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宮島の陶片 (〜江戸時代)  (1)

 

                                                               

 安芸の宮島の干潟では江戸時代や、もっと古い時代の陶片が、干潟の陶片全体の中で一定の割合を占めるほどたくさん出てきます。大量の18世紀〜幕末頃の飯茶碗や小皿の他、鉢、そば猪口、湯のみ、盃などの食器類、すり鉢、瓶、明かりの道具や甕など暮らしの道具類がよく出てきますし、仏飯器など信仰の器、化粧品容器にもなったらしい、段重や蓋物の器、口紅の容器だった紅皿、文具の水滴など生活を楽しむための器の破片もあります。古唐津、17世紀の高級な染付や青磁、ごく僅かですが古い中国陶磁も見つかっています。私にはまだ細かい区別のつかない土器類もかなり拾えます。昔から厳島神社の参詣者で賑わってきた宮島の、干潟から出る陶片の種類の多さや量、質の良さ、時代の古さから、当時の宮島の経済力が偲ばれます。神社に参詣する人達の楽しげな様子や、店の賑わいを想像すると、そこで消費された食器や、宮島で暮らした人達の日々の暮らしで使われたもの達が、今こうして干潟から出てくるという面白さに胸が高鳴ります。飯茶碗のカケラ一つを泥の中から拾い上げると、私は200年、300年も前の世界と肌を接しているのです。




 宮島の干潟の陶片は集中して出てくる場所があります。昔の人が不燃物のゴミ捨て場として利用していたと思われる場所、御手洗川からの流入、堆積と思われる場所、それらの場所の近くで、潮の満ち引きや川の増水で陶片が移動しやすかった場所です。

@ 不燃物のゴミ捨て場 

 不燃物の回収システムのない時代、少なくとも広島湾の周辺では、陶磁器のカケラは潮干狩りのついでに干潟に捨てられていたようです。ただし適当に捨てると危ないからでしょう、たぶん暗黙の了解のような形で捨て場所がありました。宮島では現在残っているのは3ヶ所程度だと思いますが、かつて宮島に住んでいた人の話によると、フェリー桟橋の工事などで東側の海岸の状態が変わるまでは、現在私が拾っている、西側よりもたくさんの陶片があったそうです。東側には昔から家も多く、かつては遊郭もあり、賑やかだったようですから、大きなゴミ捨て場があったのではないかと想像しています。現在残っている3ヶ所のゴミ捨て場跡は、それぞれ出てくるものに差があります。

ゴミ捨て場A
土器 中国陶磁 17世紀〜幕末の染付、青磁、陶器の食器・台所用品・暮らしの道具など 近代陶片

ゴミ捨て場B
18世紀〜幕末の染付、青磁、陶器の食器・台所用品・暮らしの道具・近代陶片

ゴミ捨て場C
殆どが近代陶片

 これらのゴミ捨て場跡と思われる場所はすべて干潟ですから、陶片は潮の満ち引き、或いは潮干狩りなどで、当然移動する場合があり、窯跡の発掘のように正確なものではありませんが、それでも陶片の出た場所を一つ一つ記録してみると、3つのゴミ捨て場跡から出た陶片の種類にはあきらかに偏りがありました。波が穏やかで、ゴミが自然に移動しにくい場所ですので、ある程度ゴミ捨て場の性格を現していると見ていいのではないかと思っています。3つのゴミ捨て場は、最初はAだけだったのが、時代が進むにつれて増え、しかも移動したのではなく、それまで使っていた場所も引き続き使われているようですから、だんだん人々が出すゴミの量が増えていった結果だと思います。

A 川からの流入、堆積

 河口付近には、手に付くと粘っこい、そのくせ掘り返そうとすると案外固い泥が堆積していて、川の増水の後など、泥が削られた断面から、陶片が顔を覗かせていることがあります。この辺りには川が運んできた陶片がたっぷりと堆積しているのだろうと思います。もちろん、上流から流れてくるものもあるでしょう。ひょっとして河口がゴミ捨て場にもなっていたかどうかはわかりません。

出てくるもの:土器 17世紀〜幕末の染付、青磁、陶器の食器・台所用品・暮らしの道具など 近代陶片

B 陶片の移動しやすい場所

 河口には、大きな干潟が広がっていて、干潮時は干潟の中に浅い川ができます。御手洗川が運んできた陶片は当然、この干潟全体に広がります。雨が少ないと満潮時の河口付近の方が多い陶片も、大雨や梅雨時の長雨の後は、広い範囲にばら撒かれる傾向があります。ここは一年中潮干狩りをする人がいる場所なので、ばら撒かれた陶片は、自然に埋まっては掘り返され、掘り返された泥でまた埋まるといったことを繰り返してきているようです。出てくるものは、御手洗川河口付近とほぼ同じです。

 大鳥居の内側、厳島神社により近いあたりも陶片の多い場所で、掃除もされているかもしれませんが、他の場所に比べて小さな破片が多く、また神社の境内ともいえる場所にゴミを捨てるだろうか?という疑問もあり、隣接したゴミ捨て場Aからの移動ではないかと思っています。ただし、土器については大きな破片が、ここからも出ていますし、中国陶磁もここで拾ったものが多いので、この二つは神社との関係など、ゴミ捨て場の堆積とは別の理由で出てくるのかもしれません。まだ、よくわからない部分です。出てくるものの質は、ゴミ捨て場Aとほぼ同じです。




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