みことばの中で
日々の生活の中で(2006年2月16日〜25日)
祈りの手帳や、メッセージから、私個人が受けた恵みを書きつづっています。
祈りの手帳とメッセージのサイトは、参考リンクの中にあります。


2006年2月25日(土)
イエスさまの権威
福音について、キリストについて、自分の言葉で人に伝えようとする中で、私自身が「そうだったのだな」と、新しく気づくことばかりです。
原罪とサタンと運命から、私を解放してくださるために、イエスさまが権威を成就され、その方を受け入れた私は、運命から完全に解放され、権威が与えられています。この権威ゆえに、回りの人々に福音が伝えられていくのです。私の条件は、何一つなく、それをただ信じて受けただけです。
今週のメッセージは、福音の中の祝福はすばらしいこと、すでに暗闇は私の前から退いているので、私からの祝福が回りにあふれ出ているという約束でした。自分自身が、神の教会として、この一週間、生きてきたのだなと確認してみます。自分の目では見えなかったけれど、その約束ゆえ、神様がなさったことを告白します。
今週、一つ分かったことがあります。それは、すべてのことは「キリストをより深く知るため」に起きているのだという結論で見ることができるということです。それによって、ローマ7章の苦しみが、一挙に8章の喜びに変わり、傷が土台になることを発見しました。

2006年2月24日(金)
うつわ
昨日、小学校で学年最後の参観と懇談がありました。教室の後ろにずらりと保護者が並んでいるのにもかかわらず、何もせず、遊んで、時には教室を歩く子がいました。先生は、押さえることができません。子ども達も、親の世代よりもっと霊的に深刻な状態で生きているのだなと見ていました。
もっと驚いたのは、それを見ている保護者たちの反応です。たぶん、いろいろ文句もあり、不平不満、心配がいっぱいだろうと思うのですが、静かに参観して、懇談は出ずに、たとえ出ても、良い話をして帰っていくのです。いったい、どこで本音を出すのかなぁと思ってしまいました。確かに誰も、本当は幸せではないというメッセージどおりです。
このような状態の中でも、神様は次の世代を生かすための人々、子ども達を残しておられます。この世界を生かすために、学業も生活も整えられた次の世代を育てることを願っておられます。そんな子ども達を育てる働きができるよう、聖霊で満たしてもらい、ふさわしいうつわにさせてくださいと祈ります。

2006年2月23日(木)
アップグレード
福音を知ったつもりで、自分ができると思って、高慢になっていた時がありました。しかし、その結果は失敗でした。それで、自分の力ではできることはないと、反対に、すべて神様側からしてもらわないとできないんだと思うようになりました。だから、決断することも神様にさせてもらうべきだし、私の責任はすべて神様が負ってくださるから、神様がしてくださいと思っていました。確かに、自分の力でできることは何一つありません。しかし、自分の考えの中に、神様がすでにすべて与えて下さっているのに、何か足りないという不信仰が混ざっていることに気づきました。
神様がともにおられるようになったのに、どちらも自分中心でした。それで主の前にひれ伏して祈りはじめ、次の若い世代に「真の福音を伝えさせてください」と願うようになりました。
真の福音だけが人を生かせます。その中で、決断は福音の中で祝福として、すでにもらっていることを味わうことの一つであり、私に与えられた計画を成すのも、責任ではなく、祝福を味わうことだと、やっと気づきました。
真の福音をもっと深く知り、味わうことがアップグレードされていくことを願っています。

2006年2月22日(水)
福音の唯一性
今、このホームページにプラスして、聖書からキリストを見るというテーマでメルマガを作ろうとしています。メルマガですから、イエスさまを全く知らない人にイエスがキリストということを知ってもらうための入り口となれば良いという願いで、祈っているところです。しかし、それを書いていると、ふと、「私がしなくても良いのではないか・・・」とか、「誰かに文句を言われるのではないか」という思いに捕らわれてしまいます。
今日の祈りの手帳に、現場に必要なことは「福音」であり、唯一な解答である福音を知らされたのは、それを人々に伝えるためなのだと言われています。また、今日、哀歌4章からのメッセージを聞きました。神様は、ご自分のかたちに造られた人間が、その神様から離れてしまい、滅んでしまうのを放っておかれず、自らその問題を解決してくださいました。しかし、その道を知っているはずの神の子が、その道より他の道を選んでしまったゆえに、神の子だけではなく、他の人々まで滅びと災いの中にいることに、ものすごく心を痛めておられます。「誰の責任ですか?」と問われました。唯一の福音を持っているのに、それを貴重なものと思わず、別のものが良いとだまされて、自分が良く見られることとか、自分の益のことしか考えないでいる、「私自身」のせいではないかと問われた時間でした。主の前に、本当にごめんなさいと頭を下げています。

神様の涙を知っていますか?

2006年2月21日(火)
人生改革
イエスをキリストとして信じたら、完ぺきな祝福を受け、絶対に滅びないので、考え方を変え、その祝福を味わうように確認していたら、まず、生活の中で福音が味わえるようになると言われました。人生改革は、私自身の考えを神様に変えてもらうことから始まるということでしょう。
昨日、教会について考えさせられる事件がありました。教会では福音中心、感謝中心、弟子中心にすれば、他の人も生かせるようになるということです。しかし、ついつい福音ではなく、世の中の基準で考えてしまうので、問題があるように見えてきてしまうのだと思います。
ハンナ一人が、その時代に必要なことを悟って祈りの課題を神様の願いに合わせたら、時代を生かし、戦争が止むほどの人物サムエルが生まれ、その次のダビデに受け継がれて行きました。私一人だけでも、世の中の基準の考え方でなく、主の前に主の願いを祈り続ける者にさせてもらいたいと祈ります。そうすれば、まず、家庭の暗闇が去り、次に教会から争いが止み、次の世代を生かす神様の働きが現れるでしょう。神様の願いは、次の世代を生かすことですから、大胆にハンナの祝福を私にくださいと主に願い求めます。

2006年2月20日(月)
霊性改革
福音を悟れば、福音を味わうことができ、みことばの成就を味わい、定刻の祈り、常時の祈りも味わうようになり、神様がなさっていくことを見ていくようになります。福音を悟ることが、すべてを味わうことのスタートだと言われています。
福音を知っていると思っていた時がありました。なのに、どこかぼんやりしていました。また、いろいろな人の話を聞く中で、福音って何?と思うようになったのでした。その質問を神様にしてから、少しずつ、少しずつ、神様がメッセージより、いろんな中で知恵をくださることにより、私に分かるように福音の秘密を教え続けてくださっています。
昨日のメッセージで言われました。祈るとすぐに答えが目の前に現れるのではなく、神様の知恵が与えられ、正確な答えが与えられるようになると。今日も、福音を深く悟って味わうことができるように、まず神様の知恵が与えられ、正確な答えが見えるようになるように祈ります。

2006年2月19日(日)
祝福の根源の教会
イエスさまをキリストとして受け入れた人は、神様のいのちが与えられ、他の人に神様のいのちを伝える通路、つまり、教会となっています。教会は、個人でもあり、信じる人の集まりでもあり、目に見えない世界中の信徒、つまり、神様のからだです。教会となった者は、祝福の源になっています。他の人を生かすことができるように、まず最初に祝福を注がれるようになっていて、福音のない時代に福音を伝えることができるように召されています。ですから、後の世代にその証拠を残していくことができます。それらの祝福は、神様が与えられるので、誰も防ぐことができません。私とともに神様がおられるので、絶対に暗闇は入ってくることはできない神の国が臨んでいます。その神様の国が広がっていくこと(教会がどんどん立てあげられていくこと)が、世界の福音化です。
私たちが行く所々に、神様の国が臨み、暗闇は退き、祝福が私からあふれ出ていきます。
今週一週間、この事実を忘れずに日々の生活を送れるように祈ります。

2006年2月18日(土)
考えの改革
今、何人かの人に、携帯のメールや手紙でキリストについて書き送る機会が与えられ、救いについて、私自身が確認させてもらって、恵みを受けています。
今まで世の中で学んできたこと、経験、習慣、思想、常識だと思っていることは、すべてこの世の支配者、悪魔の下にいた時のものだと、自分が実際には分かっていなかったなぁと思うようになりました。エジプトにいた時のこと、奴隷生活の常識は、出エジプトした者には常識ではないのです。
昨日、娘が漢字のテストがあって、一つ言葉の意味が分からなかったと言いました。「テストは、分からないことを発見して覚えるためのものだから、今から覚えれば良いんだよ。分からなかったこと、間違ったことに留まっていてはいけないよ。」と答えたとたん、はっとしました。今、私に神様が与えられるテストは、新しい神の国の常識を分かっているのか?というテストなんだと。だったら、私の考えが間違っている所を発見しても、それは、すでに来ている神の国の祝福を味わう機会になるだけだということです。
神様にすべて申し上げれば、心と思いを守ってもらえる、この約束を味わい続けたいです。





2006年2月17日(金)
神様の作品
私を造り、形造っておられるのは、神様です(詩篇119:73)。日曜の講壇メッセージで私は神様の作品だと語られました(エペソ2:10)。神様がご自身の手で、私を形造っておられるのだなぁと思うと、感謝するしかありません。完成するまで造り続けてくださるのは、神様です(ピリピ1:6)。
ついこの前、ぼけーっとしてたので、車で一旦停止するのを忘れてパトカーに呼び止められ、罰金、減点処分をくらいました。今さっき、PTAの仕事で学校に行って、ミスをして、おたおたしていました。
それでも、私を造ってられる神様は足りない方ではないので、神様の作業は成されていると黙想しています。悪魔が攻撃しても、その神様の作業はストップできません。そして、悪魔の攻撃は、肉的なことだけです。
やはり、私はすでに幸いな者として造りかえられていて、今も形造られていることが事実なのです。なんと、すごいことでしょう。





2006年2月16日(木)
聖霊充満って
キリスト・イエスの恵みによって強くなりなさいということばは、神様の恵みを深く考えて、恵みの中で強くなりなさいということですと、祈りの手帳にありました。定刻の祈りの中で、聖霊充満を受けて、恵みを深く考えるのかと思いつつ、聖霊充満って、聖霊さまが私の中にいっぱいになることでしょうって祈っていました。そうしたら、聖霊さまでいっぱいだってことは、神様でいっぱいなんだって気づきました。
神様だけのところって、天国でしょう。神様の国、その国が今、私に臨まれていることを自分の中で確認すること。それが聖霊充満なんだなぁって思ったら、定刻のお祈りで、聖霊充満を祈ることが、とっても楽しみになりました。



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