では禅師は秀吉に託した天下をどのような思想をもって運営しようとしたのであろうか。それは信長や秀吉に通じる商業国家主義であった。結局、古代、中世とは農業生産を基盤とした地域を国とする世であり、そこに各地域社会の秩序があった。戦国時代の始まりはこの封建制を基盤とした秩序の崩壊による混乱によるが、一言でいえば農業地の取り合いが発展したのが戦国の世と言える。 農本主義社会である限り、旧来の守護地頭的一所懸命が戦いの起因であったが西日本と東日本ではその様相は異なり、西日本では大きく変化して行ったことに気付く。東日本では戦国時代を通して大体において始めから終わりまで農業生産地の確保、言い換えれば領地の拡張を目的とした戦いが繰り広げられていたが西日本では明や南蛮貿易の利権、貿易港の争奪、商工業地の支配、金銀山の開発とその生産の確保へと戦いの重点が移っていった。禅師はこのような大転換の時代に外交僧として、軍師として、禅林の人として、九州から近畿を往来し、敵味方、商人、農民、僧、海賊、ありとあらゆる人々に接し、来るべき世が何に拠るべきかを考えたにちがいない。この辺に詰まるところ関が原の戦いで西軍の頭目となった遠因があるように思える。 |