太閤検地が意味するもの

検地は信長も行ったが全国規模で詳細に行われたのは太閤検地である。従来、検地は各地域(国)の生産高を調査する目的で行われたと認識されているがそれは目的のささやかな一部でしかない。
太閤検地の真の目的は土地の私領を無力化し、公のものとすることであり、各大名は公(おおやけ)から領地を一時的に預かる存在とするためであり、徴収年貢の使い道まで規定され、その領地に豊臣、側近大名の領分を配置して監視するような機構を確立するのが真の目的であった。
即ち、土地の私有から公有への転換をはかり、公権力の全国の一元化を目的として封建制の解体,解消を図ったのである。禅師は検地の真の目的をはっきりと理解し、毛利領の検地奉行として積極的に参画している。これによって、大名の独立性を否定し、行政官僚化させて一つの国家を成立させようとした大きな改革であった。
当然、旧来の考えにとらわれた大名、秀吉子飼いのものも例外ではない、には非常に評判が悪かった。逆に禅師や石田三成は先頭にたって積極的に検地を推進した。この意味で関が原の戦いは封建制を支持する守旧派と絶対主義を掲げる改革派との激突でもあった。因みに、家康は太閤検地の成果である"領地は大名の預かり"だけは摘要したが年貢の使い道は規制せず、大名領地の中に他の大名領分を配置することもなかった。
従って、各大名は徳川幕府の勢力が強い時に配置換えがあったとしても徳川時代を通じて封建的独立を保ったのである。鎌倉時代以後、秀吉の時代を除いて、明治以前には日本に国家は存在しなかった。
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