宣教師や商人の活動は直接的、間接的に早くから禅師に大いなる影響を与えたにちがいない。もはや旧来の農業基盤に立脚した井の中の蛙のような独立領主連合の世ではない、西欧で発達著しい商工業を基盤にした統一国家構想、全国を一元的に支配する官僚制度を備えた商人国家を目指したにちがいない。 禅師と同時代に生きたイグナチオ・ロヨラと言うカトリックの宣教師がいた。彼は戦国時代、西日本各地で布教活動に従いたが事し、日本覚書を著した。その原本はローマの法王庁に現存する。この報告書とも言える書簡の特徴は当時の日本とヨーロッパの事物を箇条書きで比較されていることである。 この報告書で驚かされるのは少なくおうなとも西日本においては物質文明、精神文明でヨーロッパとほとんど差がないと思えることであろう。ヨーロッパには何々があるが日本には同じように何々があるといったような記述が多い。又、日本人のあらゆるものに対する理解能力は他のアジア人から抜きん出ており、日本においてカトリックが広まらないなら、アジアでの布教そのものが意味をなさず、空しいものなると語っている。 これらが意味するは少なくとも秀吉の時代には封建制が打破され、ヨーロッパと文明度においてあまり差がなっかたことを示している。幕末に来訪した欧米人の観察と大いに異なることに驚かされる。確かに徳川時代は戦国の世を経た後、世に長い太平をもたらし、文化を成熟させたことは確かであるが、文明の観点からはこの間にヨーロッパ諸国と政治経済における抜きがたい差を生じせしめたことは明らかである。 当時、西欧に絶対主義の国々が成立して半世紀を経過していたが徳川の世で結果的に300年の遅れが生じたことは否定出来ない。禅師の思想が生かされていれば鎖国の様な消極的な守りの国とはならず、商業を基盤とした絶対主義に似た、開かれた国としてヨーロッパと同様な速度で文明的発展を遂げていたことであろう。 断っておくが、国を開いておけばヨーロッパの植民地と化したであろうと言う意見は幕末には確かに当てはめることは出来ようが信長、秀吉、家康の時代では日本が近隣のアジア諸国、地域に進出し、属国とするか植民地することは歴史としての可能性はあったとしてもヨーロッパのいずれかの国が国力、戦力的にみて日本を植民地とすることは全く可能性はない。 このことはカトリック宣教師がスペイン国王に向けた書簡で植民地化などは不可能であり、その様な無駄な野望はすてるべきであると進言していることからも解かる。 |
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