に成り代わり新たな同志となって大国主命と共に国造りに臨まれることとなりました(神道では神様や人間の魂には大きく分けて「荒魂」【武勇の働き】、「和魂」【平和の働き】という2つの作用があると伝えられています。「和魂」は更に「幸魂」【招福の働き】、「奇魂」【奇跡を呼ぶ働き】の2つに分かれます。このことから大国主命と大物主命は同じ神様と伝えられています)。
その後、第十代崇神天皇の御代になり大変な疫病が蔓延した時、疫病の鎮まりを祈られる天皇の夢枕に立たれ、「吾を手厚く祀らば疫病を鎮めん」と宣言されたのが大物主命であられました。
天皇が御神託の通り三輪山に鎮まる大物主命を厚くお祭りしたところ、疫病はたちどころに治まったと伝えられています。
又、大物主命は活玉依姫という美しき乙女を愛でられ、貴人に姿を変えられて素性を明かされずに夜毎姫の元を訪れられました。
自らの元へ訪れる貴人の正体を知りたいと思った姫がある夜その貴人の衣に麻の糸を縫い付け翌日その糸を辿って行くと、糸は三輪山へと続いていました。
姫はそこで初めて貴人が大物主大神であることを知ったのです。
姫の家には麻糸の輪が3勾(3巻き)残っていたことから「みわ」の名が生まれたと伝えられています。
平安期に編纂されました『延喜式神明帳』では官幣大社に列せられ、又大和国一之宮・二十二社の一社に数え上げられるなど、古今を通じ朝野の崇敬厚く、明治の御代にも官幣大社に列せられました。
御祭神は大物主大神を主祭神として、大己貴大神・少彦名大神を配祀し、国造りの神、諸産業振興・方除・医薬禁厭・酒造等、世の幸福を司る人間生活全ての守護神として近畿地方はもとより全国から厚い信仰を寄せる人々が数多く参拝する名社として崇敬されています。
三輪明神広島分祠
その後急増する参拝者のため、再び御本社御神木を拝受して現在の御本殿(礼殿)が創建され、昭和48年10月、御神体を御遷座し現在に至っています。
御祭神は御本社と同じく大物主大神・大己貴大神・少彦名大神をお祀りし、伊勢の神宮外宮の御祭神・豊受大神、愛媛の大三島宮こと大山祇神社の御祭神・大山祇大神、そして火の神・火難除けの神として知られる火之迦具槌大神を相殿にお祀りしております。
又境内には商売繁昌の神・事代主大神をお祀りする胡子社、学問の神・菅原道真公をお祀りする天神社、水の神・水難除けの神と称えられる水波能売大神・御井大神・鳴雷大神をお祀りし、万病に効能有りと伝えられる霊水の湧き出づる御神水所、そして幽世を掌り先祖の魂を守り給う幽冥大神をお祀りし、当社創建に多大なる功績を残されました三輪明神大神神社報本講社・広島講元であられました梶本冨子先生を始めとする功労者の方々とその祖先をお祀りした祖霊社があります。
三輪明神広島分祠は三輪明神大神神社を御本社と仰ぎ、大神大神様と御所縁深き神々、御創建功労者の御霊をお祀りし、病気平癒・厄除・災難除・交通安全・産業振興・家内安全等、人間生活万般を守護啓道し人の世の幸福を増し進め祖霊の安鎮を守る神社として、当地広島を中心とする中国地方はもとより、四国・九州地方からも多数の参拝者が訪れる「西の三輪さん」と親しまれ、皆様の篤い御崇敬をお寄せ頂いております。