兵が強いだけではどうにも成らない時代

毛利と織田が備中で激突した高松城の包囲戦での禅師の活躍が禅師の成長を端的に物語っている。信長が本能寺で倒れ、その報せが秀吉に届き、にっちもさっちも往かなくなっていた毛利方に停戦案を持ち出す。誓約が成った直後、毛利方は本能寺の変を知ることになる。毛利方は秀吉軍を追走しなかった。それは何故か。

従来の説では誓約を守るのが人倫の道であると禅師が説き、小早川隆景がこれに同調し、毛利方を抑えたとされるが弱肉強食の戦国の世である。このような道徳観で衆を説得することができようか。禅師はこの切羽詰まった状況で小早川隆景、吉川元春をはじめとする毛利重臣に問うたと思う。秀吉が畿内に向かっている。これを追走して秀吉軍を破り、他の織田方の大名と戦い、毛利が京師に旗を建てることは可能性としては充分あるがそれは一時的なことに過ぎず、毛利には天下を治める政治、経済思想などなく、やがて混乱の中で毛利は全てを失うほどに衰弱し、消滅してもよいのかと。信長が推し進めてきた根こそぎの改革と情熱がなければ新しい世を現出せしめることは出来ないことを禅師は理解していた。本能寺の変が起きる9年も前に禅師は信長と秀吉の運命を既に予言しているがこの時、信長の変革を受け継ぎ、実現して行くのは秀吉以外いないと確信があったに違いない。又、禅師自身が考える未来像を秀吉を借りて実現しようという思いがあったに違いない。


余談ではあるが武田信玄もう少し長生きしていれば天下人になっていたであろうという人がいる。これはありえない。なぜなら兵農分離も出来ていない、農業のみを経済基盤とする中世そのままで工業、商品流通経済が著しい発達みせる地域を基盤にもち旧来の世を打ちこわし、新しき世を開こうとする信長に結局対抗出来ないのである。毛利とて京師に信長の死という混乱に乗じてつかの間の旗をたてることは可能であったかもしれないが所詮中世的な同盟関係によって成り立っている毛利の軍制と中世的な社会基盤で天下に静謐をもたらすことはできない。毛利には社会を変えて行くほどの能力も構想も思想もないことを禅師は良く認識していたことは疑いない。
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