禅師は利を求めず理想に生きた

禅師は秀吉の死後、豊臣政権は家康を盟主とする武将派と石田三成を中心とした官僚派の間で抗争が生じる。
禅師は官僚派の頭目の一人として家康とこれに組する武辺大名と対決することとなる。従来、禅師が関が原の合戦で西軍に組して戦ったことは当然のことと考えられ、その常識的な理由として豊臣家への恩顧と愛着、毛利家に対する忠誠心、武将派大名との軋轢が原因と言われている。
しかし、このような感情論で東軍と対決することに成ったのであろうか。禅僧の清冽な眼をもって過酷な戦国の世の真っ只中に身を置き、膨大な経験と思索を重ねてきた禅師が秀吉死後の状況の転回と誰が次の世の主催者足りうるかはよめなかったはずがない。
本能寺の変と秀吉の台頭をその事変の九年前に予見したほどの人物である。禅師がもし単なる権力を求め、保身の人であれば豊臣政権内における武将派に組することはないにしても中立的な立場をとることも出来た筈である。どちらに転んでも禅林の最高位、大名として生き残ることを考えたならば、当代随一の外交僧、軍師であり、稀なる予見、洞察力をもつ禅師にとってそれほど困難なことではなかったに違いない。
しかし、禅師はそうはしなかった。 所詮、武将派の大名は封建制から脱皮して一つの君主の下に法制国家を造り運営することなど考えたことも無かったし、旧来的な封建領主としていかに生き残って行くかが彼らにとっての最大の課題であったに違いない。
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