禅師は毛利氏の北九州進出の時代から博多衆と緊密な関係を持ち、織田と毛利の対立時には堺衆と親密な関係を築いている。以後豊臣政権で直臣となり、商人達との関係はより強いものとなっていった。しかも西洋との本格的な接触、交流が始まった時代でもあった。 この時代、西欧では国家と言う概念を持ち得ない封建制の世から脱皮し、絶対君主制の時代となっていた。絶対君主制とは中国史における専制君主制とは全く異なる統治制度である。長い中世の教会世俗支配のくびきから離れ、独立的封建領主を一君主、すなわち国家元首の下に統合せしめる制度である。ここに国家財政、君主による官僚国家統治の機構が出来上がったのである。 これが議会を生み、やがて混乱と改革の中で市民社会へと発展して行く。封建制であれば農業生産のみに頼っていても社会を維持することも出来るが国家財政ともなると重点は商業に傾くことは必然となる。又、より多くの交易品、利潤を求めて他の地域に市場に進出することとなる。大航海時代の帰結点として日本があった。遥かな波涛を超えて来たカトリック宣教師を信長は安土に留め置き、何ヶ月にも渡って彼らから西洋の政治機構体制や科学事情について話を聞いたと言われている。この時、信長は己の進むべき道をはっきりと自覚したに違いない。 すなわち、西欧が辿ったと同じ封建制社会の解体と絶対主義による統一国家の確立である。この頃から信長の統一への作業は急速にその苛烈さが増している。 |
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