禅師の夢破れたり

禅師は石田三成や小西行長と共に秀吉の直系の弟子であったとも云える人であるが、又、秀吉の良き相談相手であり、助言者でもあった。
石田三成の経済官僚としての経験と手腕、小西行長を通して得られる西欧の経済、政治知識は禅師の思想に多大な影響を与え、彼らも禅師の思想から大きな影響を受けたにちがいない。
結局、関が原の戦いは信長、秀吉が推し進めた絶対主義による国家の確立を目指す勢力と封建制を取り戻そうする勢力が日和見の大名を巻き込んで起きた最も重要な歴史の転換点であった。東西の勢力が関が原で激突する遥か以前よりこの二大勢力の暗闘は続いていた。豊臣政権が内包する宿命的な矛盾は秀吉の死後、いっきに表面化する。両勢力は日和見大名達を味方につけるための政治工作に奔走する。禅師も日和見大名を味方に引き込むため、一時の方策として領地の空手形を餌に説得工作を続ける。
しかしながら、西軍の大大名への説得工作は困難であったに違いない。なぜなら、秀吉が禅師や石田三成を含む奉行衆に命じて推し進めてきた一蓮の改革、大名私領地の撤廃、独立的行政支配権の大幅な制限、大名の官僚化、すなわち、西欧の絶対王政にも匹敵するような中央政権の確立を果たしてどれくらいの大名が理解し、歓迎するだろうか。人は誰でも慣れ親しんだ概念、習慣によって生きる。故に一般の民までに影響を及ぼす改革は独裁者のみに可能なことかもしれない。
禅師は敗れた。それ以後の三百年近く日本は封建制の世に逆戻りし、結果的に藩と呼ばれる国が分立することになり、所謂、近代国家を形成することなく、現代まで続く抜きがたい西欧との文明度の差を生じせしめてしまったことは否めない。西欧ではこの三百年の間に絶対王政の中から議会が生まれ、やがて、数々の変革、革命を経て、市民社会へと移行したのである。
禅師の理想は三百年近くの時を経て、明治維新により一応の実現をみるがこの三百年のギャップを取り戻そうとする焦りが徐々に歪な思想を熟成させ、先の戦争を招いたと思えて成らない。
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