征夷大将軍の位が意味するもの

秀吉亡き後、それらの頭目の位置についたのが徳川家康である。家康は信長や秀吉とは異なり、改革とか変革とかには無縁であると思えてならない。
何故なら、関が原以後三年も経ないで征夷大将軍の綸旨を得ている。このことは何を意味するかは明らかである。武家の棟梁として旧来の封建制を再興することであった。この辺りが信長,秀吉と異なるところである。
信長は本能寺の変の何ヶ月か前に禁裏より征夷大将軍推挙の使者が安土を訪れているが信長は何の返答も与えず、あまり興味を示すこともなかったと言われている。
秀吉は足利義昭の猷子として征夷大将軍なることを望んで、義昭に断られ、断念したと言われているが恐らく一時的な方策として頼朝以来の武家の頭領であることを望んだこともあったかもしれないが本気で征夷大将軍になり幕府を開こうとしたのではない。
天下統一を成し遂げた最高権力者である秀吉の申し出にその御伽衆となっている義昭が多少愚図るようなことはあっても秀吉の要求を拒否することができたであろうか。
平氏を自称した信長にさえ、征夷大将軍の綸旨を出そうとした朝廷である。征夷大将軍は源氏でなければならないとしたのは後世の風説に過ぎない。又、秀吉が一時的に征夷大将軍を望んだのも関東の北条征伐、更に東北征伐を効率良く進めるための方策であったのではないだろうか。
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