世は経済によって運営される

余談ではあるが織豊の時代を経済発達史の面から捉える研究が盛んになっている。従来、この時代は信長、秀吉などの普請道楽と単純に思われているが詳細に調べると必ず戦と戦の間にかなりの規模の築城、港湾の建設を行っている。どこを切っても経済がみえると云われる秀吉の時代にはこれがより顕著である。
四国征伐、九州征伐、北条征伐などの間に大土木建築である大阪城、聚楽第、伏見城、その他、幾多の寺社仏閣を建てた。これに倣って、豊臣傘下の大名は城を造り、城下町を形成した。このことで攻める側、すなわち織田、豊臣政権にとっては戦も土木建築も明らかに一種の経済を活性化させるための公共事業であったのである。
又、両氏とも以前の戦国大名とは異なり自己の領土、領地の農業生産に強く依存せず、貿易港や金銀山を直轄とすることには意を注いでいる。国内が平定され、膨大な物量、人員を導入して攻め入った朝鮮の役も両方を兼ねる一連の流れにおける最後の一大事業であって、朝鮮にとっては真に迷惑なことではあるが、経済市場を求めた領土化のためで秀吉が長男を幼くして亡くした悲しみから逃れるために無謀な戦いを挑んだと言われているがそんな感情論で役を起こした訳ではない。むしろ、大陸に独占的な商業資本の市場を求めて支那事変を起こした日本政府と陸軍の行動によく似ている。
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